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自己紹介

時間があるのでアウトプットとして書く

プロフィール

私は宇野彰人(うのあきと)といいます。平成元年大阪生まれの30歳、東京のとあるモビリティ系スタートアップで事業開発の仕事をしています。家は横浜で妻と1歳になる男の子と3人で暮らしています。

生い立ちから自衛官になるまで

兄弟は私を含め3人兄弟の末っ子で、幼少期から中学生くらいまでは小児喘息を患い、病弱ながらも身体を動かすことが好きな少年でした。

中学生の頃に父の勧めと人から一目を置かれる人生を生きたい!という自己承認欲求と好奇心丸出しの動機で高校一年の時に当時、入試倍率20倍以上の「陸上自衛隊少年工科学校(平成22年度以降、自衛隊生徒制度の変更に伴い高等工科学校に改名)」に合格し、高校中退後平成18年4月に入校(入隊)しました。

入校してから3年間は少年自衛官として、校風でもある「明朗闊達、質実剛健、科学精神」を本旨として「知、徳、体」を規則正しい生活と少し理不尽な生活の中で養ってきました。

参考:陸上自衛隊少年(高等)工科学校について

※3年間の話は物凄いボリュームになるので割愛しますが、とにかく大変でした。おかげで多少のことでは動じない今の自分があると思っています。

3年間を終えると、部隊の即戦力となるため陸上自衛隊の16個ある職種のいづれか選択し、専門知識を学ぶために自衛隊内の学校に入校します。私は戦闘機に憧れていたので、一先ず航空科という主に航空機整備の職種に進み、平成21年4月から茨城県土浦で約一年学びました。

当初、工具の名称もわからなかった当時の自分は、その危機感をすべく寝る間を惜しんで勉学に励み、卒業時には見違えるほどに詳しくなっていたと今振り返ると感じています。

自衛官として本格始動

その後、戦闘機の道も年齢制限で途絶えてしまったので、部隊に行くことになり平成22年3月から三重県伊勢市の部隊に配属されました。平和な田舎町で3年過ごし、順風満帆な生活をしていましたが、パイロットになりたい夢と当時の仕事環境を変えるべく内部選抜試験を経て、平成24年6月栃木県宇都宮市の陸上自衛隊陸曹航空操縦課程へと身を進めました。

再度やってきた学生生活は、不器用な私には過酷で、睡眠時間平均4時間となかなか楽しくも大変な日々でした。自衛官として搭乗者の命を直接預かるパイロットとしての重責を認識した2年間だったと今振り返ると感じます。

平成26年2月、卒業後は千葉県木更津市に位置する第1ヘリコプター団に配属になり、大型輸送ヘリコプターCH47の副操縦士として勤務、災害派遣等の任務に従事しました。

平成28年10月、自衛隊ができることの限界、自衛官以外の人の価値観に触れることでわかってきた自身の価値観、それと照らし合わせた時の不安を強く感じるようになり、今しかやれないことをやろうと決意し退官、民間人となる。

退官後

ヘリコプター関連の仕事をしようと考えていましたが、近い将来父の実家の土地建物を相続することが予期されていたので、敢えて不動産業界に進むことを決め、仲の良い先輩からある不動産会社の社長を紹介してもらい、その方の支援をいただきながら不動産業界に飛び込みました。

ただ、16歳から自衛隊でしか生きてこなかった自分は生まれたての雛のような状態で慣れるには約1年かかりました。苦労は絶えませんでしたが、約3年ほど仕事をさせてもらい、不動産のみならず子会社である人材会社の経営者としても雇われでありながらも仕事をさせてもらいました。

令和元年9月、ヘリコプター関係の仕事に対しての想いが再燃したこと、当時の株主関係者との経営に対する意見の相違があり、納得が行かない私は代表辞任を決意、それと同時に経験を存分に生かせると思い今の会社に転職しました。

今現在

今の会社では、将来することが予想される空の市場を勝ち取るためのデジタルプラットフォームを展開しています。自分のこれまでのヘリコプター整備士・操縦士としての経験、退官後に培ってきた多岐にわたる経験から、社内外における事業開発を担当しています。まだまだ未開拓な部分が大きい空の市場を、一ミリでも大きくすべく日々悪戦苦闘しながら仕事をしています。

ざっと書きましたが、今回はここまで。端折っている部分がかなりあるので、また気が向いたら部分ごと書いてみようと思います。

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