浸透圧の哲学

今回は浸透圧に対する私の解釈をまとめることで、私自身を内破することを目的にする。
そこで、浸透圧のエロティックかつ嘔吐的な感情を暴露しておきたい。

まず、浸透圧とは何か。
これは、生物学における概念だ。
浸透圧とは、溶媒が半透膜を通って浸透しようとする圧力のことである。
例えば、淡水に生息する魚類を海水に投入すれば、彼の身体は、外部の、多分に塩化ナトリウムを含む液体の方に、彼の半透膜を通じて漏れ出る。
身体を同定していたはずの半透膜と、堅牢な石垣として機能していたはずの鱗から、じわじわとはみ出す浸透圧の神秘が働く。
これが神秘である所以は、その堅牢な石垣にある。
堅牢であるからこそ、浸透圧による融解が相反し、神秘となるのだ。※

ここで私自身の話になるが、私は「恋」と言う言葉に恐怖を感じている。
「恋」という言葉を周囲の人間が発した時には、もういてもたってもいられなくなる。
しかし、これは先ほどのエロティシズムと矛盾する。
浸透圧はエロティックでなかったのか?
私はこれまで、私自身について考え、私を堅牢な自己として同定してきた自負がある。
そして、「恋」とは、私を恋人と融和させるロマンを意味する。
ゆえに、「恋」はそれ自体としてエロティックなはずだ。
しかし、私はそれを嫌悪している。
簡単にいえば、怖くて仕方がないのだ。
これが初めに述べた、私の、浸透圧に対する嘔吐的な感情である。
嘔吐という言葉は、これまで自己であったはずの自己の内容物を外側に蒸吐き出すことだが、それがエロティックな浸透圧と異なるのは、端的に心地が悪いということだ。
つまり、ここで、浸透圧から推論なされる二つの全く別種の性質が、エロティシズムと嘔吐が導き出されるのだ。

問題は、この両義的な性質をどう扱えば良いか、という点にある。
端的にいえば私には分からない。
ただし、一つ言えることは、個がさらなる石垣を築き上げることでより強烈な個を形成する。
そして、それによって浸透圧に対する恐怖を削減する。
それができれば、浸透圧による嘔吐を引き起こすこともなくなるだろう。
だが、これは私の感情的に好かない。
なにせ、私はニーチェのように強くはない。
もっといえば、ニーチェは発狂して死んだわけだから、ニーチェでさえこれはできなかったと言えるだろう。
また、反対に嘔吐の感情をなくすために、むしろ個を弱体化させる方向もありえる。
これは、無の境地に近しい。
つまり、もう私自身を持たないことで、私を含めた環境と完全に一体化してしまうという策略だ。
しかし、これもできない。
これは現環境が、資本主義的経済であることを踏まえれば明確だ。
資本主義では「あなたとは何か?」という問いに明確に答えられなくてはならない。
分かりやすい例は就職である。
就職の際、大学生であればガクチカを問われる。
つまり、あなたが学生生活の中で力を注いできたことを問われる。
これは、自己の同一性を語る必要がある。
そして、これは就職だけでなく、現代社会を生きる上での最低限の条件だ。
したがって、本当の意味で個を喪失する生き方を進めるには、もう社会から解脱するしかない。

ここでひとまずの結論を述べておく。
それは、どうしようもないということだ。
これはもうどうしようもない。
強く生きられないし、弱く生きられない。
私には何もできない。
完全なる行き詰まり。
ステーキを噛み締め、流動食を飲み込み、点滴を打たれて死んでゆく。
いっそのこと「ええじゃないか」と踊っていよう!

※これはバタイユの「エロティシズム」や私の「例えツッコミのメカニズム」とほとんど同じことである。

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