「正しさ」という名の悪意

SNSでは、「正しくない」ことをした誰かが燃やされている。
これまでもそうだったし、今日もまたどこかの知らない誰かが燃やされている。

厳密に言うならば、燃やされているのは「正しくない」ことをしたからではない。
きっかけとなった「誰かにとっての正しくない」出来事がSNSに放流されることにより、不特定多数の人々に「共感」され、各々がその「共感」を表明することで燃え広がっているのだ。

「こんな『正しくない』行いをするなんてそいつは最低だ」。「共感」したひとりひとりの声は小さくても、寄せ集まれば大きな力となる。
拡散力のある誰かが「共感」を表明すると、一気に何千何万という人々が「共感」を表明する。

「〇〇は不快である」という言説が数多の「共感」に支持され、それを基に攻撃されているのは、これまでに幾度となく見てきた光景だし、今日もきっとどこかで起きている。

「共感」というのは、またその元となる「不快」というのは結局のところ感情である。「感情」に基づくものというのは、そこに思考の介在を必要としないがために、ある種瞬間的で反射的であり、根無し草そのものである。

そのような曖昧なもので何かをあげつらうことは、端的に述べるならばただの「暴力」でなかろうか。なぜならば、「感情」に対して「感情」で応酬したとて所詮は「主観」のレベルに過ぎないし、「感情」で殴ってくる相手に「理屈」をぶつけてわかりあえる試しはないからだ。

既に述べたとおりだが、このような「共感」即ち「感情」で誰かを殴る事例はこの数年のインターネットで嫌という程に見られる。

それだのに「共感」に基づいて誰かの「正しくなさ」をあげつらうことなど、「正しさ」という薄皮に包まれた己の悪意をぶつけているに過ぎないのではなかろうか。 
ぼくにはどうしてもそう思えてしまう。



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