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aki先生インドネシアで祈る

インドネシア人口の88%以上はムスリムで、クリスチャン、ヒンドゥー、仏教は少数派である。ムスリムたちは毎日毎日朝4時から1日5回の礼拝を守る。なんなら拡声器で町中にモスクの祈りの放送が流れる。生活がそれで終始するから、インドネシア人にとって一番大事なことだと理解しなければならないのだが、日本で生きてきた私にはイスラム教に関する情報が多くない。旧約聖書も少しは読んだから、豚肉とアルコールがなぜ禁忌であるのかとか、肌で理解しているつもりだ。だが実際、ラマダンがあるうえ、ムスリムの女性はヒジャブで頭髪を覆い、肌も露出しないし、更には生理中は慮ってモスクに入らず、1人で祈るのを見ると大変な抑圧だと感じる。ムスリムの男性と結婚したクリスチャン女性は相当期間、ヒジャブができない。いささか排他が過ぎる感があるし、そうまで戒律が厳しいので、行動が他律的になるのも無理はない。日本で自由を謳歌してきた私は、必ず何らかの宗教の信徒でなくてはならないという法律まであるこの国で、どう振る舞うのか。

自分の宗教活動をもう一度振り返って、彼らの立場をその身になって考えねばならない。私はクリスチャンだから、まずそこから考えてみた。

全世界ではクリスチャン人口は33%だが、日本ではわずか1%、日イどちらでもマイノリティである。日本では、私はクリスチャンですと言い切る人にふだん出会う確率は少ない。今までの人生でも数えるほどだ。各地のミッションスクールでも全員が洗礼を受けているわけではない。
この意味では、私はこの国でマイノリティなクリスチャンたちの思いを少しは理解できる気がした。

それから宗派の違いという点を考えてみる。

私の家は曽祖父と曽祖母が1917年(大正6年)にバプテスマを授かった。
祖父も祖母も大叔父、大叔母たちもみんなクリスチャンである。
私の育った家には仏壇も神棚もない。(そういう家はあまりないのではないか。)
家族に所縁の西南学院は、今は幼稚園から大学院まである大きな世帯のプロテスタント系ミッションスクールだが、当時はまだ中学始まりかつ男子校だった。東京から嫁に来て慣れない暮らしの中、母は私たち兄妹を知り合いのいるカトリックの幼稚園に入れ、其の後私はそのカトリックの小学校へ進んだ。それで幼少合計9年間、カトリック漬けになった。

これが私を混乱させた。小学校でミサで歌う聖歌と、家族で折々参加するバプテスト教会の礼拝の讃美歌のメロディーが同じなのに訳詞もタイトルも異なることに、子どもごごろに矛盾を感じた。
カトリックの司祭の呼びかけは、日本語では神父様、英語ではFather、フランスではmon pèreだ。世界中どこでも大体父を意味することばだと思うが、プロテスタントの牧師は、父ではなくBrotherだ。日本では先生という時もある。神学を修めた人で敬われるが恭順されることはない。
そのカトリック小学校でバチカンの名代の表敬訪問があったときも、何日もお辞儀の練習をした。大名行列に備えるのと似ている気がして、例によって生意気なちびアキは、「なんで人を拝むん?」

こうして、口からでる祈り「父と子と精霊と御名によってアーメン」と聖歌「慈しみ深き」はカトリック、家庭に流れる民主主義はアメリカ南部バプティストのもの、大学では聖公会チャプレンに合宿の息災を祈ってミサを執ってもらい、
このままで逝くとすればヨハネの福音の刻まれた墓石の下に曽祖父、祖父母、両親と共に眠る。でも自分と娘の受験の御守は太宰府や湯島へもらいに行く。都合よく神をあれこれ形式的に利用して節操ない日本人、私も言えた義理でない。どうしたものか、未整理のままここまで来た。

そもそも、信仰とは何か、このテーマを、日本では友達ともカレシ達とも話すことができず、ブラッシュアップできないまま、高校生の時はこっそりと一人でクリスマス礼拝に行った。
日本人のカレシ達はクリスマスイブは恋人との日だと思っている。または親切にも女性はそう期待していると思っているから、クリスマスにカレシがいる年には礼拝に行きたいと言えず、モヤモヤした。私はクリスマス用にカレシを確保したい女子ではなく、まずは教会へ行きたかった。普通の人なカレシにはわからないほど、私の思う正しいクリスマスの過ごし方は、あくまでも、Baby Jesusの誕生を祝うものである。宗教なんて、と頭ごなしに吐き捨てるカレシに、ついに打ち明けなかった。特にその頃はオウム真理教の問題もあって、宗教人を全体化してみる人も少なくなかった。信仰心を持つことと、狂信団体に籍を置くことは全く違うことだけれど、当時の私はまだ若くて説明する言葉を持たなかった。

ここインドネシアではムスリムでもみんなバプテストという言葉を知っているのがありがたい。信仰を持っていることで肩身が狭い状況は一転、信仰を持っていなくてはならない。さらに、職場の同僚の先生に子どものagamaはどう考えているのかまで詰め寄られて窮したことさえある。娘が小さかった頃はいつもクリスマス礼拝に連れて行ったが、私は信仰をーー自ら持つべきと思うので、大きくなってからは、本人が望まないので伴っていない。これは父の考えの影響もある。私の家では信仰は個人に属すること、父も二の叔父も死期が迫って初めてバプテスマを受けた。仏教徒である叔母が入れるように、墓石の聖句を削るかどうかで親戚を横断する大議論もあった。


私もヨハネの11章25節の句と共に眠る予定だ

私の家族が属するバプテスト教会の信徒は概して陽気で楽しく、家庭的かつ民主的だ。親戚の次の外側にある大きなコミュニティだった。家族が地球とその衛星だとしたら、親戚が太陽系で、教会は銀河系という感じだ。学校の権威的なシスターからの抑圧が嫌いだった腕白ちびアキは、天にイエス様やマリア様が大天使と共に君臨している感じに疑問ばかり、そこへさらに時代錯誤的に「聖女たれ」という婦徳教育が加わって誠に息苦しかった。5年生ですでに恋愛マンガも描いていた私には、一生涯生きた男性と恋もせず、イエスのみを慕うことを約する人たちが日常外なことに感じられた。学校が靴下ハンカチの色に至るまで不自由で、人には人の好みの色があると思うのに白だけがあるべき色、毎日のクラスの会では腕白アキの素行が弾劾されることもしばしば、どうでも枠の中に収まっていないといけなかった。四方から迫ってくるかのような檻から、心底出たかった。

祖父と曽祖父は戦争中も礼拝を守った5人の信徒のうちの2人である。
そこまで敬虔でありながら、バプテスト教会は受容的で教会員をありのままに迎えてくれる感じが、叔父叔母たちの家に遊びに行った時と同じで、心の抱擁を感じた。いろいろな経緯で曽祖父と祖父母の死後、父は西南学院と距離を置いたが、それでも秋分の日にはバプテスト教会の追悼礼拝に出席した。
彼らは少し怪訝な顔をしつつ、カトリック系学校に通う子どもでさえ受け入れる。それがアメリカ特有の民主主義というか、私の信仰にはジェントルマンシップや民主主義への信仰も含まれていることが今は自覚できる。それらが祖父の恩師であるC. K.ドージャーからもたらされたことも、後で分かった。

それで、インドネシアでもバプテスト教会の礼拝に参列したかった。
…かと言って教会なら何でも良いわけではないから、だいぶ悩んだ。この地のクリスチャンはヨーロッパ植民主義始まりだから、カトリックがメジャーで、プロテスタントのバプテスト派というと日本と同じくらい少ない。その中で西南と似た教会、心の拠り所になってくれる所はあるのか。

まったく偶然日本に住んだことのあるクリスチャンの友達ができて、私が異国で礼拝に出られないでいることに同情してくれてあちこち調べてくれた。彼はカトリックだが、所属教会のない私の心境を察してくれた。彼も日本でそうだったから、と。所属教会のないことを心配してくれた人はムスリムにもいる。私が礼拝に行く代わりに父の形見のペンダントに祈っていることを哀れに思って慰めてくれた。インドネシア人には、異教徒でも、少なくとも祈りたい心は理解されるのだ。

さて、どこかの教会で一旦礼拝に出ると、次の日曜もいらっしゃい、となる可能性は高い。日曜は夕方にも礼拝があって、日に2回も行くことになって忙しい。
水が合わずに行けなくなってしまった時のことを考えると、近いからと、闇雲に十字架がかかった建物に入っていくわけには行かない。教会はある意味、コミュニティの役割を果たしていて、その地域の人の信仰を支えている。「大草原の小さな家」の日曜の朝のシーンのように、家族みんなでドレスアップして出掛け、牧師の説教を聞き、神との対話をするひとときであると同時に、集う家族ぐるみでの付き合いになっていく。インドネシアでもそうだ。

フランスはじめラテンのカトリック国では、教会はゴージャスで見事な文化遺産も少なくないが、私たちが通ったバプティスト教会は、木の床が軋んで、ダルマストーブで暖をとる質素な場所だった。建て替わったいまでも清らかで穏やかな場所だが、瀟洒ではない。十字架にはイエスはかたどられていないし、マリア像もないし、十字を切らない。牧師はローブなどは着ておらず、ドレスシャツかスーツで説教しているし、シスターもいない。ミサの終わりに洗礼を受けた正信徒だけがパンを食べるシーンもない。そういう差別をしないだけでも十分私には民主主義的だ。それで、西南へメールして数少ないバプティスト教会の中のさらにアメリカ南部バプティスト連盟ゆかりの教会を探してもらった。

12/24は尊敬する祖母の命日だし、自分が生涯でただ一度出産した日で、1年で1番大切な日だ。1番思い出の多い日でもある。無信心を認めまだバプティスマ(いわゆる洗礼)を受けていない私でも、いつも何かに護られて生きている感じがするので、それに感謝を捧げたいという気持ちがするし、静謐な空気の中でイエスの誕生を祝う人々と一緒に過ごすと自分と同じ精神コミュニティの人々といられて心が休まるのだ。


祖母の形見の聖書

求めれば通じるもので、何と任地から車で1時間程度のサラティーガに、日本人の宣教師一家が住んでいることが分かり、その紹介でソロ市内にバプティスト教会を見つけてハレルヤ、今年もクリスマス礼拝を守ることができた。そしてやっぱり思っていた通りの人たちがそこにいた。それもイエスの導きであると思うし、もっと言うと、亡くなった祖母が護っていてくれる気がしている。祈る時はそこに行けば良い。

そもそもイエスの行いを考える教育を3歳から9年間も受けると、イエスを否定する発想が浮かばない。かと言って、イエスをいろいろに利用した人々がいろいろな解釈で伝えたがったうえ何かと戦争と結びつき、何が彼の考え方生き方の中でエッセンスなのか、イエスをどんな誰と解釈すべきなのか、本当のイエスの肉声は、語った言葉はどんなであったのか、聖書はもとより本を読んでもわからず、解釈の全ては2次以上の情報で、イエスがそんな偉大ならなぜ人々は血を流して争うのか、私の内面で積年の課題だった。天国へは選ばれた善人しか行けないと、トムとジェリーでさえ教えるが、私は科学的には死んだら無だと思っている。いろいろ矛盾が多く、全てに得心はし難い。

では、なぜキリスト教か。仏教では何がダメか。
イエスは私には小さいときからずっと「居る人」である。イエスは友であり、どんな時も、仮に親や子どもに見放されても、天涯孤独になったとしても、私を諦めない人である。信じる限り居なくならない。つまりは、その存在を私が信じているから「居る人」なのだ。ある時、それを言葉にしてまとめてくれた遠藤周作の著作を読んだ時には嬉しかった。

イエスは頭がいいし、エキサイティングで面白く、かっこよくてセクシーで勇敢である。男前で細身マッチョで、少ししか食べないのに何ヶ月も人助けのために歩く。女性や子どもやシニアにも好かれるが、相手を手玉に取ったりしない。
言葉は明晰で感情をよくコントロールする。いつも正義と人のために何かしている。自分のことだけで精一杯な凡人と違って、汗から血が滲むほどものを考える人である。アメリカでソーシャルワークを学んだ専門学校の先生が、イエスは人類最初のソーシャル・ワーカーと言われている、と、教えて下さった時はストンと心に落ちて嬉しかった。信じている限り、イエスは誰のそばにも居るソーシャル・ワーカーなのだ。ソーシャル・ワーカーの概念は日本ではまだ十分理解されていない。おそらくイエスの行いを知っているキリスト者には理解されやすいと思う。いや、それを知る人が多くないから、ソーシャル・ワーキングの原点となった隣人愛をもとに行われた友愛訪問が理解されにくいとも言えるだろう。マタイの25章にそれが書いてある。私が福祉の世界に入った原点もそこにある。好き嫌いの多かった私は、飢えているベトナムの子どもたちのことを思って出されたものを感謝して食べよ、と父に諭された。小学校低学年だったが、ベトナムの子どもたちが自分に関係ないとは思わず、何とかして食べようとした。私は小さい時から、世界中の全てが何がしかの縁で自分に繋がっていると思っている。見えない遠い世界の人のことだからどうでも良い、という考えだったらインドネシアには来ない。

日本では宗教のことを友達と話さない。マイノリティとして気味悪がられるかもしれないかと、口をつぐんで来た。クリスチャンであると言ったとしても深い話はしない。熱心な信仰を持つと、オウム真理教や統一教会のような教団をイメージする人もいる。今、多くの日本人は宗教を哲学とか倫理学として考え、行動に照らすというよりは、拝んでばかりいる。拝むのと祈るのはかなり違うと思う。

我が身を楽しませるモノを手に入れたり幸運を頼むのではなく、聖書の言葉を解釈し、倫理を行動に反映しようとして、不十分な自分が神と対話を試みる。イエスは自分の身体の外ではなく内面にいる。内面だから拝まず祈るのだが、どう祈るかをイエスに倣う。そのためにイエスがいることを、遠藤周作がわかりやすく言語化してくれていた。

日本のクリスチャンの歴史は茨の道だった。曽祖父は明治12年生まれで、その少し前まで日本は踏み絵行っていたから、夫妻が信徒となったのには(聞かされていないが)、相応の大きな理由があったと思う。夫妻の3人の子どものうち2人はミッションスクールの職員となり、1人は牧師の妻になった。

ブッダも外国人であるし、キリストだけが外国人なのではないのに、おかしなもので、日本ではよい意味でも悪い意味でも、キリスト教をロマンチックにとらえる文化がある。私の家もそもそもバタ臭く、いちいちロマンチックだ。子どもだった頃はわからなかったが、今の日本でいつも自分が少し異邦人な気がするのは、そういう理由かな、と解釈している。アメリカから来たクリスチャンの学生と交流していた時は日本人よりも彼らの方が自分に近い気がした。

信仰を持つ/持たない、イスラム教/キリスト教/仏教/そのほかの教理、各教理の中のさらに教派、そして所属教会、これだけでも相当な選択肢を人は与えられているはずなのが、インドネシアの人々の信教は自発的な選択ではない。生まれながらに親によって選択は終わっている。もし私の家がクリスチャンでなかったら今の自分もないと思う。

日本を離れて神とイエスのことを考える機会を、フランスでもここインドネシアでも与えられて、私の考えはまだ行ったり来たりの矛盾を繰り返しながら、一歩づつ選択の時に近づいている気がする。心の中のイエスの輪郭がまだ不鮮明な私でさえ、神と人間の関係性を考え続けているから、生まれた時からアッラーを信じるように生活の全てがそこから形成されているインドネシアの人々が心に何を思うのか、何をか言わんや、だ。小さいうちから信仰を持つということはそれだけ血肉であり、無意識のうちに行動や判断は深層心理の信仰に支配されているはずだ。ここでのあらゆる活動も、それを踏まえて彼らをどんなふうに尊重するかだと思っている。

ところで、スター・ウォーズで、ジェダイたちは去り際、「フォースが共にありますように」と言うが、「護られますように」が日本のバプテストの別れの挨拶だ。現に、大気、水、土、日光、月光、動物、植物、文化、機械文明、電気、家族、友達、知識、知恵、経験、思い出、時間、お金、私たちは本当にいろいろなものに今も護られている。ついでな話だが、英語のGood byeはGod be with yeから来ている。神共に居まして、の意味だ。つまり、「護られますように」を意訳すると、Good byeになると思う。世界中で今日も人々はGood byeと言い交わしている。

みなさんの日々が護られますように。Good bye.


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