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「企業が行う教育プログラム」

設立30年。これからの10年をどうしたいか?

 2022年、ジャンボン・メゾンは創業30周年を迎えた。この先10年で、ジャンボン・メゾンはどこに向かっていくのか、10年後なりたい会社の姿があるなら、今やるべきことは何か。そして一番大事なことは「私は何をやりたいか」ということだ。
 そんなことを3年くらい前から悶々と考え始めた。
  時代は「コロナ渦」に突入した頃。世界はAIなどの技術の進歩は目まぐるしいが、一方でウイルスに翻弄されたり、争いが起こったりと良くなっているとは思えない現実ばかりだった。私はその時代に入ったころからよりミニマムな会社になることを望むようになっていった。なぜなら、この規模で背伸びしながら、経済優先の会社を存続するためだけの10年を続けたら、私はきっとダメになる。そして望んでもいないことに10年を費やすのは地獄のような日々としか思えなかったからだ。その頃、次々と弊社と同じような規模の会社が消えてしまう様子を見ながら、私の心は震えていた。明日は我が身かもしれない、と。

どんな時も、笑顔は忘れないよ


どうしたいかとは、何をやりたいか?

 しかしそうしちゃいられない。どうせまた10年は、日々淡々と流れていくのだ。ならば自分がやりたかったことに着手しよう。さあ、自分の心に素直になってやりたいことって何?何なの?しかし、私には経営者の考え方の癖が付き始めていた。そんなことをやってかえって会社の負担にならないか?それをやることできちんと儲けられるか?予算は?
 私は頭を横に振って、まずその思考を頭から取り払うことにした。こう考えよう。会社はうまく行っている。経済的余裕もある。ならば私は自分のやりたいことが出来る。さーて、それは何か。
 そして私の頭に3つやりたいことが浮かんだ。そのやってみたいことの中に「産学連携」が入っていた。つまり元を質すと「教育」ということになる。

教育のリアル。教育現場は簡単に変えられない、ならばどうする。

 私は大学を卒業してから8年間、中学校の美術の教師をしていた。特に就職活動もせず、別に働き口が無ければ、バイトでもして絵でも描こうと本気で思っていた。そんな時、ある中学校美術教師の産休代替え講師を募集していると大学に連絡があり、強制的に私が行くよう手配されてしまったという流れになった。その中学校の隣に高校があって、同じ美術科の友達がその高校に新任で赴任するという情報が入り、なんかあったら泣きつけばいっかなんていう軽い気持ちで講師を承諾した。契約期間は1年だった。

 そこから、数年かかって教員試験に合格するまで、私は1年ごとに講師をすることになった。足掛け8年。なんと職場結婚を果たし、子もできてあっという間に退職をしてしまった。その時、主人に言ったことを今でも覚えている。
「美術の教科書がつまらない」
「授業以外の仕事が多すぎる」
「私は教師向いてない」
 主人は、お前は中学校の教師は無理だろ。根っからの自由人だからな。と言って、退職も受け入れてくれた。
 しかし、子供が大きくなるにつれ、学校と関わらない日は無くならない。幼稚園、小学校、中学校、高校、そして習い事も言ってしまえば民間の学校みたいなものだ。
 その頃から薄々気が付き始めたことがあった。
「教育って、私たちの頃とあまり変わっていない?」
 私たちの頃というのはつまり「昭和」だ。時代が変わっていく期待を、大人たちは「今の若者は…」という皮肉めいた象徴的な言葉でくくり、時代は変わったと豪語する。それはいつの時代でもそうで、私たちがひとまとめでくくられたグループ名が「新人類世代」だったと思う。そういう〇〇世代という呼び名が出てくるたびに、時代の移り変わりを感じるのだが、教育だけは何か変えられない、変えてはいけないようなマニュアルの根強さがあるのだ。ソフトは次々と新しくなるが、ハードが古いからアップデートに時間がかかる。ОSが違うのではと思ってしまう、違和感すら感じてしまう。
 逆に言うと、それだけ「教育」って難しいということだ。そう簡単には変えられない、ゆるぎなさが出てくるのは相手が「人間」だからだろう。

教育において、まずは私が変わっていくことだ


「産学連携、始まった学生との時間」東北生活文化大学・短期大学部

 そんな「教育」に再び興味がわいてきた理由が、やはりどう考えても人を育てるのに、教育というのは絶対だと、自分の子育てを通して痛烈に感じたからだ。
 自分がこれから、教育の分野に少しでも携わっていけるとしたら「産学連携」しかないと思った。
 「産学連携」とは、大学や研究機関等が持つ研究成果、技術やノウハウを民間企業が活用し、実用化や産業化へと結び付ける仕組みである。
 私がまず、産学連携のお願いに向かったのが母校である、東北生活文化大学の美術学科だった。在学当時、私の担任だった北折整先生が副学長になっていたので、話がしやすかったというのが理由だ。先生の計らいで、短期大学部とまず協定を結んだ。短期大学部には食物栄養学専攻があり、まずはそこで新製品を一緒につくる仕組みを作るところから始まった。生徒さんと先生と、試行錯誤しながら新しい実際の商品を作っていこうというエネルギーは私の心を躍らせた。今までにない、教科書には載っていない生の意見がどんどん出てきた。

学生さんと共に研究・開発がはじまった


「味噌ベーコン」が出来上がるまで。

 2022年8月、東北生活文化大学短期学部と産学連携事業に関する協定書を結んだ。一回目の協定の内容は「味噌ベーコンの開発」と「レシピ考案」で、期間は2023年の3月31日までとなった。
 まずジャンボン・メゾンのブランド3つの説明と、味の特徴を担当の先生に話した。ジャンボン・メゾンが表現するシャルキュトリー(豚肉の加工品)の最大の特徴は、全アイテムに「和の天然出汁」が入っていること。ベーコンに関しては、通常の作り方と違う工程が入っていることも説明に入れた。
 ジャンボン・メゾンのベーコンは、全アイテムの中で一番の人気と売り上げを誇る商品である。良いベーコンを作るためには当然、豚がもっとも重要な原材料になる。シャルキュトリーに適した豚は、繊維質が発達して赤みがしっかりしており、良質な脂肪を蓄えているもの。豚肉の締まりは、脂肪の質と関係していて、良質な脂肪が備わっていないとハムは美味しく出来ない。なぜなら脂肪が良質でないと、保水性が保てないからだ。
 そして製法。味、特に「塩」の入り方と抜き方の絶妙な加減が全てではないかと私は思っている。今回の味噌ベーコンは、その塩加減に対して、味噌とどう関係性を作っていくかが大きな課題だと考えていた。つまり、スタンダードベーコンと同じ塩分濃度にして、かつ「旨味」が表現できるか。味噌のような香りに特徴がある食材は、高温で加工すると一気に香りが飛ぶ可能性がある。今までの経験から言うと「しそ」「せり」は大苦戦した代表食材。以前、京都でお茶のソーセージを頂いたことがあったが、一口食べると「お茶」の香りが口の中いっぱいに広がった。お茶ソーセージの断面を見ると肉に対してのお茶の量が半端なく、その時は「こんなに入れなくたって…」と思ったが、後で理解した。それくらい入れないと「味と香り」が熱で飛ぶのだ。恐らく。
 今までの経験値と数値。そしてジャンボン・メゾンらしさとは。

何度も基本に立ち返り「らしさ」を検証した


官能検査で気が付いたこと

 自分が作ったベーコンを客観的に検証するには、自分以外の作ったベーコンを食べるしかないと思っている。そこで既に商品化されている味噌ベーコンを取り寄せて、食べ比べをすることにした。担当の青柳先生のご提案で「官能検査」を実施することにした。
 官能検査とは、人間の五感(目・耳・鼻・舌・皮膚)を使って品質を判定する方法である。学生と先生方と共に二種類の味噌ベーコンと弊社のスタンダードベーコンの検査を実施した。私の希望で美術学部の先生にも参加をお願いした。ルールとして「味噌ベーコン」と公表せず行った。
 味の感じ方や好みもあるとは思うが、皆さんの感じ方はほぼ同じような意見でまとまっていた。面白かったのは、言われるまでほとんどの人が「味噌ベーコン」と気が付かなかったこと。これは重要なヒントとなった。

美術学部の貴重なアドバイス

 官能検査が終わり、学長(美術学部)と共に、自分が大学生だった時の担任だった北折先生のアトリエに立ちよって、今後どうするかの話になった。つまりジャンボン・メゾンはどんな味噌ベーコンを作りたいのか?という話だ。
 学長が開口一番こんなことを言った。
「同じような作品ではだめだ。ジャンボン・メゾンらしさを出さないと」
学長がいう作品とは、先ほど食べた味噌ベーコンのサンプルの事だ。味噌が入っていると言わなければ気が付かなかったベーコン。味は普通においしいのだが…。
「同じような作品…か」
 私は普通の美味しさは求めていない。とびっきり美味しいものを作りたいと常に思っている。わかりやすく言うと「感動」とか「忘れられない」と言われるレベルで、口に入れた瞬間、思わず「うまっ」と言って笑ってしまう様のことだ。そのためにジャンボン・メゾンは何度も何度も新作を発表するたびに考えてきた。そして今日のように、また新しい挑戦を挑むたびに一旦リセットして原点に戻るのだ。私の頭の中で作業工程がぐるぐるとローテーションしていく。そこに今までの失敗で学んだことや、最終的な味の着地点のイメージが交じり合って、味噌ベーコンの試作過程が出来上がる。やってみないとわからない。まずやってみようとイメージを固めた瞬間、美術学部の教授はこう言葉を付け加えた。
「思考に制限をかけるな。飛びぬけてこそ、ジャンボン・メゾンの味になる」
つまり、無難に仕上げるなということ。一般的にそこそこの作品より、作りたいものを作れというアドバイスだった。頭一つ抜けろ、とも言われた。
私の中のモヤモヤはもう消えてなくなっていた。

同じ目線で共に試食を重ねていく


試作が確信へ

 味噌は地元の小泉麹店のもの。試作の前に、味噌の特性や製法、発酵と微生物の関係性、一番の課題である「塩分濃度」をどう整えていくかを、店主の小泉君ととことん話し合った。話の中で得たヒントをもとに、塩分濃度がスタンダードベーコンと同じになるよう計算して方程式を作った。4パターンの試作。仕込んで二週間後にスモークをかけて、大学の青柳先生に届け、再び官能検査と塩分測定など専門性の高い評価方法を実施して頂いた。その結果、おそらく「これ」だろうと予測していた試作ベーコンが、数値的にも官能的にも高評価を得ることが出来た。そして塩分濃度測定において、ジャンボン・メゾンのベーコンは一般のベーコンより塩分濃度が低い結果が出た。しかし「旨味」が味の濃さを表現していて、官能的には満足のいく味になっていると報告を受けた。
 こうしてアウトラインは整った。次は学生たちへの課題へ続く。ジャンボン・メゾンの味噌ベーコンを使用したレシピの考案である。

レシピ完成までの軌跡

 2023年2月2日。東北生活文化大学、短期学部の食物栄養学専攻レシピコンテストの日が来た。
 その前に私が一度教壇に立ち、ジャンボン・メゾンの人、作品(商品)、歴史やブランドの特徴、そして試食会を行っている。
 教壇に立つと、そこはthe教室。講演会のセミナー会場とは全く違う雰囲気で、教師時代の記憶が蘇る。あの頃と違うのは教える内容が「美術」でなくなったこと。私がここで生徒さん達に伝えたいことは決まっていた。この子たちの力を最大限に引き出したい。そのための授業が始まった。
 食物栄養学専攻の生徒さんたちが目指す将来は、おもに栄養士だという。学校給食や老人ホームなどが活躍の主な場になるらしい。あとはスタイリスト、コーディネーターなどを希望している子も数名いた。授業の前の段階で、ここの生徒さんたちが学んでいる授業の内容を聞いていて、ある分野においては「加工」と似ていると思ったし、レシピを作るということが専門職であることも伝えたかった。
 授業が順調に進み始め、後半はいよいよ「産学連携」で君たちとどんな仕事をしたいかの本題に入り始めた時、彼らの目の色が変わった。まさに「仕事モード」に入った瞬間だった。そのお題は「味噌ベーコンを使ったレシピ」の考案だ。ジャンボン・メゾンのトップブランドである「和ハム®」の新作である味噌ベーコンに、ホームページを使ってレシピを掲載したいという話をした。君たちのデビュー戦になるよ、とも。
 そして、以前仲良くしている飲食店のシェフに、安易に「レシピ作ってほしい」とお願いした時「僕はレシピを作れない」と断られたエピソードを生徒さん達に伝えた。その後、それを専門に仕事にしている方、レシピを作るのと料理を作ることは全く違う仕事だと言われ、これもまた「加工」と似ているなと気が付いたのだ。料理と加工は全く違う技術を要するのだ。その話を生徒さん達に聞かせた時、彼らもまた非常に驚いていた。
「有名な料理人でも、レシピは別の専門職ととらえています。それを学んでいる君たちは特殊な技術を持っているということ。君たちが学校で学んでいることは素晴らしい学びです。そしてそれができる君たちはかっこいい」
そう伝えた時の、彼らの表情を私は一生忘れることはできない。きっとこの産学連携は素晴らしい結果をもたらすだろう。

何度も議論を重ねた

 コンテストの内容は次の通り。
 一次審査は、食物栄養学専攻の生徒22名が全員レシピを提出し、担当の青柳先生が書類審査を行い6名まで絞る。
 二次審査はレシピ考案者を中心に6グループ編成にして、実際に調理し、実食して審査を行い、3名まで絞る。
 その3名が、レシピコンテストのファイナリストとなった。
 下準備の時間を含めず、一時間内で料理を仕上げ実食して審査をすることになった。生徒さんにはアピールタイムと審査員からの質問時間が設けられる。大学の広報担当職員がカメラを撮り、現場は少し緊張感が漂っていた。
調理室に良い香りが漂ってきて、実食の時間となった。料理の内容は、味噌ベーコンを使った筑前煮、出汁茶漬け、ケークサレの三品だった。
 三品とも甲乙つけがたい接戦となり、最終的な判断は私にゆだねられた。私は最も良かった料理を「筑前煮」と決めた。理由は、筑前煮の盛り付けや味付け、特に調理方法がシンプルでベーコンがしっかり主役になっていたことが、トップブランド「和ハム®」にぴったりだと感じたからだ。
発表の瞬間、考案者の生徒さんは堰を切ったかのようにワッと泣き、嬉しい嬉しいと連呼した。本当に良く頑張ったのだと思う。私はその瞬間、あることを決断した。当初、レシピを1点だけ掲載するという計画を変更することに、だ。
「3人のレシピを掲載することにします」
そう伝えた時、3名のファイナリストは、肩を抱き合ってお互いをたたえあった。その光景はキラキラと輝いて美しく、会場の審査員も共に感動を分かち合った。

「コロナ渦の学校生活」

 その後、先生との談話。コロナ渦で大学生活の当たり前が当たり前ではなくなり、本来経験で得られるやりがいや喜びが、極端に得られない年の学生さんだということ。その中で企業から出された「お題」を生き生きと目標に向かって考えていく過程は、まさに生きた授業であったと感想を述べられた。しかも成果が形になるということは、大きな成功体験につながる、とも。

私が産学連携で伝えたかった事

 一度教育現場から離れ、子供二人を育ててみて「親」の立場になった自分。その私が感じる「少し先を生きた大人が、本当に伝えなくてはならない次世代へのメッセージ」一企業の代表として気が付いたこと、それはごくありきたりの事、それは。

「一人一人が特別な存在であること」ということ。

 今回は、先生のご配慮で生徒全員が取り組めるような仕組みを作っていただいたことで、一人一人と関わることが出来た。以下、生徒さんの感想文を一部抜粋。

「最近、ものすごく自分はなぜこの道に進んでしまったのだろうかと思い悩んでいたのですが、高崎さんのように美術大に行き、教師をして、今ハムを作っている経緯を知った時、全てつながっているのだなと思いました。
そして、レシピを作れることが普通じゃないことを知りました。私ってすごいことを勉強しているんだと気が付きました。」

 恐らく、とても悩みの多い時期だと思う。その時、彼らに伝える「少し先を生きた大人が、本当に伝えなくてはならない次世代へのメッセージ」とは、成功例だけではないと思う。私も挫折挫折の20代、子育ての30代。東日本大震災を経た40代からこの仕事をしている。そして今、学び直しの50代。全てはつながっていて、無駄などない。一人一人が特別に輝けるよう、私たちは背中をそっと押していこうではないか。

若さって武器だよね〜、私も頑張る!


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