ボブ
両親のこと、子どものこと。 時々呟きます。
乳がんになり遺伝性とわかってからのことを少しずつまとめます。
もうすぐ長女が巣立つ。 がんになってから子どもが大人になるまで生きていたいと願った。 でも家を出ていく日を思うと涙が止まらない。 1日でいいから子どもが小さかったあの頃に戻りたいな。 「ママ〜。」って駆け寄ってくる笑顔を、体を、もう1度抱きしめたい。
乳がんになった。もう6年も前だが。世間的には完治と言われる5年を過ぎた。だけどまだ3ヶ月おきの経過観察。いつまでがん患者?死ぬまでがん患者? 正直に言って忘れている時間の方が多い。体重も増え(いや増えすぎだが)どこから見ても健康そうだ。だけどいつまたがんになるかわからない。それは私が遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)だから。 がん抑制遺伝子にエラーがあることでがんになりやすい。乳がんに死ぬまでに70%以上がかかる。卵巣がん、膵臓がん、その他のがんにもかかりやすい。男性
いやや まだあかん いかんといて お父さん お父さん まだあかん まだ弟が来てない お父さん お父さん 父の呼吸が止まった時 肩を揺すって 何度も引き止めた 私をおいていくんか もういってしまうんか 叔母の声が聞こえる 兄が弟に母に電話をつなぐ お父さん お父さん 耳元で叫ぶ 父の閉じた目から 涙が伝う 聞こえてる ゆっくりゆっくり父の心臓が止まってゆく まだ父の気配を近くに感じる お父さん 一緒に家に帰ろう 明日にはみんな揃う お父さん
まだ聴こえる気がする。 私の名前を呼ぶ声が。 最期傍にいたよ。 わかっていたよね。 聞こえたよね。 お父さん。 夏、 子どもたちの劇の台本を書き換えた。 「葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜」 一言ひとことにいろんな思いを込めて。 フレディの叫びは自分の叫びだった。 そんな私にダニエルは言う。 「ぼくたちは葉っぱの仕事をみんなしてきたね。…それはどんなに幸せだったことだろう。」 生きるとはなにか 一生どうやってすごすのか 死んだらどうなるのか 葉っぱの一生、人間の一生、みん
父が逝った。 その日は突然やってきた。 いつもと同じように時折目を開け 手を動かしていた。 昼過ぎ、急に呼吸音が変わった。 「下顎呼吸や。」 Spo2がどんどん下がっていく。間違いない。 看護師がやってきて酸素マスクを付ける。 「かえって苦しくなるんじゃないの?」 聞いても止めてはくれない。病院ルールなのか? Spo2は戻った。家族に連絡をする。 看護師はいない。 私は酸素マスクを外した。 Spo2は下がらないままだった。 「いらないやん。」 でも家族が来るまでの時間を
腎不全になった父に透析をしないと決めて10日が過ぎた。だんだん意識が混濁してきて返事をしなくなってきている。 側にいるのは不思議な時間だ。苦しそうな様子はなくただ眠っているだけのように見える。時折モニターが鳴ってドキッとするが、誤作動も多い。 ゆっくりと時が流れていく。時折声をかけて唇をお茶で湿らせる。私は小さい頃のように父の傍で本を読む。 2人で本屋や図書館によく行った。漫画から小説までなんでも読んだ。父と一緒に本を読む時間は私にとって楽しい幸せな時間だった。離れて暮ら
「今から美味しいもんでも食べに行こうや。」 病院のベッドで父は私と兄にこう言った。 ○緊急入院 腎不全で入院。緊急透析をするかどうかの選択をせまられたと連絡があったのが一昨日だ。 腎臓についてまるで知識のない私は、とにかく調べなきゃと思って情報を集め始めた。 情報は兄伝えなので的を得ない。とりあえず腎臓の数値が悪い。胆嚢炎おこしているのがさらに状況を悪化させているらしい…etc。で、緊急透析ってなんだ? 認知症である父は状況が理解出来ず点滴の管を抜いてしまったらしい。そ
急な訃報だった。 「昨日の朝、心臓疾患で亡くなったそうです。詳細はまた知らせます。」 嘘や… 〇再会 いつもなら会おうと思わないのに、その時はなぜか会わなければいけない気がした。そして、彼からもめったに来ないラインが来た。 「飯おごったるわ。何食べたい?」 30年ぶりに2人でご飯食べてカラオケで歌わずに話したあの日。 笑いながら楽しかった頃を2人で思い出してとりとめもなく話した。それは本当に不思議な時間だった。 「あの頃楽しかったよな。」 「こうして笑って話せる日が
若い頃、よく遊んだ友人が亡くなった。48歳、胆管癌だった。 昨年の夏、亡くなった友人のお葬式で久しぶりに会った。 「俺も同じなんや。次は俺やな。」 彼は笑いながら言った。 「あなたもって聞いた。大変やったんやな。」 私は言葉を失った。 「何弱気なこと言ってんの。あかんで。」 なんとかそう言うと、彼は 「もう手術出来ひんねん。抗がん剤してる。」 とまた笑いながら言った。 それがどういうことか私にはわかった。 それでもたくさん話し、泣き、みんなで友人を見送った。 「またね。」
家族でよく讃岐うどんを食べに香川に行った。 小学生だった子どもたち、赤ん坊だった末っ子。みんなでワイワイしながら車を走らせた。うどんばかり食べて苦しくなりながら、ただただ笑っていたあの頃。 同じホテル、同じうどん屋。 でも今は末っ子と3人だけ。 上2人はもう付いてこない。 エレベーターを待つフロアから見える景色は変わらない。扉が開いたら小さい2人が飛び出してくるような気がする。 今はいない2人の手を繋ぎ赤ん坊だった末っ子を抱いている自分を想像する。小さな声で子どもたち
私はHBOC(遺伝性乳がん卵巣がん症候群)だ。BRCA2に変異がある。それがわかるまでを何回かに分けて書きたいと思う。 乳がんがわかってから何度も「遺伝」という言葉を言われた。最初に診断されたクリニック、友人である医師。私自身、母が乳がんであったから、ずっと意識していた。しかし、「遺伝」の意味を本当にはわかっていなかった。ただ漠然と遺伝なんだろうなと思っていた。 病院で診察を待っている間にスマホでググッた。「家族性腫瘍」…トリプルネガティブであることが多い、何度も再発を繰
長男が巣立って5ヶ月たった。 いないことが少しずつ日常になってきた。 毎朝起きる。 末っ子を起こし一緒に家を出る。 仕事をすませて帰る。 主人と末っ子、私の3人で夕食。 娘はだいたい遅くにしか帰って来ない。そんな毎日が続く。 ラインになかなか既読すらつかない長男だが、きまぐれに返信してくる。 それにすぐ返してもまた既読にならない。 全くもう。 でも、きっと元気にやっているんだろう。 ちゃんと食べているかが心配でちょこちょこ物を送っているが、たぶんうざいんだろうな。私もそ
私のがんは珍しいものだった。 「紡錘細胞癌を示唆する。」 最初読んだ時は深く考えなかった。 がんの種類だろうと診察室を出てから、ググッた。 化生がん 予後不良 進行が早い… 急激に恐怖が襲ってきた。 死ぬの? もしかしてすぐに? 数少ない症例を読むと半年もたたないうちに亡くなっている。 そもそも論文になるくらい珍しいがん。 そんなレアなとこになんで…。 どうしたら生きられるのだろう。 乳がんの治療法はガイドラインに沿って行われるので、病院によって大きく変わるこ
私は三人兄弟の真ん中。 兄と弟がいる。 父にとっては一人娘だ。 反抗期で口をきかない時もあった。 生意気な娘だったに違いない。 それでも可愛がってもらったと思う。 大学で家を離れてからは、 帰省するたびにこっそり お小遣いをくれた。 小銭(500円玉)を缶に貯めて 古封筒に入れて渡してくれた。 私は1万円札よりその重みが好きだった。 給料日前でお金がない時には その500円玉を1枚ずつ使った。 その父も突然の大動脈瘤破裂で 生死の境を彷徨ってから 現実とそうでない世
2018年に乳がんに罹患。 (ステージ1、硬がん、紡錘細胞がん、 トリプルネガティブ) 手術、抗がん剤を終えたら、トリプルネガティブというタイプはする事が無くなる。それは経過観察と言われるもので、完全に治った訳では無い。 そもそもがんに完治はあるのか。 100まで生きて再発転移していなければ、治っていたと言えるかもしれないが、その間不安は消えることは無い。 風邪が治るようにがんが治る時代はまだ来ていない。 1度がんにかかったら、体の不調は全部再発転移の不安につながる。
子どもが生まれた時、この世でこんなに愛しい物があるのかと思った。今までの好きとかとはレベルが違う。ただただ愛しく可愛く、なんとか育てなきゃと必死だった。 毎晩寝る前に、子どもが不幸な目に会わないように、病気にならないように、幸せに長生き出来るように本気で祈っていた。失うことが何よりも怖かった。 だけど私は決して良い母親では無かった。子どもたち…特に長男はおっとりした子で、なんとか1人で生きていけるように最低限のルールを教え続けた。 それは彼にとっていつもダメだしをされる、辛