見出し画像

芸術作品の解釈と法の解釈は似ている

美術史と法律が好きなぼくに、これほどまで響いた言葉はなかった。この2つの世界を繋ぐ「解釈」という営み。解釈を通じて、人は自分自身と出会うことができる。

この考え方を教えてくれたのは、「法哲学」という有斐閣の本(以下「本書」)だった。法学や人文科学の書籍を扱う出版社の大家に、ぼくは自分の関心領域の最大公約数を教えてもらった。

解釈とは

まずは「解釈」の一般的な定義を見てみる。

文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること。また、それを説明すること。「古文のー」「悪くー」(広辞苑〔第6版〕)

この「受け手の側から」という点が、解釈を「理解」と隔てる要素だと思っている。「理解」の一般的な定義は、これも広辞苑によれば「物事の道理をさとり知ること、意味をのみこむこと、物事がわかること」や「人の気持や立場がよくわかること」だ。いずれも対象をそのまま自分の中にダウンロードすることであって、受け手としての補完や修正は求められていない。存在するのは、再現すべき答えとその精度だけだ。この点で、理解とは極めて受動的な行為だといえる。

一方、解釈は「受け手の側から」対象を再構築することであり、上の表現に倣えば、そこには受け手としての補完や修正が含まれる。理解とは異なり、受け手の創造的なアレンジが期待されている。

本書は、解釈を次の3つに区別する。

・会話の解釈
・科学の解釈
・芸術作品の解釈(構成的解釈)

会話の解釈は、相手がその言葉どういう意図で言ったのかを探求することとされる。例えば、相手が「結構です」と言った場合、その人が承諾したのか拒否したのかは、文脈を踏まえて探らなければならない。相手の真意を探る行為であり、解釈というよりは理解に近い。

科学の解釈は、データが何を示しているかを探求することだ。例えば、気温の上昇が温室効果ガスの増加あるいは海水の影響等の影響によるものかを探求する。自然現象の因果関係という鎖の姿を明らかにする行為であり、その鎖は見えていないだけで存在はしているから、これも理解に近いといえる。

なお、断るまでもなく、これらはいわゆる法解釈の分類である文理解釈や論理解釈(拡張解釈、反対解釈、類推解釈…)とは視点が異なる。論理解釈について考えてみたいことはたくさんあるけど、一旦ここでは置いておこう。

芸術作品の解釈

芸術作品の解釈を考えてみる。絵画や小説などの芸術作品には、必ず作者の意図が込められているため、芸術作品の解釈とは、作者の意図を解明することだとする考え方がある。

一方で、ロラン・バルトが『作者の死』(1967年)という論文で指摘したように、「作者は作品を支配できず、読者に解釈を任せなければならない」という考え方も強く存在する。作者(創造者)の手を離れて独立した一つの客体となる以上、そこに作者は存在せず、作者は死んでいると考える。存在するのはメッセージの受け手である読者(鑑賞者)だけであり、すべては読者の解釈に委ねられているとする。

ぼくは美術の専門家ではないし、この論争に深く立ち入ると出てこられなくなるので、これ以上は詳しくは書けない。ただ、この記事のテーマを書き進めるにあたっては芸術作品の解釈を定義する必要がある。

何がそれを芸術作品たらしめるかを考えた場合、どれほど作者が「これは芸術だ!」と意図してもそのようには受け容れられない作品が圧倒的多数であるという事実に鑑みると、芸術作品であることを決するのは読者(鑑賞者)だという説明には相応の説得力がある。この点について、本書も次のように述べる。

芸術作品を解釈するとき、作品の意味はその作者の意図には還元できず、解釈者が持つ芸術についての考えを含まざるを得ない。(275頁)

タイトル画像に使ったカラヴァッジョの「聖マタイの召命」(1599-1600年)が良い例だろう。バロック期の代表的なイタリア人画家が描いたこの作品を巡っては、その後数百年に渡って解釈論争が続いている。画面右側から差し込む光明を背に、弟子となるマタイを召命する瞬間を描いた作品とされるが、画面左側にいる複数の人物のうち、誰がマタイなのかに関する議論は現在もなお決着を見ていない。左手で自分を指差しているように見える髭の男性がマタイか。いやよく見るとその指先は一番左で俯いている若い男性に向けられているようにも見える。これまで鑑賞者は、カラヴァッジョがこの絵で実現しようとした目的に照らし、様々な解釈を試みてきた。

作者であるカラヴァッジョの真意は明らかではない。識字率の低かった当時の欧州において、宗教画を中心とした絵画がメディアの役割を果たしていたことを考えると、作者の意図が絶対だという主張も理解できる。しかし、教義の解説や宗教的神秘の伝達という目的は、結局は、受け手である鑑賞者の解釈によって実現される。写実性と物語性を両立させた作者の卓越した技術もさることながら、多くの鑑賞者に多くの最善の解釈を許しているというその事実こそが、この作品を芸術たらしめている理由の一つであることに議論の余地は少ないだろう。

そこで以下では、芸術作品の解釈とは、「その対象に目的を課して、これが属すると想定される芸術の最善の一例となるように提示すること」(本書278頁)だと考える。やや抽象的な言い回しだが、人が創造したものを対象とする点で上に述べた科学の解釈とは異なり、創造者(作者)の意図を考慮しない点で会話の解釈とも異なる。本書は、このように目的に照らして対象を最善のものとして理解しようとすることを構成的解釈と呼称する。

繰り返しになるが、ここで重要なのは、作品が創造者からは独立した客体として扱われ、その解釈を左右するのは、当該芸術の目的についての読者(鑑賞者)の考えだということだ。本書に度々登場する米国の法学者ロナルド・ドウォーキンの言葉を借りれば、「解釈とは本質的に目的の報告である」ということになる。解釈には、解釈者の是とする目的が反映されている。

法の解釈

続けて、法の解釈を考えてみる。この記事のタイトルのもととなった部分を本書から引用する。

法の解釈は、社会実践の解釈の一例として位置づけることができる。法以外の社会実践としては、例えば礼儀作法がある。結婚式の二次会に呼ばれてどんな服を着ていけばよいかを考えるとき、私たちは結婚式という社会実践を解釈している。同様に、法の解釈とは法実務の解釈である。

ドゥオーキンの考えでは、社会実践の解釈は芸術作品の解釈に似ている。つまり社会実践の解釈は、会話の解釈や科学の解釈とは異なり、構成的解釈である。したがって、社会実践の解釈の一例である法の解釈とは、法の目的に照らして、法実務を最善のものとして提示することである。(276頁)

結婚式に着ていく服を考える場合に、人はその結婚式に参列する目的に照らした上で最善のものを選択する。ただし、何が最善であるかは人によって様々だ。もちろん、男性はスーツ、女性はドレスといった共同体における共通理解はある程度存在するものの、男性の場合であれば、招待者との関係によっては礼服であることが望ましいこともあるだろう。むしろ、かつては礼服が原則でありスーツの方が例外だった。社会の変化に応じて何が最善は変わる。法解釈の世界に準じた表現をすれば、最善の判断は、適合性の次元および正当化の次元という2つの次元がつくる「幅」の中で行われる。

上述のとおり、本書は法の解釈を「法の目的に照らして、法実務を最善のものとして提示すること」だと定義する。これのより具体的な定義として、下記の書籍では次のように述べられている。

社会における正義と公平の観念ないし公共の福祉に合致するかどうかということを検証しながら、具体的なある特定の問題にその法令の規定をどういうふうにあてはめ適用するのが最も正しいかということを判断し決定するのが、法令の解釈の仕事である。(林修三『法令解釈の常識』10-11頁)

「社会における正義と公平の観念ないし公共の福祉」の実現こそが法の目的であり、法はその実現に向けた強制力および正当性の根拠として存在する。ただし、この目的は時代や社会といったテクストにより変動する。だから法令の文言は抽象化されている。解釈による新たな最善の判断を許すためだ。

では法令を作成した立法者の意思はどうか。芸術作品の解釈において、作者の意図は絶対ではないとした。この点について、上記書籍の新版は次のように述べている。

立法者意思は法令の解釈に当たって重要な指針を示すものですが、「それは決して絶体的なものではなく、法規は立法者の手をはなれれば客観的な存在となるのであるから、必ずしも立法者の意思にとらわれず、法規そのものをもととして解釈をしていかなければならない。」(吉田利宏『新 法令解釈・作成の常識』23頁)

法解釈にも、バルトのいう「作者の死」に通ずるものが当てはまるということだろう。法令の最終的な解釈権は裁判所が有するが、裁判所は具体的な権利義務に関するトラブル(法律上の争訟)以外は取り扱わず、解釈は、行政機関や私人(弁護士、市民)によっても日常的に行われている。芸術作品と同じく法も不特定多数の解釈者を前提とし、独立した一つの客体としての解釈が期待されている。

解釈を通じた自分自身との出会い

芸術作品の解釈と法の解釈は、目的に照らして対象を最善のものとして理解しようとする(構成的解釈)点で共通している。

これをさらに一歩進めた議論として、本書が紹介するドイツの哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマーの解釈理論を引用しながら、この記事の結びを書いてみる。本書は、芸術作品の一例として宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を挙げた上で、次のように述べる。

理解には先入見が含まれざるをえない以上、理解の対象はテクストそれ自体ではなく、テクストと解釈者の関係だということになる。つまり、あらゆる解釈には解釈者が含まれる。端的にいえば、理解とは自己理解である。『銀河鉄道の夜』を解釈するということは、『銀河鉄道の夜』を特定の仕方で解釈する自分に気づくことであり、自分自身が何者であるかを理解することである。(279頁)

人は現実世界をありのままに見ることはできず、現実を自分に合わせて見ることしかできない。「事実の理解」なんてものは理想論でしかなく、そこにあるのは「世界の解釈」だけだ。先日の『「読むこと」と「書くこと」と「生きること」との間には柵がない』の記事でも書いたように、人は生きているかぎり、世界を理解するために自分なりの分節線を引き続ける。この線を引くという行為が、解釈にほかならない。

人は生きているかぎり絶えず解釈を行い、絶えず先入見(先入観)をアップデートし続ける。先入見は静態的なものでは有り得ない。とりわけ、芸術作品や法を前にしてその目的に照らした最善を導き出そうとするとき、人は先入見という名の己の価値観と対峙することを否応なく求められる。

解釈のプロセスの中で、部分的にしか妥当しない先入見が死滅し、真の理解を導く先入見が現れてくる。『銀河鉄道の夜』を解釈するとき、解釈者が当初持っていた先入見は、そのプロセスの中で変容していく。…法解釈には、解釈者の先入見が含まれざるを得ない。言い換えれば、あなたが法を解釈するとき、あなたは自分自身に出会うのである。(279頁)

しかし、芸術作品と法とでは、その対象とする世界が大きく異なっている。社会正義の実現という目的を前に法の解釈は制約を課されており、芸術作品の解釈の方が相対的により自由であるように見える。

下記の書籍は、「アートとは、招待することー自分の思考に他者を招待して、自分が見たものや、どう見たかを他者に知らせること」だと述べる。芸術作品の解釈も法の解釈も、まずは目の前の事実を具に観察することから始まる。同書の「ほとんどの人は、見るだけで、観察していない」という一節は何を示唆するのか。この記事の続きではないけど、次回は芸術作品(アート)の解釈に焦点を絞って書いてみようと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?