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『Tu dors Nicole』

夏の終わり


今年の夏は、ふと思い立って水族館「Ripley's Aquarium」の年間パスを購入することにした。お酒やダンスフロアに関心の薄い私でも気軽に立ち寄れる遊び場所を増やしたいというのが表向きの理由だった。しかし心のどこかに焦燥感があったことも承知している。夏になった途端に湧き上がってくる感覚――今のうちに楽しいことをしておくべきだという、期待にも強迫観念にも似た、あの妙な感覚のせいだ。

言葉にならない感情を詩的な映像へと昇華させてきたケベック映画。その名作として知られる『Tu dors NicoleYou're Sleeping Nicole』では、子供から大人への転換期として夏が描かれていた。ひと夏の体験を描く青春映画は数多にあるものの、退屈な事でいっぱいの本作は期待と失望、無気力と羨望、純真さと未熟さなど、様々な感情の間で揺れる若者たちの時間を丁寧に刻む。白黒の映像は見る者のノスタルジーを叩き起こし、白昼夢のような語り口は主人公をいつかの自分と重ねさせる。ウィットに富んだ台詞や若手俳優達の演技など見所は多いが、子供時代の想い出に浸りたいときの起爆剤としても好きな作品だ。

プールにソフトクリーム。旅行の計画。バンドの練習。夏を謳歌しているように見えて、若者たちは水面下で踠いている。それは大人になる前に遊んでおきたい子供の本能と、成長の中で自由を失くしていく大人の知恵から生まれた、避けられない苦悩だ。目的もなく自転車を押して歩く主人公と親友の姿を見ながら、子供の頃よく将来の夢を語り合った友人のことを考えた。今はどんな暮らしをしているだろうか。あの頃の夢を三割ほど叶えた私を見て、満足してくれるだろうか……

自らの体験を基に本作を作り上げたStéphane Lafleurはしばらく編集業に専念していたようだが、今年のトロント国際映画祭では待望の新作『Viking』が公開される。火星探索をモチーフにしたコメディと聞いて、今から楽しみでしょうがない。本作では大人になりきれない主人公と対比するように、声変わりを終えて人生を悟りきった少年マックスが登場、突如シュールな笑いを提供してくれた。

金曜の夜。日中と比べて穏やかな水族館内を歩く。サメやマンタが頭上を漂う暗いトンネル内でガラスに映った自分の顔を見たとき、私が何より欲しかったものは少しだけ子供に戻る時間だったのかもしれない、と思った。夏の終わり。季節の移ろいを大切にする私たちが、より敏感に察知する終焉のひとつ。でも努力せずに大人になりきることが不可能だったように、尽力すれば少しだけ子供になることも可能だろう。夢中で写真を撮る大人たちや、ガラス越しにサメを掴もうと奮闘する子供たちの間に立って、自由に魚が舞う水中を見上げた。羨ましさと懐かしさ、理由もない焦りと希望がぶつかり合う感覚を忘れてしまわないように、地にはしっかりと足を付けたままで。

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