「死んだら、どうなる」という切実な問題意識と不条理な現実認識
「死んだら、どうなる」。
ふと、そんなことを考える自分がいる。ただし、はじめに断っておくと、この記事は、特定の思想や宗教に賛同したり異議を唱えたりするものではない。それに、本当は不老不死でいたい。
どういうきっかけでそんなことを考えるようになったのか。ずっと前から、しばしばこういうことを考えることはあった。それは、身近な人の死を目の前にしたときだったと思う。
今は、そうではない。別の理由がある。それは、年齢を重ねるごとに、時間のスピードが爆上がりしていると感じるようになったからである。特に、社会人生活に慣れてきた頃から。
「死んだら、どうなる」という問いに対する明快な答えを見つけたいわけではない。これといった答えがわかったところで「死んだら終(しま)い」なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。
それでも、考えてしまう。
不思議なことに、時間のスピードとは反対に、人生のスピードは次第に遅くなっている。かつては、人生はある一定のリズムで、誰もが平等に進んでいくものと思っていたが、そういった楽観的な目測はことごとく裏切られた。
当たり前のように学校を卒業し、仕事に就き、少しずつ出世をし、結婚をし、子どもを産み育て、定年退職をし、老後を愉しむ。そして、最期は家族に看取られる。人の一生とは、そういうものだと思っていた。でも、だんだんそれが難しいことに気がつくようになった。
しかし、人生は不平等で不条理である。
不平等で不条理であるという現実認識をぶち壊すためには、それ相応の努力をしなければならない。それこそ、他でもなく不平等で不条理であり、堪え難い。
例えば、結婚について。二十代半ばになると、周りの友人知人たちが次々と結婚していく。幸せオーラ全開の彼ら彼女らをよそに、自分は一体何をしているのだろう。彼ら彼女らが互いの存在を認め合い、互いを幸せにしようと一生懸命になっている。いつか自分もそうなるだろうと思っていたが、その気配すらない。
そういった状況を打破するためには、当たり前だが行動しなければならない。具体的には省略するが、理想的なパートナーは天から降ってこない。頭でわかっていることを実行できないのならば意味がない(これは自分に言っている)。
もちろん、恋愛あるいは結婚をすることが良いことばかりではないということは理解しているつもりではある。むしろ、問題だと思っているのは、そうやって手をこまねいているうちに、人生が終わってしまうのではないかということであって、それを恐ろしく思っている。
陰鬱な空気が漂ってきたから、改めて言う。
決して死にたいわけではない。むしろその逆である。それゆえに、時の流れに身を任せた先にある「死」を待つばかりの人生を憂いているところである。
ひとことで言うと「行き遅れる」ことを恐れているのだが、私の場合、突拍子もないが「死んだら、どうなる」ということが頭をよぎってしまった。
いろいろと表現方法は異なれど、似たようなことを考えている人も少しはいるだろう。この文章になんらかの存在意義が見いだせたならば、少しは気が紛れるに違いない。
ちなみに「死んだら、どうなる」というのは、山梨県出身のラッパーグループ「stillichimiya」が2014年に発売したアルバムのタイトルにあやかって用いた表現である。
アルバムに収録されている「ズンドコ節」がツボにハマり、繰り返し聴いている。逆に、その他の曲はよく知らない。それくらい適当な方が、人生気楽でよろしい。
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