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ローリング・サラリーマン詩篇    chapter 16: LUNCH

エレベーターに入ってくる人が何人か僕の胸元を見るので、はあ、そんなに有名人でもないのになあ、などと首からぶら下げている社員証を確認したら、ワイシャツのボタンの脇にご飯粒が三つも付いていた。しかも、昼の牛丼の名残りなものだから、茶色く染まって存在感抜群だったのである。

僕はたれのしみ込んだその米粒を指に取り、迷わず口に運んで仄かに味わいながら、この昼の牛丼のことをしみじみと思い出した。

常々思っているのだが、牛丼屋にはサラリーマンのあらゆる哀しみと、そして喜びがあると思う。

まず多いのはショウガ盛りの男たちである。丼のみを注文し、そこに山のように紅ショウガを盛る。肉が見えなくなっている人もいる。サラダ代わりだろうか。聞こえはよいが、絶対に塩分の取り過ぎである。倹約のつもりが成人病になってはね返って来るかもしれない哀しさがある。そして何より、これではせっかくの肉に塩味がつき過ぎてしまう。百年磨かれた肉とたれのハーモニーを損ねている。そこが、ただただ哀しい。

たまにいるのは、こだわり名人である。「とろだくつゆだくだくねぎぬき肉下。」この業界の早口言葉であろうか。日本語を四十年近く駆使して来た僕にもはっきりと聞き取れないオーダーがある。しかし中国人やタイ人の店員さんはしっかり理解している。ここまではまあよい。哀しいのはオーダー通りでなかった時に作り直しを要求することである。名人は得てして気難しいものだし、当然の権利なのかもしれない。しかし少し違ったくらいで、憮然として「注文通りになってないぞ」とばかりに偉ぶるのはどうかと思う。思うに客の立場になった途端、ふだん顧客にされていることをここぞとばかりに再現しようとするサラリーマンのなんと多いことか。自分が仕事でされて嫌なことは、このサラリーマンの最後の聖域ではなるべくしないようにしたいものだ。もう我々には居場所がないのだから。いや、サラリーマンと呼ばれるもの自体が過去のものになろうとしつつある。

面倒な話はもういい。閑話休題、今日、「肉が冷たい。」と返している男がいた。冷たいわけはなかろう。運びの順の行き違いで多少冷めただけだ。しかし、抗わず「すいません。」と取り替える店員さん。その肉と飯はどうなるのだ。少しは肉に敬意を払え。哀しいのを通り越して腹立たしくもあった。

しかし、オーダー時にさらりと「つゆ抜きで。」などと頼む御仁もおり、これはちょっと尊敬してしまう。たれをかけてなんぼの牛丼をつゆ抜きとは。達人の感すら漂っている。見ればただ目を閉じて丼が来るのを待っている。これは見ていてこちらがうれしくなるものである。

入店するなり笑顔で「いつもの。」と勢いよく注文する中年もいる。見ていて清々しいものであるが、コンマ5秒後には外国人の店員さんに「いつものなんですか?」とまともに返り討ちにあっている。これは日本人として直視できないほど哀しいものである。そもそも牛丼店は客の回転が早くだけでなく、バイトさんの入れ替わりも多い。馴染みと思ってるのは自分だけという状態には要注意である。

牛丼屋に剛の者がやって来ることもある。ジョッキビールを頼み、味噌汁を豚汁にアップグレードし、生卵におしんこ、さらにカルビ皿を追加している。肉をつまみに牛丼を食べている。剛の者は良い。世のヒエラルキーの及ばない牛丼店内の秩序を多少乱してはいるが、勝者には好きなものを好きなだけ食べる権利がある。哀しいのは店員さんが「1770円になります。」と言った時、「え、どんな人?」と、ついついその剛の者の顔や服装を見てしまう自分自身である。「すげ」とか思ってしまうことである。ランボルギーニに乗り込むのを見せつけられたように感じてしまうことである。これをやっちまった時には、我ながら情けなくなる。ああ、こんな自由なところにまで来て僕はまだ、人を羨みながら生きるのかと。しかし、言い訳がましいことではあるが、牛丼屋で1500円以上遣うのは結構難しいことなのだ。

今日、プリペイドカードにお金をチャージしたら、キャンペーン中とかで10%ボーナスチャージが付いてきた。予期せぬ喜びに、足取り軽やかにオフィスに戻ったのである。






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この詩篇はフィクションです。
実在の人物・会社とは 一切関係がありません。

ローリング・サラリーマン詩篇 prologue
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 1: CONVENIENCE STORE
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 2: E-MAIL
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 3: 7:00AM
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 4: TRAIN
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 5: GODZILLA
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 6: BIKINI MODELS
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 7: PRESENTATION
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 8: MASSAGE
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 9:  STAFF
ローリング・サラリーマン詩篇 poem:   なりたいもの
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 10: TAXI DRIVER
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 11:  NIGHT LIFE
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 12: GHOSTS
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 13: NICKNAME
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 14: JAZZ CLUB
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 15: NURSE
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 16: LUNCH
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 17: FAREWELL PARTY
ローリング・サラリーマン詩篇 the last chapter: パリで一番素敵な場所は



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