抽象企業

抽象的に悩んでおる、落ちこぼれの大学生であります。 私がnoteを利用する目的は、私と…

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抽象的に悩んでおる、落ちこぼれの大学生であります。 私がnoteを利用する目的は、私と同じような価値観を持った方との出会いです。 X(Twitter)でDMしていただけると幸いです。 楽しみにお待ちしております。失礼します。 X→@chusho_kigyo

最近の記事

既読無視と未読無視はどちらの方がひどいか

 元々のそれぞれの定義はおそらく次のようなものだったでしょう。つまり、未読無視とは、気づいていないために無視してしまうこと。それに対し、既読無視とは、気づいているにも関わらず無視すること。  しかし、LINEが人口に膾炙した現在、既読を付けないままにメッセージを読み取り、返信するのがめんどくさく感じられるものに対してはそのままスルーすることで、あたかも「忙しくてメッセージが見れなかった」というアリバイ工作をとる戦略が当然になされるようになりました。  当然、この戦略は誰もが密

    • 朝倉未来について

      7月28日、朝倉未来vs平本蓮 なんと試合結果は平本蓮の1ラウンドKO勝ち 私はその衝撃から、手垢がついた表現で申し訳ないが、胸が空っぽになってしまった。 私自身、朝倉未来を強く応援していたわけではない。 これまでの彼らの因縁を純粋に追いかけながら、試合当日まで気持ちを高鳴らせてきたのは事実だが、両者のどちらかを強く応援していたわけではなかった。 むしろ、私の予想では、今や期待になってしまったが、4ラウンドまで試合がもつれ、最後に平本蓮が朝倉未来をようやっとなぎ倒して勝利す

      • なぜマスオはサザエの家に上がり込んだのか?

        なぜマスオはサザエの家に上がり込んだのか? 今回はこれを社会学的に考察したい。 そのため本稿では、当時の社会構造と規範を踏まえて考察する。 マスオが妻方同居をした理由、それは「サザエさん」で描かれる家族を理想的に見せるためである。 これを考える上で重要なのは当時の家族の理想像である。 実はこのころ家族像は大きく変動した。 その背景にあったのは、核家族世帯の増加である。 核家族世帯の増加ときけば、我々がよく耳にする「核家族化」、すなわち、従来の家父長的な夫婦と親世代が同居す

        • 「リンダリンダ」とは何か

          今回はリンダリンダの歌詞を解説したい。 しかし、リンダリンダの歌詞解説はググればいくらでも散見されるテーマであり、今更することではないかもしれない。 ただし、私にはどうしてもせねばならんと感じるところがある。 それは、「リンダ」って結局なんなんだい? という疑問へのアンサーだ。 「リンダ」の追求へ向けて本稿を綴ろう。 「リンダ」とは何か? まず第一にできる解釈は愛の対象である。 愛する人の名前が「リンダ」と言っても良い。 歌詞を見てみれば、「どうか愛の意味を知ってください」

        既読無視と未読無視はどちらの方がひどいか

          カネコアヤノ『光の方へ』〜空っぽ・充溢・氾濫〜

          私が今回取り扱う歌詞は、カネコアヤノの「光の方へ」という歌だ。 しかし、私にはカネコアヤノの全てを解釈するほどの余裕はない。 だから、他の曲との連関の中で語ることはできない。 また私には音楽的素養があるわけではない。 音の高さやリズムや表現に対し、微細な注意を向けられない。 だから今回は、「光の方へ」をあくまでテキストとして解釈し、そして批評し、自身のためにもう一度位置付け直すことを目的としよう。 最後まで読んでいただければ幸いだ。 この歌を理解するために、三つの概念を導入

          カネコアヤノ『光の方へ』〜空っぽ・充溢・氾濫〜

          浸透圧の哲学

          今回は浸透圧に対する私の解釈をまとめることで、私自身を内破することを目的にする。 そこで、浸透圧のエロティックかつ嘔吐的な感情を暴露しておきたい。 まず、浸透圧とは何か。 これは、生物学における概念だ。 浸透圧とは、溶媒が半透膜を通って浸透しようとする圧力のことである。 例えば、淡水に生息する魚類を海水に投入すれば、彼の身体は、外部の、多分に塩化ナトリウムを含む液体の方に、彼の半透膜を通じて漏れ出る。 身体を同定していたはずの半透膜と、堅牢な石垣として機能していたはずの鱗か

          浸透圧の哲学

          野狐禅「カモメ」

          今回は、野狐禅の「カモメ」の歌詞を解説する。 歌詞は以下の通りだ。 この歌では、ある人が「僕はもう疲れきってしまってね」と切実に打ち明けるところから始まる。 歌の歌詞はあえて、抽象的な物言いをなすことで、聴き手に具体を委ねる。 なぜ疲れきってしまったのか? その問いに明示的な回答は与えられない。 だが、とにかく憂鬱なのだ。 疲れ切ってしまった人は、その後、外部からの遮断を試みる。 カーテンを閉め、段ボールの中に閉じこもる。 ここでの描写では、主に物理的空間的な遮断を目指して

          野狐禅「カモメ」

          金属バット〜垢抜けた白々しさ〜

          はじめに 芸人、金属バットの面白さとは、彼らの「垢抜けた白々しさ」にある。 友保の発言において、やや名言めいた言葉 「みんなちがってどうでもいい」 はまさにこれを象徴している。 ここではその発言研究を通して、彼らのあり方を、断片的にではあるが、掘り起こしてみよう思う。 みんなちがって、みんないい 周知の通り、この言葉は、金子みすゞの言う「みんなちがって、みんないい」 をフリにしている。 改めてこの詩を引用でもしておこう。 改めて、良い詩だ。 この詩の中では、私と小鳥

          金属バット〜垢抜けた白々しさ〜

          例えツッコミのメカニズム

          例えツッコミの定義 ここでは、例えツッコミのメカニズムについて解説する。 いきなり抽象的な話になるが、初めに、結論を述べておきたい。 例えツッコミとは何か。 それは、相反する二項を、一つの共通項によって同居させることで、笑いを誘うテクニックである。 「生まれたての子鹿か!」 では、具体的な話に定着させていこう。 ここでは、有名な例えツッコミ「生まれたての子鹿か!」というフレーズに注目したい。 おそらく一度は聞いたことのあるフレーズだ。 バラエティ番組のローション相撲で、

          例えツッコミのメカニズム

          SDGsと記号論

          SDGsとは文化である。 しかし、それと同時に、SDGsとは文化である。 カラフルな円環に身を固め、文化的フェティッシュから世界を裁断する。 まさに、イデオロギーとしての諸生産物から抜け出せないでいるようだ。 だが、本来的には、自然との調和とは文化を排除した上での調和であるはずではないか。 しかし、残念ながら我々は文化を捨てることなどできない。 我々が、シミュレーション、共同幻想、システム、内存在であることは、これまで多くの指摘を受けてきたように、ほとんど自明のことである。

          SDGsと記号論

          「主語がでかい」とは言わせない

          「主語がでかい」なんて言葉を最近よく耳にする。 例えば次のような文。 「我々男性は細かい所までこだわるんですよ!」 まさに「主語がでかい!」という批判が飛んできそうな主張である。 「我々男性」に勝手に組み込まれた人からすれば、 「別に俺はこだわらねぇよ!」 とか 「何勝手に代表者気取ってんだよ!」 とか言いたくなるのも無理はない。 しかし「主語がでかい」批判が指摘しているのは、あくまで主張の真偽ではなく、相対主義的コードからのズレを指摘しているように考えられるのだ。 ここに記

          「主語がでかい」とは言わせない

          魅力的な人になる

          あなたが魅力的な人間になりたいのなら、この文章はお役に立てるでしょう。 強烈な幻想とは、切断的認識と結合的再解釈によって生じる渦の中に、おぞましさにも似た、美を発見するところにある。 これについて説明する。 切断的認識とは、対象の個々の振る舞いを、ぶつ切りに認識することである。 我々は、何かを見る際、その何かを永遠に観察することはできない。 あるとき見たそれは、時間的にまたは空間的に隔たりを設けられ、やっともう一度見ることを可能にするのだ。 つまり、観察者は切断的にしか認

          魅力的な人になる

          読書的な理念による病

          読書を通じて知的に発展することは、しばしば読書的な理念として掲げられる。 読書においては、一旦個人の持つ思想を徹底的に破壊させた後に、もう一度思想を立て直す運動がなされる。 しかし、この破壊的過程と建設的結末に、もう騙されてはいけない。 もう少し正確にいうならば、建設的結末には騙されてはいけない。 読書の本来的価値は、ただ思想の破壊において見出されるべきであるからだ。 我々は読書に何を求めているのか? 処世術?べき論?社会的地位の獲得? いやはや、自分らしさを求める凡庸な

          読書的な理念による病

          情熱渇望症

          私は、情熱渇望症である。 時には、何に対しても不感応な、長い夜の時間を過ごすことがある。 特に、何かに大きく揺さぶられることもない。 いや、それは言語的な防衛本能によるものなのだろうか。 私が思うに、もしこの世に言葉などなかったならば、ただミミズやオケラやアメンボのように、ただそのままに生きられたのかもしれない。 しかしながら、私は言語を、深く残念ながら、習得してしまった。 生きている意味がわからなくなり、哲学を少々学び、そして構造主義を知り、やがて全てが言語によって構成さ

          情熱渇望症

          哲学的に死にたい

          私は哲学的に死にたい 哲学というものは一応言語的活動による抽象的な世界であるが、その言語行為を通して私は何故だか興奮してしまう。 なぜだろうか? おそらく、哲学というものは、言語行為でありながら、言語行為から一歩抜け出すことができると感じるからだ。 言語を通して言語を超える。 それこそが哲学たるものの本当の美しさなのだ。 哲学の世界に埋没することは、哲学的世界で人生を全うすることは、すなわち言語を超えた何かを感じながら死ぬことを意味するのだ。 さあ、哲学的に死んでみよう!

          哲学的に死にたい

          酒とタバコの時代

          人生100年時代と言われる現代。 少子高齢化が叫ばれる中、我々は果たしてそんなに長生きしたいのか? 私はそうは思わない。 せいぜい長生きして75歳までには必ず死にたい。 早ければ早いほどいいとまでは言わないが、 しかし、現代人は恐らく長生きするだろう。 なぜなら、現代人は「予測可能性」に対してあまりに傾倒してしまっているからだ。 予測可能性とは、すなわち、アレコレをしたらコレコレになるというような明確な未来が「予測」できる状態を指す。 たとえば、私たちは食べログやAmazon

          酒とタバコの時代