秤に時間を載せて
中学の担任に言われた言葉がある。
「人間は歳を取る程に、人生におけるそれまで生きてきた日々の割合が小さくなる。だから、それだけ1年が短くなる」
当時は「そんなバカな」と思ったが、それから10年近く経った今、彼の正しさしみじみと痛感している。
地球が太陽の周りを1周する時間が短くなったわけではないので、1年の長さは(厳密にどうであれ、少なくとも体感できる程には)変わっていない。しかし1年の長さの感覚は、ぼくが中学生の頃と間違いなく異なる。
振り返ってみると、中学生のぼくにとって、1年間は今の3年間くらいだったように思う。そして更に遡った小学生の時分には、1年なんてまるで永遠だった。学年が1つ上がるのなんて遠い先のことだったし、1つ歳上というだけで大人に見えた。その頃のぼくにとって、1年というのはそれくらいに大きなものだった。
20代も半ば近い今のぼくにとって、1年というのは「あっ」と発話するために声門を開き、声帯が振動して、再び声門が閉鎖されるまでの間に終わってしまう。繰り返しになるが、勿論これは感じ方の上での話である。けれど時々、「実は本当に1年が短くなったのではないか」という疑念に駆られる。そんな筈がないのはわかっているにも拘わらず。
そして思索は深化し、こうもぼくは思う。10年20年と経って、もしもぼくがまだ生きていたら、「あっ」と声帯を震わす時にはもう、1年が終わっているのではないか。更に10年先、20年先はどうなるのだろう。過ぎる年の速さに追いつけず、わけもわからないで死んでいくのだろうか。
ぼくの生きてきた月日は凝縮され、自身の重さに耐えきれないで自潰して、来たるべき新たな日々を吸い込むだけのものに成り果てるのだろうか。ぼくは唖然としながら、そこにはもはや、目まぐるしく過ぎる時の流れしかなくなって、ただ死んでいくのだろうか。
よせば良いのにこんな風に思っては、夜も眠れなくなる。考えるだけ無駄とわかっていても、脳はそれをやめてくれない。できるのは、ここにこうして書き殴ることで、少しでもこの馬鹿げた考えを葬ることである。と言っても、その内ゾンビのように蘇るのだが。
けれどここまで記したことで、少し気持ちが落ち着いた気がする。筆を置く踏ん切りがつきそうだ。
頼りない春の足音を聴きながら
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