『Mademoiselle Kenopsia』
何もない映画
自宅でテレビをつける、帰宅時に携帯を持つ、休日に映画館へ行く。映画鑑賞には多種多様な方法があり、技術によって変化してきた。どんなデバイスを使用していても変わらないことがあるとすれば、それは映画を見るという行為が、本質的に孤独なものだという事実ではないだろうか。大勢で集まったときでさえ、見たり聞いたりした感覚は、本人にしか分からない。同時に同じ映画を見たはずの友人が、自分の記憶とは微妙に違う場面や台詞を覚えていることもある。一人でいることと孤独であることは違うのだ。トロント国際映画祭にて『Mademoiselle Kenopsia』を見た帰路、私はそんなことを考えていた。
ケベック在住のDenis Côté(ドゥニ・コテ)監督による『Mademoiselle Kenopsia』は、まさに孤独な映画だった。少ない台詞、控えめな色彩、動かないカメラ、演者と演者の間に意図的にとられた距離。これまでも、コテの作品には寂しさを感じさせる要素が多かった。本来の自然から断絶された動物園を覗き見する『Bestiaire』、過去の恋人と山小屋で過ごす『ヴィクとフロ 熊に会う』、小さな町の住人たちが幽霊を見るようになる『Ghost Town Anthology』など、閉ざされた空間を巧みに使った演出は、見ているだけで得体の知れない不安を掻き立てた。
そして、コロナ禍での閉鎖に影響されてできたという本作は、廃墟を守り続ける女性を通して「孤独に過ごす時間」の意味を問う。孤独感を消し去ろうと、電話をしたり掃除をしたりしてみても、彼女の淡い期待はただ無人の建物内に消えていく。過去のコテ作品と比べても、とりわけ実験的なスタイルが目立つ作品だが、同時に映画の持つ優美さに溢れた作品でもあった。特に主人公であるLarissa Corriveauが見せる、陰鬱さと滑稽さが交互するような表情に包まれると、孤独であることもまた素晴らしい恩恵なのではないかという気にさえなってくる。
中盤では『ぼくたちのムッシュ・ラザール』原作などで知られる作家Evelyne de la Chenelièreが前触れもなく登場し、全ての映画においてシーンの間に存在しているであろう、無の時間について語る。会話があったり、ドラマが展開するときよりも、その間にある何も起きていない瞬間の方が映画で描かれるべきなのだと。やがて、自分の身に何も起きない退屈な時間を重ねていくうちに、主人公は孤独感の本質に触れていく。
孤独でいるとき私の内側では何かが起こっているのかもしれない。ふと周囲を見渡せば、映画祭に集まった群衆の中で私を見ている人はいなかった。人々はみな、通りに設置された巨大スクリーンを見上げて、スターがレッドカーペットに到着する様子を眺めている。私はただそこに立って、映画祭の賑やかさに負けないほど猛々しい羨望が自分の中から街へと流れ出していく様子を見守っている。