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母が亡くなるちょっと前、ぼくは留年をして、民間療法を憎み。そして亡くなったあと生姜焼きを食べて泣いた

私が大学4年生の8月に母が亡くなった。悪性リンパ腫だった。家族の数だけ死別があるので、別に珍しいことではない。ただ少し早かっただけで。

母の死を想って泣くことは今はない。「時間ぐすり」とはよく言ったものだ。

しかし母の死の悲しみと一緒に、記憶もまた失われていくのは寂しいものだ。なのでいくつか当時の思い出を書き残したいと思う。

幸い8月は、母のことを思い出すのにいちばんよい季節だ。


1)8月の生と死のコントラスト

私の母の病院は、群馬の山奥にあった。伝染病患者が隔離された歴史を母は嫌っていたけれども、専門医がいる都合上そこがベストではあった。

私は看病のため毎日車で30分、山道を通った。

病棟では病み衰えた母がいるだけで憂鬱になるので、生命あふれる夏の山道のドライブはちょっとした息抜きでもあった。

生い茂る木。輝く空。鳴り響く虫の声。

とくにセミの声は大きい。都会もうるさいけれども、群馬県の榛名山で体を震わせるセミたちの音量は尋常ではなかった。

「セミの命は、儚い」というけれども、いま尽きようとしているのは母の命で、ひょっとしたらセミより先に彼女は逝くかもしれない。むしろセミのほうが元気に生を謳歌しているようにみえた。

世界ははじけるくらい熱く元気なのに、母だけが冷たくしぼんでいく。8月の生と死のコントラストは残酷だなと思った。


2)留年

私は母の看病のために就活をやめ、大学を留年した。

それを知ったとき彼女は「私は悪い母親だね」とだけ言った。

就活が面倒だった私は、果たして働くことから逃げているのか、看病したいのかわからないままで、ただ首を振った。

ナースからは「留年してまで親の看病をする孝行息子」と言われることが多くて、内実、そんなに立派なものではないと恐縮だった。

ただそのおかげで、母と最後に過ごす時間がたくさん取れたのはよかった。

自分のためにも母のためにも良かった。偽善か善か不明瞭でも、善は善だなと今となれば思う。

少なくともあのとき大学卒業を優先していたら、今にいたるまで後悔していたのは間違いない。生涯年収がいくら違ったかわからないけれども、いまもし母に会えるなら1000万円だって出せるし、出しても会えないのだから。


3)民間療法

母が病気になってから、たくさんの怪しげなキノコだの水だのを売りにきた人がたくさんいた。

いずれも「ガンに効く」という触れ込みの、民間療法商品だ。

「効けば儲けもの」とか「治った人がいる」といった彼らの言葉に私は「本当にそんなものが効くなら、製薬会社が競って研究するだろうし、成分を抽出して特許を取るのでは」と反論した。

するときまって嫌な顔をされるか、「屁理屈ばっかり言って、お母さんが可哀想でしょう」とたしなめられるかどちらかだった。

バカが多い環境では正論を言っても「気難しい理屈屋」あつかいだ。「冷たい」とさえ思われたに違いない。

群馬は好きだし田舎はほっとする。でもいちばん嫌いなところはこういうところだ。

ただ当の母はそれらを買わず、もらったとしてても手をつけずに放っていた。

余命を知りつつ、折れそうな心でも知性を曲げない母は凄いなと思った。


4)痩せた手でたたむ

母の入院中、自宅に帰ると部屋がきまって暗かった。いつもライトをつけていた人がいなくなったのだから当然でもあるし、やはり家族が欠けた家というのはどこか、雰囲気は変わるものだ。

だから逆に母が一時帰宅したときにはすこし家は明るくなった。

ただ母が、ガリガリの体で、痩せた手でゆっくりと家族の洗濯ものをたたんでいるのをみたとき、胸が潰れるような思いで「ぼくがたたむから」と辞めさせた。

そんなになってまでも家族のために労働しようとするのが。いたたまれなく、申し訳なかった。

「いてくれるだけでいい、あなたがいるだけで家は明るくなるから」と言ってあげればよかったと、今にして思う。

5)心電図

母が危篤になったとき、心電図のモニターだけを見ていた。

これが止まったとき彼女はいなくなる。私をはじめて抱き、私の手をはじめて握った人がこの世から消えるのだ。

止まって欲しくないと思いつつ、心のどこかで時が過ぎるのを待つような、この苦しいときが終わるのを求めているような不思議な時間だった。


6)空気嫁

お葬式で父に「ま、新しい嫁さん連れてくればいいがね」と言ってた人がいた。どうやら神様は死なす人を間違えたようだった。


7)生姜焼き

母が亡くなったあとも、彼女が結んだ紐だったり、冷凍した食品だったり、書いた字などがまだ家の中に残っているのが不思議だった。

母はいない。だけれども母の触ったものはまだ家中に残っているのだ。

試しに生姜焼きだったかを解凍した。まぎれもなく母の味だった。醤油とソースのミックス的な。

ただこの生姜焼きはもう二度と食べれない。固く縛られた紐はほどいたら、固くなくなる。

この世界から『母の手が触れたもの』が減りはしても増えはしない。

それをあらためて思い知った。

僕が一番泣いたのはこの生姜焼きを食べている時だったと思う。


8)余命 90日

私が上京したときに母と過ごせる日数タイマーは「90日」を切っていた。大学1年生のころの母は健康だったけれども、それでも4年後に彼女は死んだのだ。

私の群馬からの旅立ちの日、母はわたしを手放す寂しさに泣いていて、私や父は笑ったけれども、いまになれば母の方が正しかった。

余命が90日だと知っていれば私も泣いていた。

9)夏になれば

青い空にそびえる入道雲、セミの声、立っているだけで流れる汗、そんな8月に私は決まって母を思い出す。

思い出すのは、劇的なシーンよりむしろこういった、凍った生姜焼きだったり、洗濯物を畳む手だったり、あやしげなキノコだったり。そんなことばかりなのだが。


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夏の思い出

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