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パレスチナで見た「壁」



はじめに

 筆者は20代の曹洞宗僧侶で、この春から、アメリカ カリフォルニア州にある禅道場、タサハラ禅マウンテンセンター(禅心寺)にて、1年ほど修行させていただくことになりました。
 この noteでは、留学に際して執筆した文章の一部と、その内容に関連して、今から約5年前、イスラエルとパレスチナ自治区ヨルダン川西岸区域を訪れた際に目にしたものや、ガザでの戦闘が続く今日、改めて思うことを記しておきたいと思います。
 
 「アメリカで仏教って、どういうこと?」と、アメリカの仏教に興味を持っていただいた方には、ごめんなさい。今回のnoteでは、仏教についてはほとんど何も書いていません。アメリカ禅仏教の歴史や修行生活については、また別の機会に投稿したいと思います。
 

 前半は、仏教の振興と世界の平和に寄与する人材の育成を目指す 横浜善光寺留学僧育英会への応募に際し、2023年12月に「世界平和と仏教徒の誓願」という指定テーマで執筆した文章の一部です。後半では、イスラエル・パレスチナ自治区で撮った写真なども載せつつ、特に印象に残っている場所や光景を挙げています。
 前半と後半でやや文調が異なりますが、ご容赦ください。


世界平和と仏教徒の誓願

 (*以下の文章は 2023年12月執筆 )
令和5年10月7日、パレスチナのイスラム組織ハマスがイスラエル南部を襲撃し、それを受けてイスラエル軍はパレスチナ自治区ガザへの地上侵攻を開始しました。約2か月経った現在でも、ガザでは戦闘が続いています。
 私は今から約5年前、イスラエルとパレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区を訪れたことがあります。当時の私は、僧侶としての道を歩むか決めかねており、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地であるエルサレムで人々の宗教的な生活を肌で感じてみたい、との思いに突き動かされての一人旅でした。そして、聖地巡りとともに、ホロコースト記念館やパレスチナ西岸にそびえ立つ巨大な壁を見て回る中で、ナチスによるユダヤ人虐殺の歴史やイスラエルによる入植問題に触れ、パレスチナ地域が抱える対立の根深さとその複雑さの一端を目にしていました。そうした経験から、この2か月の間、ニュースやSNSで流れてくるパレスチナ地域の悲惨な状況に、一層心を痛めるとともに、どこか言いようのない虚しさ、悔しさをも感じています。それは例えば、僧侶である私がこれまで読経の中で読み込んできた「万邦和楽」という言葉や、毎年8月、広島と長崎への原爆投下時刻や終戦の日に鐘楼堂で打ち鳴らす鐘の音。そうしたものに私が込めた、そして私だけではなく、これまで多くの人々が込めてきたであろう平和への祈りや願いは、暴力の下では一瞬にして吹き飛ばされてしまう、ということを見せつけられたからです。

 近年、「平和」という言葉は世界中で急速に色あせているように感じています。この2、3年だけでパレスチナ地域の他にも、ロシアによるウクライナ侵攻、ミャンマーでの軍事クーデターなど、多くの死傷者を出す争いが頻発し、それに伴い様々な対立や混乱も世界中に広がっています。
ひとたび暴力の渦に巻き込まれると、「平和」という理想的で曖昧な言葉はいとも簡単にその求心力を失い、代わりに「勝利」や「報復」、ときには「正義」といった力強い言葉が人々の心を捕らえているようにも見受けられます。しかし、歴史を振り返れば、そうした言葉の背後にはしばしば「憎悪」も紛れ混んでいて、いつしか新たな火種となって、憎しみの連鎖が続いていくこともまた事実でしょう。  

 「平和」という言葉が色あせつつある今だからこそ、宗教者には為すべきことがあるように私は感じています。それは例えば、平和を祈り願うとともに、「平和にしていくのだ」と誓い続けていくこと、すなわち、平和を誓願し続けていくことです。
宗教の力、もしくは宗教者の力だけで、世界中で広がり続ける対立や混乱を解決できると考えているわけではありません。複雑化する今日の社会では、宗教だけでなく、政治や経済、医療といった様々な領域との協力が不可欠でしょう。
しかし一方で、生者と死者に向き合ってきた宗教こそが平和を求め続けなければ、それは到底実現されることはないと思います。だからこそ、現代の宗教者は「平和」という言葉の空疎さを、まざまざと突き付けられたとしても、それでも平和を願い、その願いを何らかの形で示し続けなければならないと私は考えています。 


 今後も地域社会の変化や技術の発展に伴い、宗教者に求められることや、宗教者が出来ることは大きく変わってゆくでしょう。時にはそうした変化に応じて、新しい宗教の形を模索することも必要になってくるかもしれません。しかし、宗教者としての要は、その人自身の「日々の姿勢」であると私は考えています。僧侶である自分自身に引き付けて言えば、例えば日々、他の僧侶や檀信徒の方々と共に、読経し『普回向』や『四弘誓願文』を唱え、合掌・礼拝する行を真摯に、地道に積み重ねていくことであり、また「正法興隆、国土安穏、万邦和楽」と唱え、鎮魂の鐘を鳴らし続けていくことでもあります。確かにそうした、一見代わり映えしない、云わば「伝統的」な僧侶としての振る舞いは、「世界平和」という途方もない理想の実現にすぐには繋がらないかもしれません。しかしそれでも、そうした行を通して、僧侶一人ひとりが自分自身の心を耕し続けるとともに、その姿を社会に示し続けることは、これからの時代、宗教者の役割としてますます重要になってくると考えています。

(以下、アメリカでの修行を希望する理由や具体的な目標などに話が移るため、割愛します。)

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 イスラエル・ハマスの戦闘は、現時点で開始から半年が経過しましたが、依然終結の兆しは見えません。戦闘による死者は3万人を超え、加えて、ガザ地区全体が壊滅的な飢饉に直面しており、深刻な人道危機が拡大していると報じられています。

 私は先の文章で、
「現代の宗教者は「平和」という言葉の空疎さを、まざまざと突き付けられたとしても、それでも平和を願い、その願いを何らかの形で示し続けなければならないと私は考えています。」
と記していました。

私のこうした思いは、5年前にイスラエルとパレスチナで直接目にした光景に、大きな影響を受けているように思います。
 そこで、以下では、当時の写真なども挙げながら、こう考えるに至った背景や、改めて今思うことを言葉にしてみたいと思います。


イスラエルとパレスチナで見た無数の死者たち

 エルサレムの近郊ヘルツルの丘には、ヤド・ヴァシェムというホロコースト記念館があります。ここは、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)に関する記憶の継承と世界への発信を目的に建てられたイスラエル国立記念館で、確か無料で入れたように思います。

ヤド・ヴァシェム①
ヤド・ヴァシェム②

博物館では、ナチス・ドイツのユダヤ人差別や反ユダヤ政策、ゲットーでの生活や死の収容所への強制移送、といった悲惨な歴史がユダヤ人当事者の視点から語られています。
 博物館の一番奥には「名前の広間」という展示スペースがあり、天井一面にホロコーストの犠牲者、一人ひとりの顔写真が敷き詰められ、来場者を見下ろしています。
この円形ホールの脇に置かれたモニターには、ホロコーストの犠牲者や生還者 約270万人の名前と写真、略歴や証言が記録されており、来場者はその生涯に触れることも出来ます。

現地で購入した「名前の広間」のポストカード


 一方、エルサレムから南へ10キロほどの位置に、パレスチナ自治区・ベツレヘムがあります。
ベツレヘムは、新約聖書ではイエス・キリスト生誕の地とされ、イエスが生まれたとされる場所の上に立つ「聖誕教会」や周囲の巡礼路などは世界遺産にも登録されています。
そんな聖地ベツレヘムですが、街の周囲には高さ8メートルにも及ぶコンクリートの壁がそびえたっています。

ベツレヘムの分断壁①
ベツレヘムの分断壁②
ベツレヘムの分断壁③


これらの壁は2002年以降、イスラエル政府が、テロから自国民を守るという目的で建設したものですが、1949年に設けられたイスラエルとパレスチナ自治区の境界「グリーンライン」よりもパレスチナ自治区側に深く食い込んでいます。

2004年には国際司法裁判所が、イスラエル政府による壁の建設を国際法違反であると勧告しています。しかし、今なお建設は続いており、最終的な壁の全長は約790キロメートルになるとされています*。

この壁はパレスチナ人の移動を大きく制限し、その生活に悪影響を与えています。
実際、私がバスでエルサレムからベツレヘムに向った際にも、道中の検問所で外国人観光客以外の乗客は全員バスから下ろされ、イスラエル当局から許可証の確認などを受けていました。

また、ベツレヘムは、世界的に有名な覆面アーティストのバンクシーが複数の壁画を残したことでも知られています。 

バンクシーの壁画「花束を投げる男」
バンクシーの壁画「分断壁をこじ開ける天使」


この noteトップ画像のキーホルダーに描かれた、風船につかまって分離壁を乗り越えようとする少女も、実際にパレスチナの分断壁に描かれています(バンクシー Flying Balloon Girl)。

バンクシーの作品には、しばしば子供や天使が登場します。それは恐らく、現実世界で数多くの子供たちが犠牲になっていることへの痛烈な風刺でしょう。

 ベツレヘム郊外にある「アイーダ難民キャンプ」の入り口には、イスラエル軍によって殺された当時13歳の少年の顔写真が掲げられています。
また、近くの壁には 2014年に殺されたパレスチナの子供たち、250名以上の名前が記されていました。

アイーダ難民キャンプ 入り口
右下の黒い壁には殺された子供たちの名前が記されている



Not Only Palestine But Also …
(パレスチナだけでなく…)

 次の写真は、私が見たパレスチナの光景の中で、特に印象に残っているものの一つです。

ベツレヘムの分断壁④

壁面には赤と青の2色で色分けされた朝鮮半島が描かれ、その下に英語で

Not Only Palestine But Also N.Korea
(パレスチナだけでなく北朝鮮もだ)

と書かれています。
「せっかくエルサレムまで来たのだから、パレスチナ自治区にある壁を直接見てみたい」と、半ば見学気分でパレスチナに足を運んだ私は、壁に書かれたこの言葉にハッとさせられました。


 日本は今年 戦後79年目を迎えます。しかし、隣の朝鮮半島は依然「戦後」ではありません。二次大戦後は朝鮮戦争が勃発し、1953年の休戦協定以降、北朝鮮と韓国は38度線という「壁」で分断されたまま、現在まで休戦状態にあります。
そして、朝鮮戦争に伴う朝鮮特需は、日本の高度経済成長の契機となり、日本は「もはや戦後ではない」と評される時代へと突入していきました。
朝鮮戦争によって日本は漁夫の利を得ていた、そんな高校時代に学んだ世界史の知識がふと頭に浮かびました。
 

わざわざパレスチナを訪れ、壁に書かれた言葉に出会って気づかされたのは、

日本のすぐ隣の朝鮮半島にも38度線という「壁」があること 
その「壁」と日本は歴史的に深く関わっていること
そして、そうしたことに思い至ることなく、
自分は 全くの傍観者のつもりで パレスチナの「壁」を見に来ていた

ということでした。イスラエルとパレスチナを隔てる壁を目にし、その対立の根深さと複雑さの一端に触れる一方で、隣国にある壁への自身の無関心を突き付けられ、どこか情けない思いに駆られながら、私はベツレヘムを後にしました。


「過ちは繰り返しませぬから」

広島の平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑には

安らかに眠って下さい
過ちは繰返しませぬから

と刻まれています。
この言葉の後半部分、「過ちは繰返しませぬから」の主語は誰か、ということをめぐって長く論争が行われていたようですが、碑文の言葉を考案した 広島大学の雑賀忠義教授は、

Let all the souls here rest in peace,
For we shall not repeat the evil.

と英訳していたそうです*。
つまり、「過ちを繰り返さない」と「死者たち」に誓っているのは「We / 私たち」なのです。
 
一方、「私たち」が誓っている「死者たち」とは一体 誰を指すのでしょうか?

もちろん、それは広島の原爆死没者であるのは言うまでもありません。
しかし、より広く見れば、日本の戦没者たちに誓っている言葉ともとれるでしょうし、私はそうとるべきだと思います。

私が生まれ育った寺にも戦没者供養碑があり、近くの墓を少し歩けば、『フィリピン〇〇島にて戦死』と墓碑に記された墓がいくつも目に入ります。そんな環境の中で、原爆投下や終戦時刻に毎年、寺の鐘を鳴らしてきた私からすれば、「安らかに眠って下さい」と祈るとき、その先には日本の戦没者たちがいます。

そして、もっと言えば、そこには日本の戦没者のみならず、イスラエルやパレスチナで目にした無数の死者たちの顔も、私の脳裏に浮かんでくるのです。

そんなことを思って、昨今の世界情勢を見ると、現代を生きる「私たち」は過ちを繰り返し続けているように思えてなりませんし、その事実に、怒りにも似た悔しさを覚えます。 

一方で、パレスチナの壁の前で、別の壁への無関心に気づかされた身としては、外に向かって平和を訴えるだけでは十分ではないようにも感じています。
例えば、
こうして文章を書いている自分は、「過ちは繰返しませぬから」と死者たちに語りかける資格が本当にあるのだろうか?
もしかしたら、私自身気づかぬうちに 過ちに加担してはいないだろうか?
と、自身自身にも問い続けなければならないように思います。 

平和を誓願し、訴えるとともに、
自分の足元を顧みること

こうした姿勢は、現代を生きる一人ひとりに求められているようにも思います。
私自身こうした意識を持って、今後自分にできることを模索していかなければならない、と考えています。



【参考記事】

外務省: パレスチナ概況 (mofa.go.jp)
原爆慰霊碑の碑文 「過ちを繰り返さない」の主語は誰? | NHK


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