「主語がでかい」とは言わせない

「主語がでかい」なんて言葉を最近よく耳にする。
例えば次のような文。
「我々男性は細かい所までこだわるんですよ!」
まさに「主語がでかい!」という批判が飛んできそうな主張である。
「我々男性」に勝手に組み込まれた人からすれば、
「別に俺はこだわらねぇよ!」
とか
「何勝手に代表者気取ってんだよ!」
とか言いたくなるのも無理はない。
しかし「主語がでかい」批判が指摘しているのは、あくまで主張の真偽ではなく、相対主義的コードからのズレを指摘しているように考えられるのだ。
ここに記された数千文字は、「主語がでかい」批判を乱用し、相手を言い負かした気になっている、論破系ネット民に対する怒りであり、「主語がでかい」批判がいわば、ただの時代的イデオロギーの適用に過ぎないということを証明する営みである。
より発展的な議論をするために「主語がでかい」批判の地位をもう少し陳腐化しておくことが本稿の狙いである。

まずは主語と述語の関係性について考えてみよう。
ここに三つの例文を挙げる。

「犬は動物だ」       ー①
「犬は嗅覚が鋭い」     ー②
「この犬は食べるのが好きだ」ー③


①例文、これには文句のつけようがない。
犬は動物である。
高校数学で習った知識をふんだんに用いて、犬と動物の包含関係を考えれば「犬は動物の部分集合である」と言うことができるだろう。


では②の例文はどうだろうか?
犬は本当に嗅覚が鋭いのだろうか?
この命題の確実性を証明するにはどうすれば良いのだろうか?
まず、全ての犬を調べ上げることは不可能である。
また、実際に調べてみると、嗅覚の鋭くない犬、つまり②の命題から外れる犬も見受けられるだろう。
ゆえに、②の命題は完全に真であるとは言えない。

もし仮に、そうした例外の犬、嗅覚の鈍い犬からすれば②の命題はたまったものではない。
まさに人間の如く
「勝手に犬代表してんじゃねぇよ!」
とか、まさに今回のテーマに関わることだが
「主語がデカいんだよ!」
とか言いたくなるような話だろう。

ここで③の例文を見たい。
この文を見るとわかるように、非常に個人化された命題である
これなら「主語がでかい」批判の対象にもならないはずだ。
しかし、この命題自体の確実性は、②と同様に、危ういものである。
なぜなら、主語を個人化したとしても、命題の例外があり得る可能性は無くならないからだ。

まず、この命題はいかなる状況で主張されるものなのであろうか?
それは「この犬」がエサを嬉しそうに食べている様子を見た時である。
「この犬は食べるのが好きだ」と言うために、わざわざ科学的な実験を行う者などいない。
「この犬」が尻尾を振りながら、バクバクとエサを噛み締める様子を見て
「間違いない!この犬は食べるのが好きだ!」
と主張する程度のものだろう。
しかし、ここで一つの疑問が生じうる。
果たして「この犬」は本当に食べるのが好きなのだろうか?
尻尾は振っているが、もしかすると、食べるのが本当は好きでないかもしれない。
また、ある時間や状況から食べることが嫌いになるかもしれない。
考えると疑問は尽きないものである。
さらに、科学的実験を行ったとしても例外の可能性は想定なされる。
命題から溢れる例外の可能性は無限に想定可能であり、この命題の確実性は②と同様に揺らいでしまうのだ(程度の差の問題考慮すべきだという批判が来そうだが、私が主張したいのはあくまで、これらの命題が同様に確実なものではないということである)。


ここで①②③をそれぞれ次のように定式化したい。

①=全主語、真
②=全主語、偽
③=個主語、偽

いうまでもなくこれらはマトリクス表示である。
つまり、

全体←→個人
 真←→偽

の二つの二項対立からなる分類である。
ゆえに、四つめの定式が、すなわち、

④=個主語、真

が考えられる。

ここで重要な点は、①と④の希少性である。
つまり、完全に真なるものは滅多にありえない。
それが存在したとしても、それらはあるコードから演繹的に導き出されたものに過ぎず、コード自身への懐疑可能性を排除したときにのみ、存在するだけだ。
①の命題でさえ、犬という定義と、動物という定義、に含まれる記号内容から演繹的に導出されて初めて真になるわけであり、それらの定義を疑えば、命題自体が瓦解する。
なぜなら、以上の定義は非常に恣意的なものであり、動物という記号表現に付随した記号内容は他でもよかったからである。
動物(=ドウブツ=doubutsu)という音の綴り(=記号表現) と「生物を二大別したときに、植物に対する一群」(=記号内容)は必ずしも一致する必要はない。
例えば、動物は英語で”animal”と訳される。
これは上の記号内容が、「動物」で示されようと”animal”で示されようとどちらでもよかったことの一例である。
もっと言えば「動物」でなく「フリンフォン」での良かったというわけだ。
しかしながら我々はこのコードを疑いはしない。
そして疑わないからこそ、①の命題が成り立つのだ。


ここでようやく私の主張に入ろう。
『「主語がでかい」批判は、対象の確実性を批判するのではなく、相対主義的イデオロギーの適用に過ぎない。』
これが私の主張だ。

私の命題を考える上で注目していただきたいのが、「全主語、偽」と「個主語、偽」の分断である。

「主語がでかい」批判の対象になるのはあくまで「全主語、偽」の場合であり、「個主語、偽」ではない。
そして、今ある全主語的主張を、個主語的主張に言い直したならば、「主語がでかい」批判を免れることができる。
例えば、初めに出した例を見ていただきたい。

「男性は細かい所までこだわる」ーp

この文章は全主語的であるから、これを個主語に直してみよう。
すると、

「私は細かい所までこだわる」 ーq

という命題に早変わる。
しかしながら、pの命題とqの命題は同じように偽である。
pの命題は言うまでもなく、「主語がでかい」点について偽であると言える。
ではqの命題はどうだろうか?
本当に細かいとはどう言うことだろうか?
「細かい」という言葉は相対的なものであり、それ自体曖昧な表現である。
また、仮にその意味で、つまり相対的に細かい、と言う意味で捉えたとしても、100%純然たる相対的細かさを常に発揮することなど不可能である。
qの命題を発言した人が、例えば車好きで、ハンドルからエンジンまで自分好みにカスタムしていれば、それは相対的に細かいとみなせる。
しかし、彼の興味のない分野、例えばネイルや化粧に対して、同じように相対的細かさを発揮できるとは思えない。
つまり、個人化された命題に関しても、偽である可能性は大きく残されたままであるのだ。

では「主語がでかい」批判は、命題の確実性、真偽を批判する訳でなく、全主語性を批判しているだけなのだが、なぜ一部の現代人は、論破系ネット民は、「主語がでかい」批判をこよなく愛するのだろうか?
それは、相対主義的イデオロギーが、かなり一般的なコードになったからである。
ひとまずこのコードに従っていれば、大抵の問題に対し、確からしく批判することができるからだ。
しかし、ここまで繰り返してきたように、主語が個人化なされたからといって、偽が真に改善する訳ではない。
ゆえに、「主語がでかい」批判は、ただ相対主義的マナーに従っているだけに過ぎず(もちろんマナーは尊重すべきものでもあるが)、議論の上ではただの揚げ足取りへと頽落してしまう恐れがあるのだ。

最後に、日常表現における主語とコンテクストの関係について考察したい。
もう一度命題qを参照したい。

「私は細かい所までこだわる」ーq

先ほども話したように、「私」は見事なまでに「細かいこだわり」を見せることは不可能でる。
しかし、qの命題が日常的な会話で話された場合、受け手は意味内容は次のように変換する。

「彼は、自分が細かい所までこだわるんだと、解釈しているんだな〜」
あるいは
「彼は、自身のこだわりを自慢したいんだな〜」

つまり
「彼が言いたいことはこうではないか?」
とそれまでのコンテクストから推測し、再解釈する訳である。
ここでは、コンテクストによって彼自身が、そして、彼自身の発言が再解釈されている訳のだ。

コンテクストと主語の関係性については全主語においても言える。

「男性は細かい所までこだわる」ーp

においても、コンテクストが大きく関与しているのだ。
例えば、自身の興味関心のある内容に対して、ある女性が全く興味関心を示さなかったとき。
またその女性が一人でなく2、3人いた場合。
そうした状況に遭遇した男性からすれば

「男性は細かい所までこだわる」

という発言の内容がよく理解できるだろう。
もちろんこの発言は真ではないわけだが、私が強調したいのは、日常会話において真偽は重要でないということだ。
日常会話とは、メッセージ発信者と受信者が相互に伝えたいこと言いたいことを伝え合う場に過ぎない。

また、日常会話には、一種の礼節、マナーがあるということも踏まえておきたい。
普通の会話の中で、相手を侮辱するような発言があれば気分が悪くて仕方がない。
それと同じように、今回のテーマ「主語がでかい」も、相対主義的マナー違反をした際に用いられるものである。
もちろん、会話のマナーとして相対主義を引き合いに出すのは、現代的イデオロギーを鑑みて妥当だと言えるが、それが即「はい!論破!」になってしまっては面白くない(たわいもない論破ごっこならまだ良いのだが、、、)。


まとめに入ろう。
「主語がでかい」批判は、命題の真偽を疑うものであるというよりはむしろ、相対主義的なコードの適用である。
本当に真偽を疑いたいのであれば、本当に発展的な議論をしたいのであれば、他にもなすべき批判がたくさんあるはずだ。
そうした有用な批判は、もちろん、コンテクストの徹底的な読解から初めて生じるものであり、「主語がでかい」即批判に繋がっていてはならない。
相対主義的マナー、礼節に気を使う必要性もあるが、発展的な議論のため重視すべきはコンテクストである。
本稿を通して現状の「主語がでかい」批判がもう少し抑まってくれたなら幸いだ。

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