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「話しことば」と「書きことば」の違い。そこに含まれる信頼度について

「あなたはたくさん本を読むし、日本語だけでなくフランス語も含めて多くの語彙を知っている。でも、同時にたくさん知っているからこそ、言葉で自分自身も騙すことができる。だからわたしはあなたの話を半分は嘘だと思って、残りの半分しか聞かないことにしているよ」。

先日、ひとからそう言われたとき、こんなふうにわたしを見抜いてくれるのか!という小気味好い嬉しさが胸いっぱいに満ちた。「こうである」と告げる発言の奥底に人間の本質を洞察しようとする意思が、そこに垣間見えたのだ。自分でも認識していなかった姿が他者を通じて明らかになる。わりと明確な主義主張をふりかざすわたしの性質からいって、まったくの的外れなコメントなら「いや、それは違う」などと言えるし、あるいは怒りをもって反論もできようなことなのだが、心あたりのある発言でもあったからこそ一層断定的なこの物言いは、どこかすがすがしかった。

しかしなぜ話の半分を嘘だと思われてもいい、と心あたりがあるのだろう。

「話半分で聞いてね」なんていう表現はしばしば日常にあらわれる。背景にあるのは素直に受け取られたら相手を傷つけてしまうかもしれないとか、嫌味になるかもしれないという配慮のもとでの前置きだろう。あることないことをいうときにも有効な言い回しではあるが、書くことにおいて「話半分で読んでね」はあまりない。どちらかといえば文章と行間をきちんと読み、伝えたいことをそのまま、他者に理解してもらいたい。

「書きことば」と「話しことば」、同じ言葉を操っているようでもそこに預ける信頼度が異なっている。自分自身はどちらへの依存度が高く、どちらの方法で物事を伝えようとしているのか、改めて考えてみた。

書きことばは、目で見ることができるので視覚的、具体的です。何度も読み返し、ゆっくり考え、推敲することができるので、論理的に組み立てられた、筋道の立った文を作ることができます。文を作るのは、読み手を想定しながら一方的、間接的に行われる作業です。
これに対して話しことばは、聴覚的、抽象的です。話し手と聞き手の相互作業により話が進められることが多く、原則として直接的です。文は比較的短く、組み立ても単純で、論理よりも、気持ちの察し合いや、表情やアイコンタクトなど、ことば以外のものの影響も多いのです。書きことばの知的活動に対して、話しことばは感覚的活動ともいえるでしょう。(NPO法人 日本話しことば協会「話しことばと書きことば」より)

たいしたことのない日々の会話の延長線上で自分の口から語る事象に、どれほどの精度と確度があるのか、わたしには自信がない。共有するにはうろ覚えの情報もある。十分に信頼に足るものではないから「話半分で聞く」くらいがちょうどいいよと考えるのは自然な意識のあり方だろう。もちろん仕事の場合は別である。慎重に丁寧に言葉を選び、齟齬のないように伝える努力をする。しかしそうではない場合、日常で他者に「なるほど」と真に受けられたときには「仰々しいことをいってごめんなさい」と心の内で少しだけ戸惑う。「あまり真剣に受け取らないでいいよ」と遠慮がちになる。そうして会話だけで不十分で、かつきちんと言葉を受け取ってほしいときには文字のコミュニケーションに頼る。「書きことば」に、思いを託す。

例えばメッセージングアプリを起動させ、ぽつぽつと文字を打ち込む。あの発言はこういう意図があった、言いすぎたかもしれない、ほんとうはこう思っていると伝えたかった、云々言い訳のようにつらつらと。つまりわたしは「書きことば」のほうが思考に寄り添い、素直に向き合うことができて、かつ近い距離感でいられるようなのだ。

ひとつひとつ脳内から単語を取り出し、手を動かして生む「書きことば」。キーボードを打ちながら、目の前にあらわれる語彙に対して適切か否か、近いか遠いかを視覚で捉えてみる。違和感があれば一文字ずつ削除して別の表現を引っ張り出して、うーん、もっと別の言い方があるかもしれないと逡巡してにらめっこをする。一方で「話しことば」は一瞬の音。口の動きという身体性をたもちつつ、呼吸にまぎれて空気のなかに溶け込む。消えてしまうまえに書き留めて、うまく文字にまとめるひとの文章と出会うと、とても羨ましく感じる。例を挙げるならば、作家の柴崎友香さん。彼女の日記は声に出してなんども繰り返し声に出して読み上げたい。(実際、更新されるたびに音読する。彼女の大阪弁はわたしの大阪の言葉と近くて、無理することなく背伸びもしない。ちょうどいい温度感で文字が立体的に語りかける)

(せっかくなので今から「話しことば」ふうに書いてみる)

こういうふうに自分の思考のままに文章が書けたらほんまに、水がさらさら流れていくように気持ちいいんやろなと思うんやけど、わたしは頭に浮かんだ言葉に対してうまくそれを同じような速度で書くことはできへん気がする。どちらかというと指の動きのその遅延の、若干ずれたタイミングの隙間に文章で論理的に整理して「書きことば」にしようと試みてる。そう考えればやっぱりちょっと堅苦しくしてるほうが、うまいこと自分の言いたいことは伝わるような気がして、どこか話すように書くのはやっぱり心地悪い感じになっちゃうんやろうなあ。

(「話しことば」ふうに書くこと、終わり)

試してはみたが後味が悪い。なにかが気持ちわるい。パズルのピースのようにとっかえひっかえを繰り返し、心地よい速度で文字に起こし、熟慮を深めながらしっかりかっちりした「書きことば」にまとめる思考法が、やはり自分には向いている。

「どのような人間で、どのような思考であるか」といった決めつけや断定は遠く向こうにいる、土足で勝手に訪れてきた見知らぬひとが行えるものではない。大前提として相手との関係性が構築されていないと言葉は心に響かず、単純な悪意として捉えられるだろう。

その上で、もっともっと他人に見抜いてほしい。透明になるまで、全部明らかにしてくれたらいい。どのような考えの癖があり、どのような傾向があって、どのような態度をひとに見せているのか。おかしいことを言っているのならば的確に指摘してほしいし、変な方向に進むのならはっきりと叱ってくれるといい。あなたはこういう人だよと他者の視点から提示されたい。「話しことば」の適当さを見出し、その半分を信じないと断言されたことが、自分自身も同様に信じていないという事実に気づかせてくれた。だからこそ「書きことば」で整理する。文字にすることを厭わず、視覚的にあらわれることばに、頼り続ける。

冒頭わたしの話を嘘半分だと語ったひとは、続けてこう述べた。

「あなたの言葉のもう半分に思いをめぐらしてみる。何を語っていないのか、本当の気持ちはどこにあるのか想像してみようと、わたしは思う」。

このような言葉に出会えるから話すことをやめられない。「話しことば」を手放したり諦めたりすることなく、うまく伝わるようにと語り続ける。自分の口から出る話に半信半疑になりつつも、自身のまだ知らない本心はどこにあるのかと、探りながら。

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