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二重生活・パリヴァージョン 『冬時間のパリ』

2018年製作/107分/G/フランス
原題:Doubles Vies
配給:トランスフォーマー
監督:オリヴィエ・アサイヤス
製作:シャルル・ジリベール
脚本:オリヴィエ・アサイヤス
出演:ギヨーム・カネ、ジュリエット・ビノシュ、ヴァンサン・マケーニュ、ノラ・ハムザウィ、クリスタ・テレ

敏腕編集者のアラン(ギョーム・カネ)は電子書籍ブームが押し寄せる中、なんとか時代に順応しようと努力していた。そんな中、作家で友人のレオナール(ヴァンサン・マケーニュ)から、不倫をテーマにした新作の相談を受ける。内心、彼の作風を古臭いと感じているアランだが、女優の妻・セレナ(ジュリエット・ビノシュ)の意見は正反対だった。そもそも最近、二人の仲は上手くいっていない。アランは年下のデジタル担当と不倫中で、セレナの方もレオナールの妻で政治家秘書のヴァレリー(ノラ・ハムザウィ)に内緒で、彼と秘密の関係を結んでいるのだった……。(公式サイトより)

まず、邦題の『冬時間のパリ』というのがよくわからない。映画の内容は、ことさらに冬を強調してもいなければ、パリであることもほぼ関係ない。“冬時間”は、同じアサイヤス監督の『夏時間の庭』からのアナロジーなのかもしれないし、確かに冬のパリが舞台でもある。外国映画の邦題ではよくあることだが、それにしても、とは思う。(ちなみに英語のタイトルはNon-Fictionだそうで、こちらはなんとなく意味ありげだ)

原題は『Doubles Vies』。二重生活、でいいだろうか。しかも複数だ。誰もが(かどうかはわからないけれども)持っている生活の二面性であったり、配偶者や決まった恋人がいながら、それ以外の人とも関係を持つ生活を示す(スパイなどの特殊な人を除けば)。

『二重生活』というと日本でも確か小説が原作の映画があったようだが、私は観ていない。まず思い浮かぶのはロウ・イエ監督の作品(2012年制作)、ニンフォマニアックな男を主人公とした、ひりひりするようなサスペンスメロドラマだ。

翻って本作はというと、それとはまったく違ったタッチの軽やかなコメディである。オフィシャルサイトによれば「パリの出版業界を舞台に<本、人生、愛>をテーマに描く、迷える大人たちのラブストーリー」だそうだ。私の感想としては、別にパリの出版業界は舞台になっていないし、<本、人生、愛>も直接的なテーマになってはおらず、大人たちは別に迷っていないが、大きな意味ではラブストーリーではあるかもしれない、といったところだ。

ストーリーをざっくり言えば、パリで暮らす二組の夫婦(女優のセレナと編集者のアラン、政治家秘書のヴァレリーと私小説家のレオナール)の日常を描いた作品で、タイトルの複数形が示すように、浮気や不倫をしているのはその中の一人ならず三人である。そのほかにも、老舗出版社のかなり年配のオーナーに若い恋人がいたり、政治家が別の顔を持っていることがわかったりもする。主な登場人物で、秘密がないのは政治家秘書のヴァレリーだけ… と思いきや、最後に秘密(といってもちょっと種類の違う)を明かす。やはり、どこから見てもシンプルな生活を送っているような人は、そうはいないのだ。

飽き飽きしながらもTVシリーズに出演し続けるセレナ、インターネットコンテンツに押されて伸び悩む出版社を電子書籍やオーディオブックなどで盛り返せるか模索中に失業の危機にさらされるアラン、同工異曲の私小説の出版を断られるレオナール、信じていた政治家に思わぬ形で裏切られるヴァレリー……
いろいろあるけれども、彼らの誰も深刻な表情を見せない。このあたりはフランス人の実像にかなり近いように思える。私的な意見で恐縮だが、彼らの多くは“弱みを見せたら負け”という風に、よほどのことでなければ何事も無いように振舞う(一種の courtoisieなのだろうと思う)。いずれにしても本作の登場人物たちは、別にセレブではないが明日食うものに困るわけではない、そういう社会階層の人々だ。

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彼らの会話には政治や現代における表現についての議論が混ぜ込まれてはいるものの、特に高尚さや洒脱さはない。現代の先進国の各地でされているであろう、あくまでも普通の人たちの普通の会話だ。裏返しに言えば、世界の各地で同じような社会問題を抱えているということで、それこそが現代特有の問題なのではないだろうか。


(以下、若干内容に触れています)


最後に二組の夫婦が別れないのは、別に浮気や不倫が「文化である」からではない。

セレナとアランの間では結局不倫はあからさまになってはいないが、お互いに気づいてはいる。そもそも二人にとって不倫は遊びであり結婚生活を揺がすほどのものではないから、外での関係を清算すれば、知らんふりしてこれまで通り夫婦を続けていけばいい。愛し合っているかどうかはこの際問題ではない。

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ヴァレリーがレオナールと別れないのは、最後に明かす秘密が原因と考えることもできるが、そうではないだろう。ヴァレリーはレオナールのために何も我慢してこなかった。あまり売れていない小説家を支えるために、好きでもない仕事を頑張ってしてきたのではなく、情熱を持って自分の好きな仕事をやってきたのだ。パートナーに裏切られて、それを許すか許さないかの基準はもちろん人それぞれだが、裏切りを知るまでの生活の中で、相手に対して我慢や献身をしてきたか否かという観点はかなり重要ではないだろうか。自分自身に嘘偽りなく生きているヴァレリーはレオナールに献身も依存もしていない。ただ愛している(本作で「愛している」という台詞はレオナールをまっすぐ見つめるヴァレリーからだけ発せられた)。だから別れないのだ。(出版を断られたレオナールに「慰めて欲しいの?」と問いかけ、「うん」と答えた彼に「いや」とすげなく言うヴァレリーにとって”愛”とは何を指すのだろうかというのはまた別の問題である)

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それぞれの人生(vie)がかかっていないかのように見える二組の夫婦の生活(vie)を観て、どういう感想を持てばいいのかよくわからないが、軽やかな諷刺コメディーであることは間違いなく、ところどころ笑わせてもらった。(もちろん、同じ内容をシリアスに描くことだってできるのだし、そのほうが簡単かもしれないのである)

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