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【掌編小説】お婆ちゃんの手と、銭湯と。【2000字のドラマ】

何も考えずにだらだら生きてきたと思う。
穏やかで退屈な日々。
世界的な感染症の蔓延で、それがプッツリ断ち切られて、不気味に静かな春だった。

でも俺は、別に不安じゃなかったんだ。職場は臨時休業になったけど、幸いしばらく補償はあるし、降ってわいた長期休暇に浮かれてさえいた。
そうだswitch買おう。キメツも見よう。もともとインドアを極めたこの俺、人と会わなくても全然平気……。

だけどなぜか体が重い。何もしたくない。
昼過ぎまで寝て、やくたいもないソシャゲで気付けば日が暮れる。
これじゃいかんとわかってるのに、その焦燥感も水の向こうみたいにぼやけてる。

そういえば、同僚に挨拶もしないまま休みになってしまった。皆どうしているかと思ったけど、考えてみれば連絡先を知っているほど仲の良い人もいなかった。
それなら実家の様子でも見るかと思っても、親は「今は来るな」と言うばかり。

仕方ない、それじゃあ何しよう……。
あれ? 何しよう?
あれ? 何もすることない?
ていうか何もしたくない?
あれ? もしかして俺って何にもなくね?

まずいと思った。
とにかく外に出よう。「立ってみて歩く」とトミノカントクも言ってたし……。

昼日中、春の陽光に照らされた静かな町をとぼとぼ歩いた。
頭の中はからっぽで、何も考えていない。考えることを思いつかない。
コロナはつながりを断絶するというけど、つながりと呼べるようなもの、俺はもともと持っていなかった。それに気づいてしまった。
俺はうつろだった。

5月も終わりに差し掛かるころ、緊急事態宣言が解除され、仕事も徐々に再開していた。
とはいえ以前までとは程遠い。人数制限でがらんとしたオフィス、表情を隠すマスク、皆、無言で自分の作業をして、冗談みたいな短時間で帰される。お互いほとんど目も合わない。
一人で閉じこもっていた方が、まだ気が楽だった。

力も時間もあり余っているのに、何もやる気がしないから、仕事帰りにふらふら歩いた。
ある日の帰り道、ふと古びた銭湯が目に入った。
暖かさというものに飢えていたのか、普段なら見向きもしないそののれんを、そっとくぐった。
中は意外と新しくて、番台式じゃなくフロントと休憩所がある。
おじさんにお金を払うと、お釣りは無言で返ってきた。タオルとシャンプーも買ったけど、シャンプーは中に備え付けてあった。
お客さんは一人もいなかった。
マスコットがポスターで「黙浴にご協力ください」と謝ってる。モクヨクって冷水のことじゃなかったっけ。
お湯は熱かった。人の家のお風呂を借りているみたいで、なんとなくすぐに出てしまった。

脱衣所でほてった体を冷やしていると、テレビに小さいお婆ちゃんが映っていた。夕刻のニュース特集のようだった。
老人ホームらしい。
面会の制限が解除され、家族が会いに来たところだった。
娘だというおばさんは完全防備で、ほとんど素顔も見えない姿だったけど、会えるに越したことはないだろうな……と、俺はぼんやりそれを見ていた。
お婆ちゃんは嬉しそうだった。けれど、ふと怪訝な顔をして、娘に向かって

「どなたでしたっけ?」

と言う。
わかってなかったんかいと俺は笑ってしまう。画面の中のおばさんも笑いながら、
「〇〇子よ」
とお婆ちゃんの手を握った。
その反応は劇的だった。

「〇〇子? 〇〇子かい?」

と言うや、ゴム手袋をしたおばさんの手を両手で包み、祈るように自分の額に押し当てた。
お婆ちゃんの手はふるふると震え、そこにどれだけの力が(それとも気持ちが)こもっているのかがわかった。
おばさんは、もう片方の手でお婆ちゃんの背中をずっとなでていた。

外に出ると、体のほてりはましになり、けれど胸がもやもやしている。
親子の姿が目から離れない。
あのお婆ちゃんは少し認知症もあるようだった。今日のことも、すぐに忘れてしまうかもしれない。
けれどお婆ちゃんの心は、娘さんに伝わっただろう。
あの手の力は、温度は、おばさんの手に伝わった。いずれお婆ちゃんが亡くなっても、そこでお婆ちゃんの心は生き続けるだろう。
あれはつながりだ。
あれは触れ合いで、ぬくもりだ。
あれは今、俺にはないものだ。
だからもやもやするんだ。そう思った。

だけど、もやもやが取れないまま帰宅して、コンビニで買った夕食を食べて、歯磨きしながら鏡を見ているとき、気付いた。自分を見て。
ああ、今ここにあるじゃん、と。
お婆ちゃんの気持ちが、今ここにある。
俺の胸のうちにも伝わっているじゃん、と。
このもやもやもまたぬくもりで、つながりじゃんと。

つながりって、伝わるんだ。触れ合わなくても、そばにいなくても、知らない人からでさえ。

伝えたい。このもやもやを、このぬくもりを、俺も誰かに伝えられるだろうか。

明日、同僚に声をかけよう。それができなくても、目を合わせてみよう。
銭湯のおじさんに挨拶してみよう。「良いお湯でした」と言ってみよう。
それで多分、きっと、何かがつながり始める。

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