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グレーの見解…デヴィッド・ボウイを思う日に

毎年1月8日を迎えるとやはりデヴィッド・ボウイについて思索に耽りたくなります。
1999年ボウイは或るテレビインタビューに対えています。
非常に未来的示唆を含み、行間をどのように考えるか、まずはご覧ください。

当時はソーシャルメディアという言葉もなく、ネット通話の走りでもあるチャットワークもまだ醸成されていない頃です。ちなみに日本ではSNS流行の発端とも言えるミクシィが2004年の登場であった事を考えると如何にボウイの先見性、洞察力が優れていたかが解ります。

インタビューの年、アルバム『HOURS』をリリースした当時のボウイの心境を音楽ファン的に慮ると、前作の『アースリング』が攻撃的テクノなドラムンベースを主体としたブリストルサウンドを採り入れた時代のトレンドを意識したものに対し、原点回帰なボウイらしいロックアルバムに『HOURS』は仕上っています。これはテクノロジーの進化や流行にアーティスト側が迎合していく方法論から一旦、距離を置く姿勢を感じるのです。

このインタビューでは当時まだ情報を摂取する為のみで利用度が高かったインターネットについて、今後はインタラクティブな双方向で世の中の仕組みを変えていく、もはやエイリアンな存在の認識でいるとの見解をボウイは示しています。現代はかつてのスターやヒーローが生まれていく構造ではないと、明らかにソーシャルメディア到来を前提とした予見的示唆に富んでいます。

そこで、最後にボウイが語るアーティスト側とリスナーとの間にあるグレーな関係性をどのように埋めていくかが課題だとする行間をどのように読み取ればいいのか。これが2023年の現代において解決、答えは出ているのか考えてみます。

1999年時、音楽の供給媒体はコンパクトディスクでした。手に取られたCDは再生プレイヤーに挿入されスピーカーから空間を伝って体感する聴き方が、今やスマホ内蔵スピーカー端子出力からのヘッドフォン視聴が当たり前のサブスクリプション、配信全盛期に突入しました。
この成立こそインターネット社会の平常化を顕しているものであり、音楽業界のパラダイムシフトと言い換えられる収益構造の大転換が起きてしまったのです。
フィジカルに安定収益が計れたCDから、望む望まないに関わらず配信供給無しにエンドユーザーに聴いてもらえなくなった音楽作品のポテンシャルはなかなかに厳しいものがあると客観的に推察します。

アーティスト側からこの状況について、様々なクレームめいた批判が都度都度上がるのも致し方のないものと同情しつつ、ボウイが亡くなった後に未発表アルバムとして昨年リリースされた『TOY』は2002年に『ヒーザン』をリリースした直後に短期間でレコーディングされ、その発売方法が何と現システムで解釈すると配信のみでリリースしようというボウイの画期的構想があったのです。
時代的にインフラが整備されていない為、お蔵入りにした経緯があるのです。
配信は明らかにユーザー側に便利な音楽鑑賞を提供するものです。ボウイはリスナーニーズにマッチした作品提供方法があっても良いのではと、この時分から考えていた事が想像できます。
行間として作る側と聴く側のスタンスの違いとみるべきか、作る側の方法論の手詰まりか、或いは共存できる見方もあると思うか…これらがまさにグレーの見解なのでしょう。

改めて思うデヴィッド・ボウイの先見性、その凄さを感じながら只今2003年発表の『リアリティ』を聴きながら書き綴っています。

※カバー写真「鋤田正義写真集」より

【インフォメーション】
イベント司会を務めさせていただきます。

ご興味お有りの方、ぜひご参集いただけましたら幸いです。

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