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あなたのいない海だから

記憶の記録。数年前に亡くなった友人が残したNikonのフィルムカメラを現像したら出てきた写真たちがある。私が短歌や散文を書く際に使用する背景画の多くもこのカメラで撮影した写真たちだ。カメラはすでに壊れていて、現在は私の書棚で眠っている。


30年近く前になるが、友人は鎌倉に居を構えながらも、父と同じ病院(沖縄)で長らく入院生活を送っていた。同じ病、闘病を経た者同士気が合ったのか、退院後鎌倉に戻った後も数年に一度は沖縄に足を運び、父に会うついでに我々家族と会うことが10年ほど続いていた。50も歳の離れた孫のような若造の私を友人として気にかけてくれていた。

私が成人してすぐの頃、「酒と女には気をつけろ」と言われたことを思い出す。随分と乱暴な言い方だし余計なお世話と思ったものだが、あながち間違った指摘でもなかったと、今思えば苦笑いも隠せない。単純に私のお人好し加減とだらしなさを見抜いていたのかもしれない。


写真は地元、沖縄・西原のビーチ。東海岸で朝日が美しい。観光客は少なく見かけるのは地元の人ばかりだ。このビーチで友人と夢や野暮を語ったのを思い出す。当時70を超えていた彼の夢は「いま惚れている女にEXILEのLIVEチケットを贈りたい、死ぬ前に」だった。夢を描くのに年齢も時期も関係ないと思ってはいるが、あまりにも阿保すぎる夢だ。どうしようもなく阿保すぎる夢を真面目に話す友と海沿いをコーラを飲みながら歩いた。

彼は比較的若くして仕事で経済的成功を収めたが、その分私生活と人間関係は安定しなかった。生前、家族親族に縁を切られ、かつての仕事仲間も離れて行ったらしい。アルコール依存性。お酒との付き合い方をコントロールできなかったのだ。依存症は病気であり決して本人の甘えではない。が、本人も周囲も理解が及ばないところにこの病気の難しさがある。

私も若造という歳を過ぎ去り、いい大人の歳になった。世間様に胸を張れることなどさして思い浮かばないが、酒、煙草といった嗜好品との付き合い方、人間関係というものを少しは考えるようになった。10代、20代の頃は社会が、世界が、と大きなことばかり口にしていたが、自分の生きている世界、周りを見て自分を知ることが増えたように思う。「生かされている」ことを思い知るようになったとも言える。

今年も梅雨が近づいている。梅雨の鎌倉は紫陽花が綺麗だ。友人の命日墓参りでも行こうかと思う。EXILEのチケットは取ってあげられなかったし、葬式には駆けつけられなかった。聞いた話では家族や親族も(当然、惚れていた若い女も)来なかったらしい。三回忌はコロナ禍で行われなかったと聞いている。

人の一生、最期にしては随分寂しい話ではないか、と思いかけてやめる。死んだ人の幸不幸など私に分かるわけもない。そんなことを言える人間などいやしないのだ。せめて生前辞めていた大好きな酒でも墓に飾ってやろうと思う。

「俺には金もある、好きな女もいる。寂しくはない。でも、酒をもう飲めないのが悔しいな」

夕暮れのビーチを歩きながら語った友の声が蘇る。生前、一緒に飲めなかった酒でも交わしながら阿保な年寄りの戯言を、友の夢をもう一度聞かせてほしい。他人様の人生に何か言える奴なんてこの世にいない。だから黙って聞くことくらいはしていたい。

紫陽花の花言葉は「無常」らしい。彼の墓場に咲く花としてこれ以上ない花ではないかと思う。

友を想い書いた短歌

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