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人間は出来事で定義されません。有限な命に無限の幸せを。

こんばんは。

半年前は毎日日記のつもりで書いていましたが、長らくサボっていました。笑

ただ、今日は日記ではなく、誰かに届くメッセージを残せたらと思います。

はじめに、重い過去の体験談をお話しします。

もし気分が悪くなられたら、スクロールするなり、記事を読むのをやめて下さればと思います。






私は、実は小学生の時に実の兄から性的な被害を受けていました。

初体験は奪われませんでしたが、世の中のカップルがするような事を10回ほど強いられた記憶があります。

同時に、兄から暴力も受けていました。側から見れば兄弟喧嘩のそれに見えたかもしれませんが、当時の私には、刺されなくともハサミを持って脅されたり、目が青くなるまで殴られたり、プラスチックのバットで背中を叩かれたりするのはとてつもない恐怖と痛みでした。

お腹を出せ、ここなら蹴ってもバレへんから、

と言われたこともありました。


でも、打ち明けると家庭が崩壊してしまう気がしたため、ひたすらブルブルと沈黙を貫くことで小学生ながらに家族を守っているつもりでした。



何でこんな事をnoteに書いているのか。


それは、

「人間は出来事に定義されない」


「自分の価値は自分自身の扱い方で決まる」


「どうせ命があるなら楽しく過ごしてやろう」


ということを誰かに伝えたいからです。




一つ目、人間は出来事に定義されない。

私は、「幼少期に性被害を受けた寧子」ではありません。

ただの寧子です。

どんな良いことや辛いことがあっても、出来事が人間のアイデンティティになる訳ではないです。

「宝くじに当たった」「震災孤児である」

「交通事故の遺児である」「大吉を引いた」

こういった出来事が人それ自体を定義することはありません。

自分の定義は自分の生きザマで作れるんです。

 


二つ目、自分の価値とは。

誰かに虐められた、手篭めにされた、

無視されていた、都合よく扱われていた

こんな事で貴方の価値は揺らぎません。

そんなことより、誰がどうとかより、

どんな風に自分のことを扱うのかによって、自分の価値は決まるのだと思います。


嫌になるほど自分を蔑ろにして誰かに尽くした、

落ち込んだとき自分に罵声を浴びせ続けた、

お金や生活・食習慣をボロボロにした、

こうやって自分に接していれば、それがあなたの価値になってしまいます。しかも自己評価が低い人は往々にして他人に都合よく使われやすい気がします。

コツは、自分を、自分の子供のように大切にすることらしいです。

落ち込んだ時、やる気が出ないとき、不健康になりそうな時、自分の子供がそうなっていたらどんな声かけをしてあげるでしょうか?

どうやって背中を押すでしょうか?

人それぞれの答えがあると思います。

そうやって自問自答しながら、自分に、精一杯丁寧に接してあげてみて下さい。



三つ目。どうせ命があるなら

私は個人的に、人生に意味や価値(ゴール)なんて無いと思っています。

だからこそ、生きている時間をかけて作るものだと思っています。

いつ死ぬのかは分かりません。

じゃあ、命がある限り、できるだけ楽しい時間が大半を占めるように生きてみませんか。

楽しむために生きる、それが私なりの「人生の意味」です。与えられた自由時間をそんなふうに使いたいと思っています。


今でも、

性被害のニュースやサイトを目にした時は、

どうしようもない怒りが体に走って、

脳の血管が破れそうな感覚に陥ります。

性犯罪者に死ぬよりも痛い思いを味わわせてやりたい、そんな衝動に駆られます。

でも、そうやって怒りや悲しみに暮れている間、幸せな時間とは言えません。


支援する、解決することは別の話として、

悪感情にしっかり向き合う大切さも別として、

それは単純に

楽しい寿命の使い方とは言えない事実があります。


そして楽しく生きるためにやらなければいけない面倒事も沢山あります。(面倒と思ったり思わなかったり)

家事、試験勉強、バイト、眠い時のお風呂、…

それらは旅行に行くためのめんどくさい準備みたいなものなんですね、きっと。

楽しい時間を過ごすための、めんどくさい時間なのだと割り切っています。笑





ここまで読んで下さった方、

もしいらっしゃったら有難うございます。

長文ですみません。。。


生意気に啖呵を切ってきましたが、笑

もし以上の文章のどこかに、

貴方にとっての発見や支えがあれば本当に嬉しく思います。



どうか、限りある寿命を精一杯楽しまれて下さい。




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