禁飲食

金竜飛は「食えなかった」が、力石徹は「食わなかった」

 5年ほど前に初めて聞いた腸の囁きと雄叫び、腸壁に見出された無数の謎のこぶ、入院、絶食、手術、そして5センチばかし短くなった大腸——。憩室炎という病をめぐって自分の腸に起こったいろいろを記録しながら、あらためて〝食べること/食べないこと〟や〝痛み〟〝不快感〟〝病〟などについて、そしてそれらとの付き合い方について考える連載。2回目は絶食のことを書きます。

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■ のべ約1カ月間に及んだ絶食

 あるかなきかの違和感が右下っ腹の軽い筋肉痛様のうずきへと育ち、「腸の泣き言」が聞こえてくると、その時点で少なくとも向こう数日間の絶食が確定する。腸に何も通さず、炎症がおさまるのをひたすら待つ(「散らす」と表現される)ことが憩室炎の基本的な治療法なのだ。振り返ってみると、私は憩室炎絡みで過去3度入院しそのたびに約1週間食を断ち、その他入院せずに自力で炎症を散らしたのも含めるとのべ1カ月間ほど絶食したことになる。生涯に体験できる食事の回数は限られているというのに、30代前半にしてこの空白期間はほんともったいない。

 一度目の入院時は、 まさかこれを二度三度と繰り返すはめになるとは知らなかったからのん気なもので、 人生初の絶食・入院というイベントへの好奇心すらあった。事実、当時こっそりつけていた入院日記を紐解けば、「空腹が続くと頭が冴えるとかいうけどむしろぼやける」「暇」「口んなかネバネバしてキモい」といった愚痴や院内でのおもしろおかしい出来事、大部屋のほかの患者のことなどが綴られている。
 しかし絶食は一度で飽きるが慣れることはない。当然、二度目の時の日記には苛立ちと苦悩が色濃く表れている。「数日先まで何も食べずに過ごす」という未来を定められた瞬間のあの絶望感、この先何度これを繰り返すことになるのだろうかという不安、食べないでいることのつまらなさと悲しみ、カーテンの向こうから聞こえてくる咀嚼音と漂ってくる匂い。しかも手術を前提としての入院だったのに、主治医の執刀スケジュールが詰まっていたため、炎症を散らしたらいったん退院しなければならなかった。自宅でおかゆとかはんぺんとかを食べたりふらふら仕事したりという、ものすごく無駄で苦痛で周囲に迷惑をかけ気を遣わせまくる数週間を過ごした上で、また入院して絶食して検査して手術した。長い道のりだったなあ。ちなみに、二度めの入院の日は憩室炎にならなければ旅行に出発する予定で、妻は妊娠約8カ月だった。昔から間の悪い男、とよくいわれるがもはや何ひとつ言い返せない。

■ 矢吹丈vs金竜飛

 さて、手術で腸を若干切って捨てたことはひとまず置いて、以上のような「食べない日々」に思い出した矢吹丈vs金竜飛戦について書いておきたい。

 いわずと知れた名作『あしたのジョー』終盤の一戦である。南海の黒豹カーロス・リベラとの死闘を演じた後、連戦連勝を続けるジョーが挑む初めての冷ややかなタイプのボクサー、東洋バンタム級チャンピオン金竜飛。それまで対戦相手の闘争心に共鳴するように爆発的な底力を発揮してきたジョーは、このコンピューターのような感情持たぬ化物を怖れる。

▲ 「勝てっこねえ!」「奴は燃えてねえ!」

 それでも、自らの野生的本能が正確無比なコンピューターを狂わせる可能性に望みをかけ、いっそ開き直ろうとするジョーだったが、他ならぬその本能が「勝てない」と呟き続ける。どうしても正体不明の不穏な暗雲が晴れない。そして試合当日、その暗雲の向こうに潜むある事実が明らかになる。過酷な減量の末かろうじて計量にパスしたジョーがちっぽけなステーキにかぶりついたその時、金竜飛が現れてこういうのである。「うわさに聞いたほど、きみはハングリー・ボクサーではないな」と。

▲ サウナで下剤を飲んでまでがんばって減量

▲ ちっぽけなステーキ。超うまそう

▲ 金竜飛、登場。意外と饒舌

 金はジョーの前に腰を下ろし、一杯のレモンティーを注文する。激しく体力を消耗する対戦当日にもかかわらず、「けさ早くにビスケットと半じゅくのたまご、それにくだものをすこし食べた」だけで、もう何もいらないという。「ちいさいころから飢えに飢えきった長い年月がわたしの胃ぶくろをちいさいままにちぢめてしまったのだ。かなしいかな許容量がきめられてしまったのだ」と。

「なぜ」と問うジョーに一言、「戦争だよ」。そして語られる幼少時代のおぞましい事件。1950年に朝鮮戦争が勃発して間もなく、母が死に兵隊の父は行方不明に。幼くして戦災孤児となった金は、極限まで腹をすかして廃墟と化したふるさとをさまよい、奇跡的に食料の包みを見つける。そして、その持ち主とおぼしき瀕死の兵士の頭を石で叩き割ってこれを奪う。

 こうしてなんとか命をつないだ金だったが、すぐに恐るべき事実が発覚する。自分が叩き殺した男は、なんと妻子に食料を届けたい一心で軍隊を脱走した実の父だったのだ。

 知らなかったとはいえ、ほんのわずかな食料のために自分の父親を石で叩き殺したトラウマのせいで、以後金は思うようにモノを食べられなくなり、胃袋はどんどん縮んでいった。「許容量がきまってしまい、なにを食ってもすぐに満腹してしまう。したがって血となり肉となる消化量もきまり体重増加の心配などしたくともしようがない」という。

減量苦だと?はっ そんなものわたしにいわせるなら、すくなくとも過去に腹いっぱい食った時期があり、だらしなく胃ぶくろをひろげてしまったやつのぜいたくさ
ボクシングの世界は弱肉強食だって?ノーノーままごとだよ。ままごとなればこそ、わたしはいくらでも冷静におちついて、しかも徹底して残酷につめたく最後までリングをつとめることができる
ボクシングはじつにのどかな平和な世界なんだよ、わたしにとっては

 ジョーは「氷の男」「戦うコンピューター」を作った凄絶な過去に打ちのめされ、ほとんど戦意喪失してしまう。無理な減量がたたってフラつく足元で、それでもリングに上がる。

 案の定、試合はのっけから金優勢。ジョーは一方的にボコボコにされ、何度もダウンしてしまう。この最悪な苦境から彼がどうやって脱したか、どうやって勝ったか。『あしたのジョー』を読んだことがある人は、皆その展開に驚いたのではないだろうか。

 一言でいえば、その勝因は思考の転換。自分の内側で〝考える〟ことだけでジョーが勝負をひっくり返した、その軌跡を辿ってみよう。

 勝てない、と確信しながらも「どういうわけかこいつにだけは死んでも負けちゃならねえという、へんな意識」だけをよりどころに、何度も立ちあがるジョー。しだいに「かれの目がまだ生きている」と不安になりはじめる金。そしてインターバルの際のある出来事をきっかけに、ジョーは力石のことを思い出す。かつての最大最強のライバル、自らの意志による極限の減量で2階級分も体重を落とし、男どうしの決着をつけに来たあの力石を。そして、ジョーは何かを悟ったようにこう呟くのだ。

「力石も飢えていたんだよ」と。

 ここからのジョーの飛躍がすさまじい。いはく、「ひとにぎりの食料のために親を殺した金はまだしも水だけはガブのみできたろうが、力石は『水さえ』ものめなかった!」

さらに、「しかも金は『食えなかった』んだが、力石の場合は自分の意志で『のまなかった』『食わなかった』!」

そして「なんのことはねえ!死の寸前の飢えがなにも絶対じゃねえ!」と叫ぶ頃には、いつの間にか金をビシバシ殴りつけている。

「みずからすすんで地獄を克服した男がいたんだ!おなじ条件で!人間の尊厳を!男の紋章ってやつを!つらぬきとおして死んでいった男をおれは身近に知っていたんじゃねえか!」

ベキッ!

 そしてジョーは勝った。ほとんど戦意喪失していた状態から、ひとりの男を思い出し考え方を変えたことで格上のチャンピオンを倒した。技も体力も戦術も関係なく、自分の頭の中の孤独な精神的作業だけで状況を打開したのだ。

■ 力石は飢えていたが、憩室はなかった

▲ ジョー自身以外、誰もなぜジョーが金に勝ったのかがわからずポカン

 私がこの金竜飛戦のくだりを読んだ中学生当時、学校に「精神一到何事か成らざらん」を強調する教師がいた。気の持ちようでどうとでも難局を乗り越えられるという精神論が嫌で苦手だった(普段はいい先生)。なのに、不思議とこのジョーと金の戦いの顛末には奇妙な感動にふるえ、すがすがしい気分にすらなったのをよく覚えている。

 絶食の最中、私は「食わなかった」んじゃなく「食えなかった」から力石に劣るという独特のロジックでジョーに罵倒された金竜飛のことを思い出した。そして試しに「そうだあの力石は食わなかったのだ」と心の中で呟いてみた。「自ら食わなかった力石に比べて、私の食えない状況が何ほどのことか」と奮起しようとした。しかし無理だった。そんな気持ちのよい思考転換はできなかった。それどころか、「力石は腸に無数の謎のこぶなんてできてなかったから、男どうしの神聖な戦いとやらに没頭できたんじゃないか!食べられるのにあえて食べないで空腹に苦しむなんて、贅沢な悩みですなあ!!!」とクサッた。

 もちろん、その後ようやく病院食が出るようになってから、これが頭のぼやけた病人の妄言だったとつくづく反省し、恥ずかしくなった。〝贅沢な悩み〟は自分の方だ。絶食とはいえしっかり点滴で栄養を得て現代医学に見守られていたくせに、「あれが食べたい」だの「おなかすいた」だの「つらい」だの、アホか。世の中にはもう一生何も食べられない人だっているし不治の病で死んでいく人だっている。災害にあって家に帰れず眠れぬ夜を過ごす人だっているのだ。そういういろんな苦しさ辛さを普段は想像もしないくせに、自分の腸にちょっと謎のこぶができてモノを食べられなくなったくらいでぶつぶつと。ああ弱い、ああ情けない自分。ああいやだ——。

 これまた病人らしい弱気の戯言だが、私の苦笑いはすぐに冷や汗まじりの「ギクリ」に変わった。絶食が辛いとか苦しいとかいう以前に、抗生物質がない時代ならこの病で死んでんじゃん自分。淘汰されてた側じゃん。そう思い至ったのである。とにかく、生きててよかった。とりあえず、それで十分。

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