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感染症と「死」、そして企業経営(3)|戦前日本企業は短期志向をどのように克服したか

こんにちは。中央経済社note編集部会計実務担当です。
この記事は、弊社緊急情報発信サイト『新型コロナ危機下のビジネス実務』において、2020年6月25日に掲載した記事のアーカイブです。
同サイトは、2020年から新型コロナウイルスの感染拡大を受け、社内有志で緊急的に立ち上げた情報発信サイトであり、サイトの趣旨に賛同いただいた東京大学の清水剛教授に『感染症と「死」、そして企業経営』と題して連載を行っていただきました。この記事は、その連載の第3回です。

書籍『感染症と経営―戦前日本企業は「死の影」といかに向き合ったか』はこちら

東京大学教授 清水 剛

本稿の趣旨

これまで、「感染症と「死」、そして企業経営」と題して、戦前の日本社会と企業経営から「コロナ後」の経営について何がいえるかを考えてきた。その3回目となる今回は、株主と企業の関係について考えてみたい。

第1回 感染症と「死」、そして企業経営―戦前の日本社会から「コロナ後」を考える
第2回 感染症と「死」、そして企業経営②―三越・主婦之友・生協はなぜ誕生したか


1 福澤桃介の考え

これまでも述べてきたように、「コロナ後」の社会は、「死」というものの存在を日常の中に感じるようになった社会、という意味で戦前の日本社会と類似している。それでは、「死」を日常の中で感じる人々―「死の影の下」にある人々―は何を考え、どのように行動するのだろうか。株主について話をする前に、改めてこの点について1人の実業家の文章に少し触れながら述べておきたい。

福澤桃介、という人をご存じだろうか。名前から想像されるように、福澤諭吉の縁者、正確にいえば娘婿であるが、と同時に相場師であり実業家でもあった人物である。慶應義塾在学中に見込まれて福澤諭吉の次女、房と結婚し、アメリカ留学。その後株式相場で成功し、事業の世界に乗り出す。電力会社を中心に様々な会社の設立、経営を手掛け、戦前の五大電力会社の1つ、大同電力の初代社長になり、「電気王」と呼ばれた。こう書くと、何やら小説の主人公のような人物である。

この福澤桃介が相場に手を出すきっかけは結核であった。彼はアメリカ留学後、北海道炭礦鉄道(のちの北海道炭礦汽船)という会社で働いていたが、その時期に肺結核となり、療養生活に入る。その療養中に生活費を稼ごうとして始めたのが株式投資なのである。

この福澤桃介は多くの著作を残しているが、その中の岡本学との共著『貯蓄と投資』(尚栄堂, 1917)に「病気と失職とに対する覚悟」(1911年刊行の『桃介式』の同趣旨の文章に加筆したもの)という一文がある。

「此の種の人間(引用者注:会社に勤める人々)でも、病氣に罹らぬと云ふ保險は附けられぬ、或は會社商店に動搖波瀾があつて、首を斬られたり、職を辭さねばならぬ羽目に到達した曉は如何、其の結果は忽ち生活難に陷り、パン問題に頭を惱まさなければならぬこととなる。」(原文にはルビがあるがここでは省略した。)

福澤桃介・岡本学『貯蓄と投資』(尚栄堂, 1917)p.65

だからまず貯蓄をし、さらに投資をして資産を作るべき、というのが福澤桃介のいいたいことなのだが、当時は死病であった結核に侵され、実際に会社を辞めた人が書いた文章として読むと非常に興味深い。前回、死の影の下にある消費者の1つのパターンとして、人々は将来の不確実性に備えるために消費を減らして貯蓄すると述べたが、まさにこれはこの福澤桃介がいっているような状況である。そして、このような考え方は消費者だけでなく投資家の考え方にも共通する。すなわち、死の影の下で、将来の不確実性に対応するために手元に十分な資産を持とうとするのが投資家の基本的な考え方ということになる。

2 死の影の下にある投資家

それでは、このような投資家はどのように行動するのだろうか。

前回の消費者と同様に、投資家の間にも少なくとも2種類の投資家がいると予想される。すなわち、現在の収入を重視し、現在の配当を増やすことを求める人々と、将来にも継続的に収入が得られることを重視する人々の両者である。前者は会社に対して(将来収益が上がるかもしれないプロジェクトに投資するよりも)現在の配当を増やすように求める、短期志向の投資家であるのに対し、後者は、今の配当が若干減っても長期的にリターンのある投資であれば支持する、長期志向の投資家である。上で述べた将来の不確実性への対応という意味ではどちらの可能性もある。

それでは、死の影の下ではどちらの投資家がより多いのだろうか。

もちろん状況によるのだが、全体としてはおそらく前者のような短期志向の投資家が多くなると予想される。というのは、将来に向けた投資のリターンというのはあくまで不確実なものであり、うまくいくかどうかわからない。もちろん、そのような不確実性も含めて自分にとってのリターンを計算できればよいのだが、株主の立場でそれを正確に計算することは不可能である。そう考えると、病気や会社の「動揺波瀾」に備えようとすれば、まず現在確実に得られる配当を得たうえで、場合によってはそれを再投資することで資産を形成しようとするほうが自然である。

この話は、株式市場が発達しており、会社の株式を適正な価格で売買できるのであれば成立しない。というのは、株式市場が機能している状況では、ある投資プロジェクトが十分収益の上がるものであれば、投資により株価は上昇する。ゆえに、現在得られるお金を重視するような株主は、経営者に長期的なリターンの可能性を犠牲にしてでも配当を増やすことを要求するかわりに、単に株式市場で売ればよいわけである。しかし、株式市場で適正な価格で売買できないのであれば、株主は将来の不確実性を恐れて現在の配当を増やすよう経営者に要求すると予想される。

経営者としては、そのような株主の要求を考慮しつつ、一方で会社の将来のための投資や他のステークホルダーへの分配も考えなくてはいけないことになる。死の影の下にある投資家との関係では、経営者は株主の短期志向の要求にいかにうまく対応するかが問題となってくるわけである。

3 戦前の投資家と経営者の関係

それでは、戦前の投資家=株主たちは上で述べたような意味での短期志向的な、言い換えれば「近視眼的な」存在だったのだろうか。そして、このような株主はどの程度経営に対して影響力を持ち、これに対して経営者はどのように対応していったのだろうか。次にこれらの点をみていくことにしよう。

短期志向と高い配当性向:株式会社亡国論

まず、前提条件として株式市場について確認しておこう。日本における株式市場の歴史は意外に古く、1878年には最初の証券取引所である東京株式取引所が設立され、その後大阪、横浜、神戸、京都、名古屋という順に株式取引所が設立されている。しかし、上場企業の数は限られており、また取引は投機的な清算取引(株式の現物をやり取りせず、一定期間後に反対の取引を行って清算する)が主流となっていた(岡崎哲二・浜尾泰・星岳雄「戦前日本における資本市場の生成と発展―東京株式取引所への株式上場を中心として」『経済研究』56(1), pp.15-29, 2005)。このような点からすれば、株式市場はある程度発達していたものの、投資家が適正な価格で株式を売買する市場としては不完全なものであったように思われる。

すなわち、日常的に「死」の可能性があり、将来の不確実性に備えなくてはいけない一方で、株式市場で株式を売却することは一部の企業を除き容易ではなかった。このような状況では、株主が短期志向になり、現在の配当の増加を求めるのは自然な反応だろう(北浦貴士『企業統治と会計行動―電力会社における利害調整メカニズムの歴史的展開』東京大学出版会, 2014, pp.4-5)。

そして実際、戦前の投資家についてはその短期志向性と高配当への強い要求がしばしば指摘されてきた。その中でよく知られているものは、高橋亀吉の『株式会社亡国論』(萬里閣書房, 1930)における指摘であろう。高橋亀吉は、利益がほとんど配当に回ってしまうことで、事業の発展のための投資に回す資金がなくなり、その結果として事業が荒廃していってしまうと強く非難している(pp.4-5)。

この株主の配当への要求の強さを物語るものとしてしばしば指摘されるのが、配当性向(利益に対する配当の比率)の高さである。実際、戦前の大企業の平均的な配当性向は1921-1930年の時期に60-70%程度であり(川本真哉「兼任役員と戦前日本企業(1) : 非財閥系企業の実証分析」『経済論叢』177(2) , pp. 179-192, 2006)、この数値は現代日本の上場企業の平均的な数値である3割程度よりはるかに高い(「日本企業、配当性向3割で足踏み」日本経済新聞電子版、2018年7月13日)。

このように利益のかなりの部分を配当に回してしまう結果、内部留保によって投資を行うことは難しくなる。上記の高橋亀吉のコメントはこの点を指摘しているわけである(なお、このような高い配当性向にはもう1つ、株式担保金融といわれる仕組みが影響していることが指摘されているが、すべての企業に当てはまるわけではないためここでは省略する。この点については川本前掲論文および中村尚史「所有と経営:戦前期の日本企業」工藤章・橘川武郎・グレン・D.フック編『現代日本企業第1巻 企業体制(上)内部構造と組織間関係』(有斐閣,2005)所収を参照)。

株主の影響力:社長の多くは非常勤だった

次に、このような株主の影響力の大きさを考えてみることにしよう。上の配当性向の問題についてもいえるが、株主が短期志向あるいは近視眼的であったとしても、そのような株主が実際に経営に対して持つ影響力が小さければ、短期志向は経営に対して大きな影響を与えない。しかし、上で述べた配当性向の高さは、株主は実際に経営に対して影響力を持っていることを示唆している。

実際、明治から大正末期の間、すなわち1920年代半ばまでは株主が経営に対して大きな影響力を持っていたことが指摘されている。

明治期の日本では会社を設立するための資金が不足していたことから、資金提供者=株主となり得たのは主として華族、商人、地主等のもともと資金を一定程度持っている人々であった。そして、明治期の企業は家族所有でない場合には、しばしばこのような投資家のグループの共同事業として設立されたのである(宮本又郎・阿部武司「工業化初期における日本企業のコーポレート・ガヴァナンス―大阪紡績会社と日本生命保険会社の事例」『大阪大学経済学』48(3・4), pp. 176-197, 1999)。

そして、このような会社の意思決定権を持つ取締役は、これらの投資家によって独占されていた。投資家はしばしば複数の企業で取締役や監査役、場合によっては社長(当時、社長の多くは非常勤であった)等の地位を占めていたが、基本的にはそれらの役職は非常勤であり、ある特定の会社の経営にコミットするよりも、財務的な成果にのみ関心があったとされる。一方で、経営そのものは株をほとんど持たない、多くは大学出の人々(株式所有に基づくのではなく、俸給を得て経営に当たるという意味で、専門経営者とか俸給経営者と呼ばれる人々)に委ねられたが、彼らのほとんどは取締役の地位を持っていなかった(森川英正『日本経営史』日本経済新聞社, 1981, pp. 68-72、宮本・阿部前掲論文)。

また、取締役以外の株主たちも、株主総会の場、あるいはその他の会合等で積極的に意見を述べ、経営に影響力を行使していた(宮本・阿部前掲論文、中村前掲論文、石井里枝『戦前期日本の地方企業―地域における産業化と近代経営』日本経済評論社, 2013)。もっとも、株主といっても一枚岩ではなく、例えば地方の株主と東京の株主、あるいはある投資家グループと別な投資家グループで相反する利害を有していた可能性が指摘されている(中村前掲論文、石井前掲書、第4章)。

経営の執行と監視の分離

ところが、このような状況は徐々に変化してくる。大正期に入ると、経営の規模が拡大し、また複雑になっていく中で、大学出の経営者の影響力が拡大し、他方で投資家は取締役であることによる「わずらわしさ」から逃れるために取締役にならなくなり、取締役の地位を占める専門経営者の数が増加してきた。

これらの専門経営者は、しばしば「専務取締役」あるいは「常務取締役」という肩書を持っていた。ただし、専務取締役・常務取締役の意味は現代とは異なっている。当時、社長はしばしば非常勤だったのに対し、実際に経営を担当する実務上の責任者(通常は専任で常勤)が専務取締役あるいは常務取締役だったのである。つまり現代でいえばむしろ社長代理のような地位だった。

このような専門経営者の取締役への進出、とりわけ専務取締役あるいは常務取締役への進出は大正から昭和初期にかけて急速に進展した。森川英正のデータ(森川前掲書)をもとに、筆者と松中学・名古屋大学教授が構築したデータセットを利用して計算してみると、1913年の時点で日本の大企業の取締役の16%が専門経営者によって占められているが、専務取締役・常務取締役だけをみるとこの比率は約40%となる。1930年になると、日本の大企業の取締役のおよそ40%を専門経営者が占め、専務取締役あるいは常務取締役については、約60%を専門経営者が占めることになる(清水剛・松中学「代表取締役の誕生」(未定稿))。

このような専門経営者、すなわち株主ではない経営者の取締役の地位の獲得は、取締役の間で「経営を担当する取締役」と「監視を担当する取締役」の機能分化を生み出した。すなわち、経営そのものは専務取締役や常務取締役等(その多くが専門経営者)に委ねられるようになり、一方で社外取締役(当時の言葉では社外重役)は株主の利益を代表して経営を監視し、意見を述べていた(例えば岡崎哲二「日本におけるコーポレート・ガバナンスの発展――歴史的パースペクティブ」『金融研究』13(3), pp. 59-95, 1994)。

法人株主の影響力の増大

また、株主の影響力にも変化がみられた。1920年代になると、従来株主からの払込が大きなウェイトを占めていた資金調達において株主への依存度が低下した(中村前掲論文)。また、株主の中で個人株主の存在が縮小し、財閥本社のような持株会社や同業他社、あるいは生命保険会社などの機関投資家の存在が大きくなってきた(志村嘉一『日本資本市場分析』東京大学出版会、1969, pp.406-428)。

すなわち、明治期にはほぼすべての取締役は投資家やオーナー一族であったが、大正から昭和にかけて次第に専門経営者が進出し、経営そのものはそのような専門経営者(あるいはその他の常勤の経営者)に委ねられていった。一方で、企業の株主への依存度は低下し、また株主の側も個人株主から法人株主に変わっていった。

「引き込み」と「共存」:鐘紡にみる株主と経営者の対話

このような中で発生してきたのが、経営者による株主の「引き込み」と「共存」とでもいうべき状況である。すなわち、経営者の側で株主に対し、長期的な視野に立つ経営の重要性を説得し(「引き込み」)、配当を抑えて内部留保を増やす(あるいは労働者福祉を充実させる)ことを認めさせ、あるいは株価を吊り上げようとする動きを抑制する等する一方で、取締役のような形で株主の経営への参加を維持し、さらに株主の意向に応えて時によっては増配などを行う(「共存」)という形で株主と経営者の協力関係を維持するものである。

このような「引き込み」と「共存」の先駆的な事例というべきものは1900年前後の大阪紡績(のちに三重紡績と合併して東洋紡績)であるが、少し遅れた事例として、第1回でも登場した武藤山治率いる鐘淵紡績(鐘紡)が挙げられる。

武藤は、1900年に全社の支配人に就任して以降、株主が長期的視点に立つことの重要性を株主に対して説得し、減配を認めさせ、その後も株主による株価の吊り上げや増配を目的とする動きを抑え込んだ。しかし、その一方で、日露戦争の時期以降は順調な業績をもとに高配当を維持し、これによって労働者福祉の向上などを含めた自らの経営方針に対する支持を取り付けた(川井充「 従業員の利益と株主利益は両立しうるか?―鐘紡における武藤山治の企業統治」『経営史学』40(2), pp. 51-78, 2005)。

また、株主についても三井合名会社や従業員持株会等は安定株主となっており、外部株主でも武藤の経営方針を支持する株主が増えてきた。武藤が社長に就任した1921年以降は必ずしも高収益・高配当を維持し続けられたわけではないが、配当を安定的に維持しながら、企業の社会的な責任等について株主を説得し続け、結果的に株主の支持を維持していた。武藤自身のある種のカリスマもあったものと思われるが、武藤の社長退任時には株主から留任運動が起こったという事実が株主の強い支持を物語っている(加藤健太「武藤山治の株主総会運営―鐘淵紡績「株主総会議事速記録」の分析」『高崎経済大学論集』60(4), pp. 219-248, 2018)。

武藤に関しては、第1回でも触れたように、その労働者福祉政策について、功利的な判断に基づいており、あくまで株主を重視しているという指摘もあるが(兼田麗子『福祉実践にかけた先駆者たち―留岡幸助と大原孫三郎』藤原書店, 2003, pp. 254-255)、その指摘はおそらく正しいものの、上記のような専門経営者がようやく進出し始めた状況においては、この株主の引き込みと共存というやり方はある程度妥当なものであったと思われる(なお、この点については結城武延「資本市場と企業統治―近代日本の綿紡績企業における成長戦略」『社会経済史学』78(3), pp. 403-420, 2012も参照)。

このような株主の引き込みと共存は、昭和金融恐慌や世界恐慌を経た後の1930年頃から広まっていったように思われる。配当性向の動きをみると、1931年をピークとしてその後低下し、戦時期にはさらに低下する。すなわち、株主への配当とするのではなく、内部留保して投資の原資としているわけである。そして上記の武藤の行動からも明らかなように、このような株主の「引き込み」と「共存」は労働者福祉の基盤ともなっている。株主の利害を考慮しつつ、長期的な経営政策の重要性を株主に伝えていくことで、労働者福祉を全体の経営の中に位置づけることが可能になるわけである。

4 「コロナ後」の企業と株主の関係

以上述べてきたように、戦前期において、死の影の下に置かれた株主は短期志向的であり、高配当を求めており、明治から大正に至るまで、株主の権限の強さを背景として実際に高配当を得てきた。しかし、専門経営者の台頭と株主への資金的依存度の低下等を背景として、経営者が長期的な視野を持つ経営の重要性を伝え、一方で株主の利益を保護する(配当を極端に引き下げない等)ことで、経営者が株主を引き込み、経営者と株主が共存する体制が作り上げられてきた。

それでは、このようなことは「コロナ後」の経営に対して何を示唆するだろうか。まず前提条件として考えなくてはいけないことは、現在では株式市場がある程度拡大し、またグローバルに広がったことで、株式が市場で簡単に取引できるようになったという点である。すでに述べたとおり、株式市場が機能しているのであれば、株主の短期志向は経営に影響を与えないはずである。

しかし、本当にそういってしまってよいのだろうか。最近の研究をみると、投資家が必ずしも合理的ではなく、ゆえに市場も必ずしも適正に機能しない可能性が示唆される。1つは、長期的に得をするだろう投資でも、短期的な損失を恐れてそれを回避しようとする行動(近視眼的損失回避。Benartzi, Shlomo, and Richard H. Thaler “Myopic Loss Aversion and the Equity Premium Puzzle,” Quarterly Journal of Economics, 110(1), pp. 73-92, 1995)である。

これを「コロナ後」の世界に当てはめてみると、新型コロナウイルスによる損失にいわば過敏に反応して株式を売却するなど、投資家が近視眼的に行動する可能性がある。また、ファンドによる高頻度売買(High Frequency Trading)は無条件で短期志向をもたらすわけではないものの、企業の長期的価値に基づく分析ではなく価格変動に反応するために、長期的な価値から乖離する可能性が指摘されている(Isaksson, Mats, and Serdar Çelik, “Who Cares? Corporate Governance in Today’s Equity Markets,” OECD Corporate Governance Working Papers, No. 8, 2013)。とりわけ新型コロナウイルスの影響の下では、その影響を恐れて売りが膨らみ、株価が(いわゆるファンダメンタルズから乖離して)急速に下落する可能性がある。

これらはあくまで可能性にすぎないが、「コロナ後」の世界においては新型コロナウイルスによる経済的なパフォーマンスの悪化を恐れて(これもある意味で「死の影」である)、株主はしばしば短期志向になりうることを示唆している。そうである限り、短期志向な株主に対する対応策を考えておくことには意味がありそうに思われる。

そして、短期志向の株主への対策として発達してきたのが株主の「引き込み」と「共存」である。「引き込み」はもちろん株主との対話を意味するが、それだけではなく、経営方針の意義を伝える中で、いわば株主をファンにしてしまうような、あるいは前回の言葉でいうならば株主を「コミュニティ」にしてしまうようなことを意味している(この点については高橋伸夫「ダメになる会社―企業はなぜ転落するのか?」ちくま新書, 2010、特にその冒頭の株主総会の例とその次の「タッカー」の例をみてほしい)。もちろん、株主の全員がファンである必要はないが、主要な株主を「引き込み」、会社のファンにしてしまうことで、長期的な経営方針の支持を取り付け、あるいは労働者福祉の充実なども図ることができる。

もう1つの取り込みの方法はいうまでもなく社外取締役である。社外取締役というと株主に代わって経営を監視するという認識が強く、またもちろんそれは正しいのだが、一方で株主の見方を経営者に伝え、株主を引き込むための情報提供を行うことができる人々という見方もできる。

いずれにせよ、「死の影」の下でしばしば短期志向になりうる株主に対しては、そのような株主を経営に引き込み、共存していく、言い換えれば株主をファンにしていく必要がある。抽象的に株主との対話というだけでなく、いかに株主(特に主要な株主)をファンにしていくかが重要なのだと思われる。

バックナンバー

第1回 戦前の日本社会から「コロナ後」を考える
第2回 三越・主婦之友・生協はなぜ誕生したか

第4回はこちら

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