見出し画像

サングラスと、ハンチング帽


「俺はなんでこんなとこいるんだ?」

86歳になる祖父が、病院のベッドで虚ろな顔をして言った。
たった1人の祖父が、今際の際にたっている。

祖父は、わたしにとっての最後のたった1人のじいちゃんだった。

母方の祖母は、わたしが生まれる前に。
父方の祖父母は、わたしがまだ幼いときに。
みんないなくなってしまった。

父方の祖父母には、お葬式で最期の「ばいばい」が言えた。
わずか4歳でお葬式の挨拶を任された私は、頑張って覚えた文章を忘れ、思い出すまで喉の調子を整えているフリをして「えっほん、えっほん」と5~6回咳払いをしてごまかしていたという。我ながら可愛いもんだ。

母のお母さんは、母が33歳のときに60歳でガンを患い亡くなっていた。
全身に転移し、骨にまで転移しているにもかかわらず、最期まで全く痩せ細らなかったため、本当に全身転移しているのか信じられなかったという。

骨もしっかりと残っていたそうだ。男性用の骨壺に、ちょっとずつ骨を砕いて入れなければならないほどに。
なんて強靭なばあちゃんだったのだろうと、当時の私はめちゃくちゃ感心した。


わたしには父親の違う姉がいて、姉には旦那さんがいて、幼い娘がいる。
なんだか、祖父が「ひいおじいちゃん」という実感が未だにわかなかった。

まぁ、わたしが9歳のときにはすでに姪と甥がいて、たった9歳で叔母になり、祖父もひいじいちゃんになっていたのだが。
ちなみにこの姪と甥はもう1人の姉の子だ。

甥と姪たちは、じいちゃんのことを「おっきいパパ」と呼んでいた。

じいちゃんは、父、姉、姪・甥たちの顔を見てもうっすらとしか記憶がないようで、名前も覚えておらずまるで赤の他人接するようだった。
それなのに、わたしのことはしっかりと名前も覚えていた。
病室に行くと、横たわっていたじいちゃんはにこっと笑って「来てくれたのか」と嬉しそうに首をこちらの方に向けた。

それだけで、胸をぎゅうっと鎖で締め上げられるような痛みがあった。そして、わたしを覚えていてくれたことがたまらなく嬉しかった。


7月2日

「祖父が危篤状態になった。」
その連絡が来たのは、20時過ぎのことだった。

私たち家族はすぐに駆けつけた。
人工呼吸器をつけて生きるか、自然に任せるか、という選択だ。
もう少しだけはもつと思っていたらしく、 あまりにも突然なことで病室で説明を聞いて戻ってきた母はティッシュ箱を抱えて泣いていた。

相当な頑固&負けず嫌いが作用し、人前で絶対に泣いてなるものか精神の滅多に涙しない母が泣いているのを見て、私は相当動揺した。
もちろん、じいちゃんがこの世からいなくなる、というのでぽっかり空いた空洞もあった。さらに母が泣く姿を見て、その空洞から何か黒いどろどろしたものがじわじわと侵食してくる感覚があった。
あれはきっと、恐怖と悲しみと喪失感をぐちゃぐちゃに混ぜたようなものだったのだろう。

母は本当に悩んでいた。姉家族も呼んで家族会議が開かれた。
人工呼吸器をつけてしばらくは生きることが可能だと、お医者さんからは説明されていた。
だが、うっすら目を開け閉じすることしかできず、管に繋がれ生き長らえさせられることになる。
この世でたった1人の親だから、まだ生きていてほしい、でもそんな風にさせてまで生きさせるのも心苦しい。
母は、本当に断腸の思いだったのだろうと思う。

かなりの苦悩の結果、最期はみんなで看取ろうということになった。

短大生だったわたしは、講義の合間を縫って父と一緒に病室に通い、姉は姪を連れて仕事の合間に来たりしていた。
母はもちろん出来る限り付きっきりだった。
日に日に痩せ細り、大きく見えたはずのじいちゃんはどんどん小さく見えていった。呼吸器を外した口は息を吸おうとずっと空いていて、目はほとんど開いていない。たまに目の端から、涙がこぼれていた。きっとじいちゃんも辛かったんだろう。母に何か伝えたくて口が動くときもあった。
でも、そこから発せられるものは何もなかった。

午前10時


講義の最中にスマホのバイブが鳴った。一瞬で体が強張った。嫌な予感がしたからだ。
母から、「じいちゃんが息を引き取った」と涙声に聞いたわたしは教室を飛び出した。事務の人に事情を伝え、一刻も早くじいちゃんの元にいかねばと走った。足がもつれるので、靴を脱いで泣きながら走った。申し訳ないと思いながらも病院の中も走った。なんせ入り口から遠かったから。


病室につくと、母は見たこともないくらい泣いていた。当たり前だ。
父方の祖父母を亡くしたときは物心がつくかどうかくらい幼かったので、「もう会えないの?」というので泣いていたが、今度は全く違った。

じいちゃんとあまり一緒にいられなかった、悪態をついたこともあった後悔、数少ない思い出が駆け巡り、もう二度と会えないというとてつもない喪失感、間に合わなかった、最期に「今までありがとう。これから私頑張るから」の言葉を伝えられなかった絶望感が一気に押し寄せてきて、わたしはわたしの形を保つので精一杯だった。


いっぱい泣いた。もう目を開けるのことのないじいちゃんの、冷たくなってしまった手を握りながら。
小さいときに手を繋いでくれた、少ししわしわの温かかった手と笑顔を思い出しながら。

声が届かなくなってしまったじいちゃんに、最期に「私これからも一生懸命頑張るから」が言えた。

オーケストラでトロンボーンを演奏し、指揮者もしていて、書道にも秀でて、自衛隊でも射撃の腕がピカイチで、陸上競技も得意で駅伝、国体選手だったじいちゃん。スタイルも良く何をやってもかっこよくて、追っかけのファンも沢山いたと聞いている。
私の尊敬する、大好きな自慢のじいちゃん。


じいちゃんがいつも身に付けていたサングラスと、ハンチング帽。いつも吸っていたタバコ。

今でもふと、じいちゃんのいた部屋からかすかにタバコの香りがする。
そんなときは、もしかしたら尻を叩きに帰ってきているのかも、なんて笑いながら話をしている。


ああ、もうそろそろ、じいちゃんたちが帰ってくる季節だ。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?