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隠された悲鳴 ユニティ・ダウ

『事実は小説より奇なり』
そして、『人間が想像できることはたいてい現実化できる』

この二つの言葉は、これまでの私の本読み人生を通し、間違いないだろうと思っていることだ。

小説というものは、そのほとんどがフィクション、創作であって、現実にあったことではなく、平たく言えば作者の頭の中で生まれ、練られ、作り物として世に放たれたものである。

殺人鬼が暗躍するサスペンスも、夜眠れなくなるホラーも、星空をユニコーンと駆けるファンタジーも、1000年後の未来を見てきたかのようなSFも、現代社会が舞台の恋愛小説も、フィクションである限り、すべて等しく現実に起こったことでも、起こることの予言でもない。

しかし、そのフィクションを「もしかしらた実現するかも」と思えるほど、ファンタジーにおいては別のそういう世界が存在するかもと思えるほど、リアルに感じさせる文章を書く小説家の作品に、小説読みたちはずっと心踊らさてれ来たのである。

フィクションが持つ、そういった性質に期待と恐れを抱きながら、いつも作品と対峙する。

多くの場合は、読後の喜びが勝る。けれど、今回はそうはいかなかった。

こんなにも、これがフィクションで、作り話であってほしいと願いながら、けれど、海の向こうの、美しいと聞く土地で実際に起こり得ている話だとあまりに強い作品の説得力に思わざるを得ない作品は、めったに無いのではないか。

『隠された悲鳴』 小説の舞台は、1994年と1999年のボツワナ。たった、20年前の世界の話なのだ。

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『儀礼殺人』という言葉、その言葉がさす伝統文化の内容を、世界の人権問題としてここ数年で日本でも聞くようになった。『誘拐婚』『名誉殺人』といった、伝統文化と私怨私欲が、人権と法治を上回る地域社会が、今も地球上には多く存在していることを、知識として日本で知ることは容易い。

その簡単さの結果なのか、自分が生きている社会文化の範囲でしか物語の先が想像できない経験値の乏しさなのか、『隠された悲鳴』のラストに与えられた衝撃はとても強かった。私は、無意識に、大団円になるだろうと予測していたし、そう期待してた。予想はあまりにも冷たく、そして現実的に裏切られた。

『事実は小説より奇なり』なら、『人間が想像できることはたいてい現実化できる』なら、「これはあくまでフィクション小説だ」と但し書きされた作品で私が感じた以上の絶望を、ボツワナの、アフリカのどこかでは今も誰かが一抹の救いもなく感じているということになる。

「フィクションだ」と書いてあるのだから、そこまで重く受け止めなくていいんだよと、割り切るには、この作品のメッセージはあまりに強い。

自分が生まれ育った以外の文化について、学ぶ以外の方法で身につけることはできない。しかしそれは、知るということであって、つまりは知識として持つということだ。「身につける」ことと「身に染みている」ことは似ているようで大きく違う。

自分が生まれ育った以外の文化について、社会問題として提起したり語ったりすることを嫌う人が居る。確かに、当事者でない人間が「身につけた」知識で語ることと、その文化の当事者である人間の「身に染みた」経験から語られることとでは、説得力が違う。

しかし、「身に染みた」言葉だけを信じると言ってしまったら、その言葉を待つだけの、受け身な態度になってしまうのではないか。

それがどの程度の者であったとしても、自身が持つ悲しい過去について語ることは大変に強いストレスになる。たとえば、あなたが人生の中で一番恥ずかしくて汚いと思う自分自身の経験を1000人の観客に話せ、と言われたら、二つ返事でOKできるだろうか。

当事者に「伝えたいなら負荷に耐えよ」と強いて、聞き手は聞くだけというのは、とてもアンバランスなことに思える。聞いたものは、当事者からのバトンを受けたとして拡声器になっていくべきだ。

伝言ゲームのようにパスが回るにつれて内容が改変される恐れはあるが、以下に聞いたままを次につなげるかということに、当事者では鳴き聞き手の真剣さが表れる。逆に言えば、正確に拡声器役を担うことで、真剣さを示すことが出来るはず。

当事者の、個人が持つ辛さ、悲しさに完全同調することはできない。

それでも、辛い思いをしている人が居るという事実を受け止め、その原因に反対の意を示すことはできる。

それが、寄り添うということだと思う。



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