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元吹奏楽部、突発性難聴から7年①

近年何人かの著名人が公表している突発性難聴。
私が突発性難聴になったのは、忘れもしない高校2年生の文化祭2日目。

前日の文化祭1日目の夜、私は38度を超える発熱をした。
「このまま休むわけにはいかない」
私の所属していた吹奏楽部はパートの人数がギリギリの小編成。
毎日練習したものを不意にはしたくない。
その思いで解熱剤を飲み込み、翌朝熱が引いていることを祈りながら眠りについた。
文化祭2日目の朝。
熱は見事に平熱へ。多少の怠さは残るものの、何とか1日いけると思った。

違和感に気付いたのは、文化祭のステージに立ち、1曲目を演奏した時。
何か、いつもより合奏の音が小さい気がする。
本当にそれだけの違和感。
「先輩、今日みんな音小さくないですか?」
隣にいる先輩にそう尋ねたのを今でも鮮明に覚えている。
「そう?いつもと変わらないと思うよ?」
先輩の返事に1日首をかしげながら過ごした。
昨日熱出したから、きっとまだ本調子じゃないんだ、そう思いながら。

違和感が確実に変わったのは、それから日曜日の休み、月曜日の体育祭、その後の休みを挟んで1週間近く経った時だった。

久しぶりの部活。
久しぶりの基礎合奏に定期演奏会の練習。

やっぱり何か音が小さい気がする。

本当にそれだけだった。
周りの音が小さく聞こえる。自分の楽器の音が少し大きく響く。
周りの音に会わせづらい。

私は本で知っていた。耳が突然聞こえにくくなる病気があることを。
そして同級生の「病院行った方がいいんじゃない?」の言葉に背中を押された。
その子も、私と同じ本で病気の存在を知っていた。私よりその病気を疑ってくれた。

顧問には渋い顔をされながら、翌日部活を休み、病院へ向かった。

ここで告げられたのが、「左耳の突発性難聴」だった。

物の見事に左側だけ、聴力を示すグラフの値は下がっていた。

なぜか驚かなかった。
・発祥から2週間以内に治療を開始する必要がある
・治る人と、治らない人と、症状が残る人にわかれる
これを事前に知っていたからかもしれない。
2週間以内だ。そう思った。

突発性難聴の治療法は、安静にすること、服薬治療、重症度によっては点滴や入院もあり得るらしい。
私は耳鼻科の主治医に、安静にすること、1週間服薬治療で様子を見るようにと言われた。
部活のことを伝えたら、やめておいた方が良い、そう言われた。
時期が時期なので、体育の水泳の授業も見学するように言われた。

定期演奏会、どうしよう。
そんな心配も虚しく、顧問には安静にすることを認められなかった。
「みんな頑張っているでしょう。今休むなんてできると思うの?定期演奏会どうするの。1人だけ休めないでしょ」
そう言われた。そういう文化だった。
反論はしたが、変わらなかった。これ以上はこわかった。耳が聞こえなくなる可能性があることよりも、目先のことが、私はこわかった。

通院は毎週のように続いた。
顧問や部員に渋い顔をされながら、毎週、もしかしたら数日おきだったかもしれない。当時の通院頻度は何もかも忙しすぎて覚えていない。通院して、聴力検査で聴力が戻りますようにと念じながら、背後からのシンバルやトランペットなどの大音量を聞いていた。

左側が聞こえない。
片耳が聞こえているから大して変わりないだろう、そう思っていたが大違い。
それは、道を歩いていても後ろからの車や自転車の存在に気づけない、左から話しかけられると反応できない、授業の声が聞こえにくい、自分の声量がわからない、自分の声さえ籠もって聞こえる、何より部活も思ったようにできない、そんな生活だった。

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