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『竜とそばかすの姫』恵の父親について考える

 他者は理解できない。どれだけ仲の良い親友がいたとしても、その人があなたに見せる顔は、本人という100パーセントの容器の一部分でしか無い。その理由は、あなた自身が友人に向ける顔を考えてみれば明らかだ。あなたは自分を律し、見せる部分と見せない部分を意識的であれ、無意識的であれ、区別しているだろう。 

 この前提の元、友人、もしくは気の合う人について考えてみたい。

 あなたの友人はどんな人だろう。趣味の合う人、顔が好みの人、一緒にいると自分も向上する人。様々なタイプの人たちがいて、あなたと関わり、あなた自身を形成する一部となっている。

 では、仲の良い人とそう出ない人の境界線は何だろう。あなたが明確に分けている敵と味方のラインはどこなのだろう。

 私はその境界線をコントロールの可否にあると考えている。

 例えば趣味の合う人を考えてみよう。趣味の合う人とは、同じ共通項を持っている。あなたが楽しいと感じるのは、その友人と共感をしたときだ。自分の気持ちと、理解できないはずの相手の気持ちとが共通したとき初めて、あなたは共感を覚え、楽しくなる。つまり、理解できないはずの他者の感情が、自分のコントロール下にあるときに初めて楽しさを覚え、その人を信用するのだ。

 顔が好みの人だって同じことが言える。自分だけが把握している好みにそぐう顔が出現したとき、あなたは恋に落ちる。つまり、自分のコントロールするルールや要求、好みに沿った人が現れたことで、どうして私の好みが分かるの!とコントロール欲を満たされる訳だ。

 引きこもりだって同じである。現実世界でコントロールできる対象がいないから、アニメやゲーム等の虚構の世界に生きてしまう。スケジュールを把握し、好きなものをしり、自分自身の制御下に置く。今まであげた三者は、本質的に全く同じであることが分かる。

 コントロールして、自分自身の制御下に置く。本来コントロールなんてできるはずのない他者が、趣味や顔の好みと言ったハブによって、一時的に制御下に置かれる。これこそが敵と味方を分ける境界線では無いだろうか。

 こう考えたとき、誰かを束縛してしまったり、支配してしまったりするのは、ごく一部の人間にだけ起こりうる現象では無くなる。どんな人間であれ、程度に差はあれど、コントロールして制御下において、他者を理解したいという思いを持っている。私はこんな思いを抱いている自分が怖いし、他者も怖いと思う。同時に、人間はどこまでも孤独で安心させてあげたいとも思うのだ。

 だけど、この考えが何の役に立つのだろう。自分自身のコントロール欲に気がついたところで何を主張したいのだろうか。暴力を振るいそうになった竜の親父は自分と無関係では無い。いくつもある分岐のうちの一つであり、自分も暴力を振るう可能性をはらんでいる。とでも結論づけておこう。


追記→偉そうに語ってますが、書き手は片手で数えられるほどしか友人がいません。ご唱和ください、、、やーい!人望なし男!

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