「空気が読めない」ってなんだ??

 僕は、「空気が読めない」って言われ続けている人生だが、「空気が読めない」ってなんだろう。というか、そもそも空気ってなんなんだろう。その辺を考えてみた。

 「空気」とは、まあ言ってしまえば、なんかよくわからないものなわけだ。山本七平以下、多くの研究者が議論してきた話題でもあるし、日本の社会問題の根源にはこの「空気」なるものが横たわっている。

 空気は、2人の間では関係の空気としてあらわれ、3人以上集まると場の空気としてあらわれるというのは有名な話だ。それは空気の分類でしかなく、空気の具体的な説明にはなってない。空気とは、行動原理となり得るもの(少なくとも日本人にはそう感じられるもの)である。それを考慮すると、僕が思うに、空気とは以下の二つの図でわかりやすく解説されると思う。

図1


図2

 図1は、行動原理を通時的ー刹那的、普遍性 *1) ー特殊性 *2) で四象限に区分したものだ。常識と空気は異なる。常識は空気よりも、記憶の影響を強く受ける。空気は、記憶の影響をほとんど受けない。通時性+普遍性は、社会規範となる。ドイツのナチスの反省から生まれたドイツの規範等。もちろん、この普遍性とは狭義の普遍性とは異なる。社会共同体が「普遍的である」と了解したにすぎない、実際は特殊性の塊の規範でもある。ただ、それを普遍的だと考えなければ共同体の維持は不可能だから、そうしているにすぎない。それは、それとして共同体の生存のためには重要な行動原理なのだ。ナチスを悪と見做さなければ、ドイツは滅びる。ナチを受け入れ、賛美することは共同体の生存を著しく損なうのだ。

 この四象限において、空気とは、特殊性を帯びた、刹那的な行動原理だ。空気に従って行動した人間が、その行動を後から内省し、どのように自分自身を納得させるかを考えてみればわかる。「なんであんなことしてしまったんだろう」と考えるだろう。自分がそう思ったからそう行動したのではなく、その場(=特殊性の絶対化+刹那)でしか通用しない行動原理に従って行動したにすぎないからだ。刹那的であり、特殊な行動原理である。

 図2は、行動原理を非限定的 *3) ー限定的 *4) 、普遍性ー特殊性で四象限に区分したものだ。
 宗教的な行動原理は、目的を時間軸上の先におく。神に救われる、涅槃に到達する等。何かしらの宗教的到達度目標があり、その目標を達成するためにどのような状況においても死守すべきものを定める。戒律でもいいし、法でも、呼び方はなんでもいい。それを死守することが、宗教的到達度目標に至るかどうかを左右するのである。*5) 宗教の前提として、他の宗教よりも自分達の宗教の方が善いと考えている。そういう前提に立たないと信仰の前提が覆される。自分達の宗教は他の宗教よりも普遍的であり、より善い人生に導かれたくば我が宗教を信じよ、と語りかけるのである。
 宗教よりも、限定的なのが学問である。アルコールは体に悪いことは科学的に証明されている。しかし、日中の活動でストレスを溜め込んだ中年男性がビールやワンカップを購入せずに帰路に着くのは耐え難い。断酒しようと思っても、3日目にはハイボールに手を伸ばす。学問とは限定的な行動原理にしかなりようがないのだ。
 宗教の普遍的な部分を排除したものが、空気である。なおかつ、空気は非限定的だ。どのような状況においても死守すべきものなのである。どれだけ肌荒れが気になっていようが、マスクはするだろう。どれだけお気に入りのリップを塗っていようが、それを落ちることを厭わずマスクをするだろう。自分の両親が馬鹿にされていても、友達の前で笑って誤魔化しているだろう。同時に、空気には、普遍性はない。空気は広く、多くの人にも強いることができる原理なのだろうか。いや、空気は当事者にとってみれば強固で争い難いものだが、視野を広く保てば軟弱なものだ。欧米の人たちから見れば、日本人のマスク着用率は異常なものとして映る。空気には外部が存在しないのだ。
 そして、最後は規範だ。*6) 規範とは、セルフィッシュなものだ。他人のために生きる、と強く決意しようが、それはその個人において重要な行動原理なのであり(=特殊)、そうであるが故に、貧弱(=限定的)だ。規範は個人の内部表現であり、状況依存度が高い。体調や昨夜の睡眠時間などによっても変わる。行動原理としては貧弱であるし、自分の存在をどのように感じたいか、というフロイトの言う「うめあわせ」である場合がほとんどだ。

 これが、空気の正体である。刹那的、特殊性、非限定的であるものが、空気なのだ。
 私たちは空気に抗うことはできない。マスクを批判する人たちは仕切りに科学を持ち出し、統計を持ち出し、マスクが不要であることを説く。しかし、学問は図2でわかるように対角線上にある概念だ。空気を行動原理として選択する習慣がある集団には届かないのも無理はない。そもそも志向しているものが真逆なのだ。日本において、科学的な知見が市民に浸透しないのにはそういうわけがある。
 空気に抗うには、図1で言うところの「社会規範」*7) が必要だ。これもまた、対立概念であるが、それも日本人にはない。あるデータを紹介しよう。13歳から29歳までの若者を対象とした調査だ。質問は「迷惑をかけなければ、何をしてもいいと思いますか」だ。


グラフ1

 日本は、アメリカ、フランス、イギリス、スウェーデン、ドイツ、韓国と比較して最低。ほとんどの若者は他人に迷惑をかけるなら、自分の行動を自主的に制限してもよいと思っている。
 迷惑というのは、内在化された他者がどういう存在かによって変わってくる。内在化される他者がどのような行為を迷惑と思うだろうかによって、迷惑の質も変わるのだ。

 それが日本人の美しいところだ!とか言われそうだが、戦時中の日本陸軍は兵站を一切考慮しない作戦を連発したことによって首を絞めていったことを考えると、社会規範を持っていないことは集団の生存を脅かす一因になりそうだ。故に、これを日本人の美徳とするなら、美徳ゆえに国家存続の危機をまねいたわけだ。なんと皮肉なことだろう。失敗は成功の母。成功は失敗の父なのだ。

 話を戻すと、日本人の社会規範値(著者の造語)は最低だ。誰も自分の意思を貫くことよりも他者の虚害(⇔実害)を恐れている。それは、社会規範に競合する行動原理を優先しているからにすぎない。普遍性を求めながら、特殊性を…、通時的な行動原理を志向しつつ、刹那的な行動原理で…、などということは原理上不可能だ。日本人は、刹那、特殊性にしか意識が向かないのだ。当たり前といえば当たり前。

 100年から150年の間に大地震がきて、無慈悲に生活基盤を奪っていく。台風も毎年来る。暖を取るために拵えた屋根も、必死に耕した田んぼも、家族も、友人も、今まで築いてきた生活基盤の全ては、自然の脅威の前には無力だ。私たちが恐るべきものは、侵略するべく圧倒的武力で襲ってくる他国の軍隊ではなく、意思を持たない自然災害なのだ。通時的な思想を持てだって? 明日、大災害がきて全てを焼き払うかもしれないのに? 普遍的な行動原理を持てだって? あるのは、普遍性を追い求めても所詮一災害によって焼きはられるという普遍なものなどないという普遍性のみだよ〜。というような精神性が構築されていっても、それが賞賛される世界に生きていても、誰も責めようがない。

 私たち日本人は、刹那ー特殊にしか意識を向ける必要がないのではなく、それだけしか考える意味のない国土に生きている。これも言語ゲーム的には説得力があるかもしれないが、因果関係なんてものはどこまでいっても、「個人の感想」なわけだ。マスに感情的な納得を求めても意味はないから、原因はさておきたい。まあ、とりあえず、私は普遍性を志向しようとする日本人はほとんどいないと主張したいわけだ。そう考えると、私たち日本人の中には確固たる責任*8) は存在しないこともわかる。

 こう考えると、「空気が読めない」というのも見えてくる。非限定的なものに向かおうとする言動、通時的なものに向かおうとする言動、普遍的なものに向かおうとする言動は「空気が読めない」とみなされる。それらの言動を繰り返す存在が集団の内部に居続けると、空気という行動原理を維持し続けることができなくなる。

 それに根拠がありますか?
 論理的に話してもらってもいいですか?
 それに従うことによって、会社は良くなりますか?

 これらの発言は、すべて空気と違う行動原理が根底にある発言である。それらを日本人が受け入れることはできないだろう。

 みんながいいと言ってるんだから、いいんだよ。

 そういう言葉が口をついて出てくる。

 では、空気を読めない奴は、頑張って空気は読まなければいけないんだろうか。空気を読むことによって、日本の社会に溶け込まないといけないのだろうか。それによって、生存の確率が高くなることを目指すべきなのだろうか。

 私は俗にいう「ゆとり世代」だ。小さい頃から目指したいものは何か?を考えることを推奨され、自分の意見を言う機会を与えられて育てられてきた。私自身はそれについては肯定的だ。自己保全欲求からそう思っているわけではない。人生は自分の所有物であり、そうあるべきであると思うからだ。(所有などという概念が虚構でありことは後日述べる。)
 しかし、小さい頃から正しいとされてきたことは、社会に出たらそうではなくなっていた。飲み会の誘いを断れば、ゆとり世代はわからんと言われ、定時に帰ることを目指して頑張っていれば、ワークライフバランスなんていうものを求めているなんて、仕事にやる気がないのか!とかって言われる。いや、私たちは正しいと言われてきたことを素直に実践しただけなのに。正しいとされてきたことが、18歳(あるいは、20代前半)に全く別のゲーム版の上で木っ端微塵に崩れ去った。
 私たちの世代はそういう時代の趨勢に振り回されて生きてきた。そういう社会の文脈に絡め取られていく個人の文脈から考えると、社会は私たちが思うほどちゃんと回ってないと思えてしまう。どうせ、正しいなんてものはコロコロと変容していくんだよねー、って感じが友人たちの中にも流れている。

 私はそういう人間だ。それを前提に好き勝手言わせてもらえば、社会なんてゴミ以下だ。おっさんたちがつくった教育カリキュラムに従った結果、「ゆとり世代」と括られて、マヌケだとレッテルが貼られている。そんな社会に隷属することが私たちをさらに幸せにしてくれると実感できない。

 この社会が空気によって支配されているなら、私は空気は読まない。自分の道をいく。正しさと豊かさを同時に追求しつつ、上の世代が生み出した「私たち」だからできる反抗を、怨念を思う存分撒き散らして生きていく。さて、おっさんとおばはんはどう答える?あなたたちが温存してきた空気なるものを根底からぶち壊して、調和を乱す「ゆとり世代」を。私たちは「Z世代」よりも険しいぞ?私たちは少なくとも、周りに合わせることが良きことだとは習ってない。自分の人生を生きることが正しいことだということをインストールされているからな。


注釈
*1) 普遍性というときの普遍性とは、普遍であるという前提を考慮しないと、そもそも成立しないものであることを表している。つまり、個人の内部表現では普遍性を志向している。その前提が共有されている行動原理であるから、批判が可能である。いかに普遍性が説明可能かを絶えず自己言及的に説明し続けなければならないからだ。
*2) 特殊性というときの特殊性とは、普遍性を志向させ得ないものであることを表している。個人の内部表現では、生存本能がエンジンとして存在し、それに駆動された結果、普遍性を志向しようがない行動原理である。故に、外部が存在しない。一定の条件を満たした中でしか成立しないものであることを皆理解し、それに従うからである。よって、批判の対象にもならない。
*3)非限定的というのは、各人の状況(内部、外部)には左右されない程度の強度があることを表す。 「お金がないから、人を殺してもいい」に対して、「間違っている」と考えるのは、「人を殺してはいけない」という行動原理が各人の状況には左右されない強度を持った原理であるからだ。
*4)限定的というときの限定的とは、各人の状況によって採択される行動原理である。「お金がないから、負の外部性に目を瞑り金を稼ごう」と考えるのは、手段を選ばず金を稼ぐことは悪であるという行動原理が各人の状況に左右される程度の強度しか持ち合わせていないからだ。
*5)もちろん、現在の自分の内部表現を到達度目標としている宗教もある。天国に行くためではなく、今の自分の状態を一定に維持し、精神統一をはかることを推奨する宗教だ。密教の坐禅などは、それにあたる。
*6)規範というときの規範は、社会規範に対して、個人の決意や覚悟のようなもののことを言う。毎日5時間勉強しようと決意したところで、それを貫徹することができる人はどれぐらいいるだろうか。貫徹できないのは、内部環境に対して限定的な側面があるからだ。公表することや他人を巻き込むことで決意を実行し続けられるかもしれないが、この場合、そのような状況の中での決意を規範とは言わない。周りに監視してもらうことによって一定以上の能力を示すことができることは外部からの圧力が加わっている。今回取り扱うのは、内的(内面化されたものも含む)な行動原理のみだ。
*7)社会規範とは、社会の生存確率を上げると集団内で合意されたものを指す。故に、迷惑をかけることがなければ満たさなければいけない条件として内面化されている。迷惑をかける=共同体の構成員に損害が出る、であるから、そうならない限りは本人の意志に従って行動すべきであるというのは、存立危機を乗り越えてきた共同体内ではごくごく当たり前のことである。
*8)責任とは、responsibility(response + ability)の日本語訳。周囲からの要請に対して、誠実に応えよう/続けようと考え、行動するための可能性(=能力)である。一方的に押し付けられたものは、責任ではない。本人の中に要請に応えようとする可能性(=能力)という前提がなければ責任は成立しないのだ。例えば、ブラック企業で無理な残業を命じられたとしても、要請に応えるべき前提を持たない。給料は合法的な労働に対して支払われているのであって、違法な労働に対して支払われているものではない。子どもに対して、生計を立てるために労働を強いることもできないのは、子どもにそのような能力がない(=責任がない)と国際的に認めているからだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?