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名前屋(1) (1/4)

あらすじ
『名前屋』で名前を購入すれば、新しい名前での新しい人生を始めることができる。ずっと自分の名前にコンプレックスを持っていた「鬼山」は名前屋で名前を買うことで、新しい人生をスタートさせようと決意するのだが。
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 バーで知り合った男から『名前屋』の話を聞いたのはおよそ一年前のことだ。『名前屋』とは文字通り商品として名前を売っているお店である。 
 名前が商品? 初め、私もその意図が分からなかった。そもそも人は皆、既に名前を持っているし、もし気に入らなければ改名することもできる。果たしてわざわざ名前を買う必要があるのだろうか? 

 けれど『名前屋』で名前を購入するのは、そんな単純なことではないと言う。『名前屋』でひとたび名前を購入すれば、その瞬間、世界が一瞬で組み変わって、戸籍から人の記憶にいたるまで、全てが新しい名前に切り替わる。つまり、新しい名前で新しい人生を始められるのだ。 

 私は初め半信半疑だった。ところがある時、取引先の役員の方と飲んでいた時、自分は昔「佐藤」だったが、『名前屋』で「月城」という名を買ったところ、本当に人の記憶や戸籍から小学校の卒業証書に至るまでの名前が一瞬で切り替わった。そして名前が変わったことで、人生が激変したと言う話を聞いて以来、『名前屋』の存在を信じるようになった。 

 私はずっと『名前屋』で名前を買うことを切望してきた。けれど『名前屋』は完全紹介予約制で、問い合わせた時には一年先まで予約がいっぱいということだったので、一日千秋、私は辛抱強く今日の日を待った。いよいよ今日を境に、私の新しい人生が始まるのだ。 

 午後6時に会社を出て、『名前屋』から事前に送られて来た地図を頼りに私は店を目指した。 
 都営新宿線の『曙橋』から数十分。住宅街を通って、かなり細い路地を左に、右にと進んでいくと最後は袋小路に行き当たってしまった。

 地図に記された場所は丁度袋小路を正面にした横の建物のあたりである。しかしそこには一見店らしいものは見当たらない。夏の終わりのこの時期、あたりはだいぶ暗くなっていた。辺りに街灯などはいっさい存在せず、私は少し心細い気分になった。

 それでもしばらく地図の印あたりの建物を点検すると、袋小路の一番奥の死角になっている場所に、ようやく地下へ続く階段を発見した。

 地図を見る限り、随分変な場所にあるなとは思っていたが、予想通りの怪しい場所に少しためらった。ただ、ここまできて流石に後戻りはできない。私は覚悟を決めて階段を降りて行った。 

    しっとりとした丈夫な重いドアを開けると、すぐにバーカウンターとその奥に並ぶお酒が目に入ってきた。一瞬、私は店を見違えたかと思った。しかし、すぐにカウンターの中の男が「いらっしゃませ。お待ちしておりました」と声をかけてきたので、私は勧められるがまま、カウンターの席に着いた。

 一杯、サービスでご馳走になれといということだったので、私はソルティ・ドッグを注文した。

 男は慣れた手つきでカクテルを作っている。一見、普通のバーデンダーに見えた。ただ、その服装がいささか特殊である。まるで先ほどパリコレに出演して来たかのような一風変わった黒いトレンチコートのようなものを着ていた。ただ、話し口調はとても丁寧で、声は深海生物の囁きのような、なんとも落ち着くトーンで、私は男に好感を持った。

 ソルティ・ドッグを一口二口、良い感じに緊張がほぐれたところで、男は顧客用のファイルのようなものを取り出してきて、本題の話を始めた。

『名前屋』(2) に続く)


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