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仕事柄、深夜に帰宅する事が多い一日において、猛烈に映画を観たくなる衝動に駆られる時があります。
例えば、午後11時から観出すとすれば大体午前1時頃終りになるとして、まあセーフだろうと自分に確認する訳です。

Fire TVからのAmazon Primeが日常のこの便利すぎるシステムの前に旧来のレンタルビデオ業界は為す術はあるのだろうかと心配を余所に先日連日立て続けに観てしまったのが、『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』
三島由紀夫を取り扱ったドキュメントと実録系ドラマタイプです。

以前からその2本には興味がありながら、何故今かと解析しました。
・眠気が起こらないテーマである
・日常に刺激を注入したい
・現代日本へのフィルターとして見ることは可能ではないか

その狙いはまさに的中しました。
自分の中で密かな三島由紀夫ブームが訪れています。
文豪としての三島由紀夫の多面的なアプローチはエンタテイメントとアートを精神性という観念で結合させて、世界的評価を得ていたと見ることができます。
通常の人物であればその時点で幸福感で充たされ、方法論の拡大再生産に暇が無くなるのだと思われます。
しかし三島の軸はそこに無かったのです。
これを悲劇と解釈する見方もあります。

三島由紀夫の表現世界における天才性を自分自身のものだけで満足する事は微々たる意味しか持たず、結局、自分自身が何者かという根源的なテーマを追及する中で日本人とは何かに行き着いた哲学観に依るところが強力に内在していたのでしょう。
そうした背景に先の大戦からまだ20年程度しか経っておらず、加えて暴徒化した吹き荒れる学生運動の脅威、現状打破は同じながらも方向性が違うその有り様…日本の行方について危機感に苛まれる三島の苦悩と反比例する三島自身の文壇評価はノーベル文学賞候補にまで高まる現実…

三島のこうした一連から無私とは何かを私は考えるのです。私心を無くすとは仏教由来の概念ですが、自己保存は人間であれば誰しも生理的にあります。人によりけりなのかもしれませんが、ある役割を担うためにこの世に生まれてくる存在、歴史的という客観性のみにもしかしたら私たちは捉えていないかと、ふと思いを来したのです。行動の多様性はともかく魂のうずきを感じる時、無私なる自分に近づいていくのではと私は思います。

魂のうずきにも解釈はあるでしょう。
このためなら死んでも構わないと純粋に特化できる意義、事業と言ってもいいかもしれません。これだ!と見つけられる生き方、なかなか難しい事でもあります。幸せの基準とは何かとも言い変えられなくもありません。

いろいろ問題山積の現代日本を一度俯瞰した後、自分自身をどのように社会に投影すべきか一度考える機会に、上記の三島由紀夫関連映画は最適でしょう。

日常を単に生活と忙しさのみに重点とせず、映画観賞や読書に時間を惜しまない事がやはり精神に張りを与える事実は揺らがないということに改めて気づく、深夜からのでした。

歴史的事象から自分に置き換える想定はクリエイティヴィティの源泉でもあります。
自分だったら或いは今の自分はと思いを巡らすことで一日の捉え方も変わるかもしれません。

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