「アジアの天使」鑑賞記録(2021/7/6)

この映画の予告編を観たとき、

メクチュジュセヨ(ビールください)とサランヘヨ(愛しています)さえ覚えていれば大丈夫

という青木剛(オダギリ・ジョー)のセリフが印象的だった。その時は、これくらい楽な気持ちで生きていければ良いなあと思った。

劇場公開してしばらく経ってから、この作品を鑑賞することにした。カンテレで放送していた「大豆田とわ子と三人の元夫」にオダギリが出演していて、彼のカッコ良さと「抜け感」を再認識した。彼が「まめ夫」で演じた小鳥遊は、大豆田とわ子(松たか子)にとってビジネスの敵であるが、プライベートでは仲が良い。不思議な関係だ。小鳥遊は、とわ子の会社の買収を企て、とわ子に社長の辞任を迫るほどであったが、プライベートでは「なかったこと」のように気さくに接する。「アジアの天使」においても「抜け感」は健在。冒頭に挙げたセリフがそれを象徴している。

主人公・青木透(池松壮亮)は作家で、妻を亡くしてからは息子の学(佐藤凌)と2人で暮らしていた。ある日、透は剛から「良いビジネスがある」という理由でソウルへ来るよう誘われる。一世一代の覚悟を決めて渡航する親子であったが、剛のノリはかなり軽い。ところが、ある日突然、剛のビジネスパートナーが失踪し、3人は危機を迎える。剛はそのときばかりは動揺を隠せなかったが、別の土地で新しい商売をやるのだと意気込む。怒り心頭に発する透はやむを得ず息子を連れて同行するが、移動途中の列車で出会った3人の韓国人兄妹と「日韓友好」を育むこととなる。

現代社会においても「反日」や「反韓」というように、両国の関係をネガティブに捉える風潮がやまない。作中でも触れられるように、両国の関係は必ずしも良好ではない。それは世代によって異なる部分もあるが、このような印象が独り歩きし「日韓友好」を具現化する障壁となっていることもまた現実である。作中でも互いへの敵対感情を吐露する場面もある。

だが、ストーリーが進んでいく中で、国は違えど同じ人間として助けあう両国の人々の「人間として」の姿が描かれる。互いが互いの国籍を意識しないようになってこそ「友好」の境地にたどり着けるのかもしれない。それが「メクチュジュセヨ」と「サランヘヨ」が自然と言える関係性である。最初は険悪だった両国の家族が少しずつ距離を縮めていく過程は、ユーモアも散りばめられ、愛おしく思える。昨今のコロナ禍により、人と人とのつながりを感じにくくなっている方も少なくないと思う人間のあたたかみに触れたい人は是非一度鑑賞してほしい

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