無題

気紛れ

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  • 日々の徒然

    生きながら思ったことを無秩序に。 twitter : @kajacubo

最近の記事

「正しさ」という名の悪意

SNSでは、「正しくない」ことをした誰かが燃やされている。 これまでもそうだったし、今日もまたどこかの知らない誰かが燃やされている。 厳密に言うならば、燃やされているのは「正しくない」ことをしたからではない。 きっかけとなった「誰かにとっての正しくない」出来事がSNSに放流されることにより、不特定多数の人々に「共感」され、各々がその「共感」を表明することで燃え広がっているのだ。 「こんな『正しくない』行いをするなんてそいつは最低だ」。「共感」したひとりひとりの声は小さくて

    • 祖母の時間

      この正月、祖母に会った。 4年前に祖父が亡くなってから、沢山会おうと決めていたけれど、3年近く会えていなかった。 縮んだ背。 薄くなった髪。 増えてきた物忘れ。 ほとんど見えなくなった片目。 歳を取ったのだなとは思うけれど、それだけだった。 ぼくの物心がついた時には、とっくに70を超えていたから。 埃の溜まった部屋。 手入れされていない水回り。 作って鍋に入れたままの煮物。 モノを詰めるだけ詰めた冷蔵庫。 何かに頭を殴られたような気がした。 あんなにマメだった祖母が。

      • 無菌室

        「美観のため、洗濯物を外に干さないでください」。 人が殺されたわけでもなく、病死しただけの部屋でも「心理的瑕疵あり」。 キレイではないけれど味のある店が並ぶ区画の再開発。出来上がるのはキレイなだけのどこにでもあるような商業施設。 どれも近頃よくある話。 つまるところ、「生活」を汚いものとして排除しようとしている。 ぼくにはそう思えてならない。 この病的なまでのケッペキは、ぼくたちをどこに連れて行くのだろう。

        • 秤に時間を載せて

          中学の担任に言われた言葉がある。 「人間は歳を取る程に、人生におけるそれまで生きてきた日々の割合が小さくなる。だから、それだけ1年が短くなる」 当時は「そんなバカな」と思ったが、それから10年近く経った今、彼の正しさしみじみと痛感している。 地球が太陽の周りを1周する時間が短くなったわけではないので、1年の長さは(厳密にどうであれ、少なくとも体感できる程には)変わっていない。しかし1年の長さの感覚は、ぼくが中学生の頃と間違いなく異なる。 振り返ってみると、中学生のぼくに

        「正しさ」という名の悪意

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        • 日々の徒然
          16本

        記事

          5万円のコロッケ

          「人を殺すことは悪い」ことだと、恐らく多くの人が思っているだろう。ぼく自身もそうだ(先にこれを書いておかないと後々に言いがかりをつけられそうだから、ここではっきり述べておく)。 先日(と言っても数ヶ月前だが)、『ミステリと言う勿れ』(田村由美, 2016-, 小学館)をネット広告から飛んだ有料漫画サイトで試し読みした。この類の広告で出てくる漫画では珍しく、単行本を買いたいと思った(そして本屋に行く度に買い忘れるのを繰り返し、今に至る)作品である。 この作品で印象に残ったのが

          5万円のコロッケ

          秋の質量

          気付けば9月に入って、早くも10日が経とうとしている。それだのに暑さはしばらく続きそうなのだから嫌になる。「これも残暑でござんしょか」などと最初に宣ったのはどなただろうか。思わず口に出さずにはいられない。 とはいえ、確かに秋の気配が感じられるのもまた事実だ。夕方に吹く風には、今までになかったようなどことない涼しさがある。ふと空を見上げると、上へ上へと飛んでみても、いつか見えない何かに行き当たってしまいそうな、淋しげな空が広がっている。どこまでも上って行けそうだった、底抜け

          秋の質量

          幸せ、あるいは呪い

          行き場のない焦燥感が 真綿のように首を絞める 何かをしなくてはと 執拗にぼくを鞭打つ でもわからない 何をすればいいのだろう 画面の中の通行人は言った 何かすることで自分を成長させよう 今が絶好の機会だ でもわからない なぜ何かする必要があるのだろう 今日の風が囁いた 幸せになりたいのでしょう チャンスは掴まなきゃ でもわからない 何かすることが幸福なのだろうか 呪詛の鎖に身を縛られて ぼくは何もできない 翼が欲しい 何ものにも囚われないように 心を檻に閉じ

          幸せ、あるいは呪い

          空っぽ

          空っぽな世界に生きる 空っぽなぼく 空っぽな人生は 空っぽな気持ちで 風に吹かれて カラカラと心が揺れる 夜 夜があたりを満たし ぼくは眠れなくなる 空っぽの世界にあるのは 眼の前も見えない 真っ暗な闇 朝が来るのを待つけれど 朝日は結局なにも照らさない 空っぽな世界では 空っぽの心が揺れるだけ

          悪者

          一昔前の、とある時代劇。 旅のご隠居一行が立ち寄った街で、困っている人がいた。話を聞くと、誰かに悪さをされていると言う。 許せない!と見ている僕たちは思う。 悪事の証拠を掴み、悪者に突き付ける。はじめから正直に認めることはまずない。チャンバラを挟んで印籠を見せ付け、悪を成敗する。 僕たちは、悪が退治されてスッキリする。 誰が悪いのかがわかって、更に彼(女)を責めることができるから。 悪者を責めることができるというのは、実は大きな安心感、あるいは爽快感を僕たちにもたら

          卒業

          今日、大学というものを卒業した。 卒業式のない卒業。なんだか少し変な感じ。 大学で過ごした5年間はあっという間だった気もするし、それなりに長かった気もする。 誰かと反目したこともあるし、誰かと笑ったこともある。今は昔で、通り過ぎた人たちも多いけれど。 1年間休学して、留学もした。人付き合いは好かないが、それでも向こうで多くの人と出会った。 それから2年が経って、彼らも名もなき存在に成れ果ててしまった。他の人たちのように。 否、自分の手でそうしてきたのかもしれない。望

          芸術〜『裏切りのサーカス』を観て〜

          芸術とは何なのかということを、最近よく考えている。別に僕自身が芸術に携わるわけでもないのに。 事の発端は、ジョン・ル・カレの1974年の小説を基にした『裏切りのサーカス』(原題:Tinker Tailor Soldier Spy)という映画である。内容については、「冷戦下の英国諜報部に潜入したモグラ(東側のスパイ)を探す話」と述べるだけに留めておく。 初めてこの映画を観た時、これが自分の欲していた映画なのだと思った。役者の演技、BGM、カメラワーク、アングル、カットとカッ

          芸術〜『裏切りのサーカス』を観て〜

          春 出会いの季節 新しい風が 僕たちに彩りをくれる 春 別れの季節 吹き抜ける風が 僕たちを千々に散らす 春 期待と不安 温かい風が 僕の心を掻き乱す 春 生命の息吹 あと幾度だろう この桜を見れるのは 春 素知らぬ顔で 気付けばそこにいる 中にはちっぽけな僕

          生の盲信

          明日は〇〇をしよう。 そう思って眠りにつくことは多いし、きっと大勢の人たちも同じ。 けれど、どうして僕たちは、「明日」が来ると思い込んでいるのだろう。 誰も、明日自分が生きてるかさえわからないのに。 でも、明日が来ないかもしれない、と考えながら布団に入るのは、怖い。 「死」という得体の知れない何かが、夜の帷に乗じて、僕の思考に潜る。それは、眠りという安寧に甘んじることを許さない。 だから僕はこう思い込むことにした。 「明日はきっと来る」 そして僕はふと気が付い

          生の盲信

          「生と死」と「死と生」の非対称性

          通過電車に飛び込む女性の動画を、昨日見た。 彼女の自殺を称賛するつもりも、だしにするつもりも、ましてや真っ赤な他人の分際で偉そうに冥福を祈る気もない。 ただ一つ、僕の脳裏をよぎった問がある。 世界が暗転するその刹那に、彼女は何を思ったのだろう。 これで全てが終わると、安堵のようなものを感じたのか。それとももっと生きたかったと思ったのだろうか。答えは誰にもわからない。 けれどある意味では、死は救済だと僕は思う。問題は、その先に救いがあるのかということだけれど。 こう言

          「生と死」と「死と生」の非対称性

          商業主義、あるいは虚構

          ぼくたちの世界は奪われている 商業主義によって 流れ行く世界を 窓から切り取ろうとする時 誰もぼくを見ない街を 根なし草のように彷徨いたい時 いつもそれは主張する こっちを見て!ほら! そんなものはうっちゃって! そして気付くといつも 明滅する虚構に目を預けている 否、きっとある人たちには このがらんどうが世界そのものなのだろう ぼくにはわからないけれど 今日もぼくは 実態のない存在の間を歩く 世界を奪われながら

          商業主義、あるいは虚構

          取るに足らないぼくと空、そして…

          立冬を過ぎた空を見上げながら駅へと歩いていたら、駅を見下ろせる場所に続く階段と、駅へと下る坂があった。 時間だけはたっぷりあったから、ぼくは駅を見下ろすことだってできた。足早に行く都会の有象無象を眺めることができたのだ。 それでも、ぼくは駅へと下った。有象無象に埋没することを選んだ。下ってから、ぼくはそのことに気が付いた。 その時に、これがぼくの人生なのだと思った。特別な何かになるわけでもなく、灰色の世界を生きていく。別にこの世で際立ちたいわけではないけれど、過去のある

          取るに足らないぼくと空、そして…