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ヒルコはなぜ葦船で流されたのか~イザナキとイザナミ、神世七代の第七代として(『古事記』通読㉟ver.1.2)

イザナキとイザナミは、『古事記』で最もよく知られている神々のうちの二神ですが、この二神が神世七代の七代目に位置づけられていることはあまり知られていません。

そこで、イザナキとイザナミが神世七代の七代目であることの意味を探ってみようというのが今回のテーマです。

手がかりとするのは「いも」という言葉です。

※連載記事ですが、毎回、単独でも支障なくお読み頂けるよう意識して書いています。(初回はこちら
※ひとつ前の記事、神世七代の六代目(於母陀流神と阿夜訶志古泥神)の記事(「通読㉝」)から読むと、より分かりやすいかもしれません。
余裕がありましたら、ぜひ「通読㉝」もお読みいだけると嬉しいです。
 ※神世七代の一代目(国之常立神)から読まれる方は、こちら「通読⑲」からどうぞ。

■別天つ神から神世七代のイザナキ・イザナミへ

『古事記』の冒頭には、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)からイザナキ・イザナミまで全部で十七柱の神々が登場します。それらは、別天つ神ことあまつかみ神世七代かみよななよの二つに分類され、それぞれ個別の世界像を紡いでいます。

連続ドラマにたとえれば、シーズン1が別天つ神ことあまつかみの物語であり、シーズン2が神世七代かみよななよの物語です。
国生みからシーズン3が始まるのですが、一般には『古事記』といえば国生み以降しか知られていませんので、シーズン1とシーズン2を踏まえればシーズン3以降の解釈も少し変わってくるのではないかというのが、私がこれまでこの連載を通して書きたかった問題意識です。

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さて、国生みなどのイザナキとイザナミの神話は、タカミムスヒなどの神話とは、もともと別系統の神話であったことは、歴史学などの研究から明らかになっています。
しかしながら、別系等の神話の神々を、神世七代の七代目に据えたことの『古事記』の狙い(真意)についての探求は、これまでほとんどなされて来ていません。
現状、代表的な先行研究は三説に集約されますが、そのどれもに無理があることは、『通読⑲』でご紹介したとおりです。

では、イザナキとイザナミが神世七代の七代目に位置づけられていることの意味をどう取るべきか、それはやはり、文脈から押さえるしかないのではと思っています。


シーズン1(別天つ神ことあまつかみの物語)は、もの凄くおおざっぱに言えば、レヴィ=ストロースの言う「野生の思考」をめぐる物語であり、それはジェンダーを鍵に縄文と『古事記』のヤマトとを接続するものでした(『通読⑱』および『通読㉒』『通読㉔』)。

また、シーズン2(神世七代かみよななよの物語)は、『日本書紀』が理想とする律令国家が推し進められることによって失われてしまうことが予見される「野生の思考」をもとにした国の理想像を示す物語だというのが私の読解です(『通読⑲』『通読㉞』)。

現代は、グローバル化や国境を越えるテクノロジーの進展などにより、国家を超えた諸問題が頻発しています。
『日本書紀』が理想とする律令国家は、領域国家であるという意味では、現代国家の前身であると言えます。この律令国家が抱える根本的な問題を見据えて危惧したと考えられるこの『古事記』の理想の国は、未遂の国家像でありながら、現代でこそ意味を持つもののように思われます。

『古事記』の冒頭は、国生み以降の記述とは全く異なった、異色に簡潔な文体で書かれています(『通読④』)。イザナキとイザナミは、神世七代かみよななよの最終代ですが、この異色に簡潔な文体で書かれた『古事記』冒頭の記述の最後に登場する神々にふさわしく、その役割は、シーズン1とシーズン2の両方を継承するものです。

シーズン1の鍵となるジェンダーを踏まえ、シーズン2の鍵となる国家像を形成するのが、男と女の営みによって国生みが成されるイザナキ・イザナミの最重要神話の骨子だからです。

イザナキ・イザナミは、簡潔な文体で書かれた『古事記』冒頭と、豊饒な文体で書かれた国生み以降の『古事記』とをつなぐ存在です。
したがって、国生み以降の物語も、『古事記』冒頭の物語を踏まえて解釈することによって、新たな意味が浮かび上がってくるのですが、それらについて明らかにしていくためにも、イザナキ・イザナミの、別天つ神ことあまつかみの物語の継承としての意味、神世七代かみよななよの七代目としての意味を、以下に確認していきたいと思います。

まずは、別天つ神ことあまつかみの物語の継承としての意味について、イザナキ・イザナミとジェンダーの関係について見ていきます。


■妹はイモウトではない

イザナミはイザナキの夫婦の関係となり、国生みをするのですが、イザナミはイザナキの妹であるとする説(以下、「兄妹けいまい説」とします)があります

『古事記』原文には、「いも伊耶那美神(イザナミの神)。」とあります(下記の原文番号⑯=書き出しから十六番めのセンテンス)。
この説は、この「いも」を、女のきょうだいを示すとみた解釈*です。

『古事記』原文(神世七代)[丸番号は書き出しからのセンテンス番号]
⑨次に成りませる神の名は、国之常立神(クニのトコタチの神)。
⑩次に、豊雲野神(トヨクモノの神)。
⑪この二柱の神もまた、独神と成り、まして、身を隠したまひき。

⑫次に成りませる神の名は、宇比地邇神(ウヒジニの神)。次、いも須比智邇神(スヒチニの神)。
⑬次に、角杙神(ツノグヒの神)。次に、いも活杙神(イクグヒの神)。 
⑭次に、意富斗能地神(オホトノヂの神)。次に、いも大斗乃辨神(オホトノベの神)。 
⑮次に、於母陀流神(オモダルの神)。次に、いも阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)。 
⑯次に、伊耶那岐神(イザナキの神)。次に、いも伊耶那美神(イザナミの神)。 
⑰上の件、国之常立神(クニのトコタチの神)より以下、伊耶那美神(イザナミの神)より以前をあはせて神世七代といふ。

兄妹説の支持者は、ポリネシア~東南アジアから東アジアに広く分布している兄妹の近親相姦による世界創世神話との類似性から、イザナキ・イザナミの国生み神話を、その派生神話だとします。

*「兄妹説」のまとめは、國學院大学の神名データベースのイザナミの項で確認することができます。


しかしながら、『古事記』原文を素直に読めば、「兄妹けいまい説」には無理があることがわかります。

イモウトとは、親を等しくする関係であり、神世七代の神々は、いずれも親から産まれてはいませんので、その七代目であるイザナキ・イザナミが兄妹の関係にあることはありえません。

仮に、神世七代の代々を血縁の兄妹関係ではなく養子的に考えようとしても、今度は、一代目と二代目が独神ひとりがみ(=系譜上に連続しない神)であることと整合しません。

神世七代の二代目が独神ひとりがみであることから、二代目と三代目には系譜上の連続はありません。つまり、神世七代の二代目は三代目の祖神おやがみではなく、三代目は二代目の子ではないのです。
このことから、三代目の二神は、養子としても血縁としても兄と妹の関係にはありません

七代目の「いも伊耶那美神(イザナミの神)」という記述(上記の原文番号⑯)は、三代目の「いも須比智邇神(スヒチニの神)」の記述(上記の原文番号⑫)と対応関係にありますから、三代目の「いも」がイモウトを意味しない以上、七代目の「いも」をイモウトと解釈することは不可能です


では「いも」は何かというと、上代では血縁関係無く女性に対して使われている言葉です。例えば、『万葉集』に次のような歌があります。

風高くには吹けどもいもがため袖さへ濡れて刈れる玉藻たまも〔万葉集巻四 七八二〕
#[歌意](これは)風が空高くから海辺に吹いていましたたけれども、その中をあなたのために袖までも濡れながら刈ってきた玉のように素晴らしい藻ですよ

これは、女性(紀女郎きのいらつめ)が女性の友人に海藻の贈り物をした時の歌です。「いも」は、特に血縁に関係なく女性一般を指し示す言葉なのです。

いも伊耶那美神(イザナミの神)」の「いも」も、単に伊耶那美神(イザナミの神)が女性神であることを示す記号の役割をしているにすぎません。

そのことは、『古事記』原文の別の記述からも明らかです。イザナキがイザナミを追って黄泉国に行ったシーンにも、「いも伊耶那美神(イザナミの神)」の記述があるからです。

是《ここ》に、いも伊耶那美命をあい見むとおもひて、黄泉国よもつくにに追ひきき。

いも」をイモウトとしてしまえば、この行為も兄妹愛ゆえとなってしまいますが、「兄妹説」の支持者もここは夫婦愛として読んでいます。恣意的と指摘せざるを得ません。

恐らく、兄妹の近親相姦による世界創世神話がイザナキ・イザナミの創世神話の下敷きになっていたことは事実であるかもしれません。しかしながら、ある伝承が下敷きになっていることと、その伝承を『古事記』にそのままあてはめて読み込むこととは、厳密に区別しなくては『古事記』そのものを読む行為にはならないのです(『通読⑨』)。

いも伊耶那美神(イザナミの神)」の「いも」は、イモウトではなく、女性神であることを示す記号の役割としておくのが適切と思われます。

読み手のイマジネーションとして近親相姦を見る自由はもちろんありますが、特定のイマジネーションを信じ込んでしまえば、唯一解として独り歩きしはじめてしまい、読み手の自由を奪ったり誤読を誘発してしまいます。
原文に書かれていない他の伝承や文献の記述を解釈に持ち込むことには禁欲的であるべきと思います。
私もこの連載で自説を主張していますが、既存の有力な説もできる限り紹介して、議論に開かれた説にしたいと心がけています。


■神世七代に見る女性神のバリエーション

神世七代の神々の「いも」は、男性神とペアになる女性神に用いられます。しかしながら、男性神も女性神も男性や女性としての身体性を獲得するのは、イザナキとイザナミからです。

先に、「いも」が「記号」と書いたのは、イザナミ以外の神世七代のいもなる神は、何かを構成する二つの異質から成るもののうちのひとつであるという基本的な意味を示す役割として用いられているからです。簡単に言えば、ペアのうちの一神であることを示す以上の意味を強調しないということです。

そして、神世七代の後五代のいもなる神は、それぞれのペアのあり方のバリエーションとなっています。
言い換えれば、『古事記』の理想の国家像が、二なるもののあり方のバリエーションに重ね合わせて語られているのが、神世七代の神話なのです。

ここで、変遷と書かずにバリエーションと書いたのは、神世七代の第一代が聖なる時の神だからです。変遷と書くと進化と誤解されてしまう可能性があるため、避けました。
神世七代は、代々続く変遷史のように見えて、第一代の神が聖なる時間の神(トコタチの神)であることによって、過去と現在は意味を成さなくなっています。
進化的連続、すなわち一方向に進んで立ち返れないような段階的変化(歴史的時間)は、聖なる時間においては成立しません『通読⑮』)。
もちろん、七代というのは代々続く歴史的時間を表す表現です。歴史的時間が成り立つはずのない聖なる時間に属す神々が、歴史的時間でカウントされるのは、神世七代を見る視座が地にあることを示しているからと考えます。
天の視座から神世七代を見れば過去と現在は同じ時間ですが、地の視座から神世七代を見れば、歴史が成立しています。一方向に流れる時間は、天のものではなく地のものであり、視座が地にあるときに歴史は成り立つのです。


神世七代の歴代のいもの神を振り返ってみます。

いもの神の初代は、神世七代第三代のいも須比智邇神(スヒチニの神)」(砂土の神)です。

第三代では、いもの神(女性神)とそうでない神(男性神)は等価(交換可能)の関係になっています。
似ていながら全くことなる二神(粘土の神と砂土の神)が、その関係性において新たな意味(強固な地盤=第三代が表象する意味)を生む(『通読㉕』)のがこれら二神の関係の本義であり、それゆえこれら二神はそれぞれ等価なのです。

このような、まだ生まれぬ形の無いなにものかに、聖なる二つが一体となることで、新たな何かが形をとって現出するという信仰(発想)が、日本列島に居住していた縄文文化の担い手たちのもといの思想でした(『通読㉔』)。いもの神の初代は初代にふさわしく、縄文日本の男女の本義を写しているのです。


続く第四代のいも活杙神(イクグヒの神)」は、同じ杙神クヒの神のバリエーション違いです(『通読㉛』)。いもの神(女性神)には動きが、そうでない神(男性神)には場所が、それぞれ属性として与えられ神名となっています。

女性は交換として移動を象徴しているといった人類学的な分析も可能かもしれませんが、私としては、ここは、単に異なる属性が与えられていると指摘するに留めておきます。第三代の異質の二者の関係に対し、同質の二者がそのあり方によって異質の二者となっていることを示していることが本義であると考えているからです。


次の第五代のいも大斗乃弁神(オホトノベの神)」は、男女の秘所の一つを表象する神でした(『通読㉜』)。一代を成す二者の関係は、ここに於いて初めてジェンダーの意匠をまといます。


その次の第六代のいも阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)」は、先に誕生した神に対する言祝ことほぎを表象する神でした(『通読㉝』)。

これは一見、男性神がアクションで女性神がそれを誉めるという夫唱婦随の型のように見えます。しかしながら、いもではない神(男性神)が、於母陀流神(オモダルの神)であり、その神名の釈義を、先行する宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)を念頭に考えれば、そのような見方は妥当でないように思います。

宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)について記述した
『通読⑬』の記述を振り返って見ます。

【通読⑬より抜粋】
女性神は、自らに生命を産ませしめる他の存在を受け入れる存在です。造化の三神の働きにより、すべてがそろった天に、女性神が誕生すれば、それは天以外から何ものかを受け入れることを天に運命づけることになります。天が、天以外を必要とする存在であれば、天の完全性と矛盾します。また、女性神が誕生すれば、天は天以外から何ものかを受け入れて、天に生命があふれていくことになります。それでは地の必要性がなくなります。

『古事記』が紡いだ物語はそうではありません。『古事記』の語る天は生命の誕生を待たなくても満ち足りており、天は天以外を必要としない存在です。やがて展開する豊饒なる大地の物語のためにも、造化の三神を受けて天に成った神は、独神ひとりがみであり、かつ、ヒコヂの神である必然性があったのです。

於母陀流神(オモダルの神)は、言及されないおもによって、おもがそろったことを意味する神名であり、一見完成されたはずのおもが実は十分でなかったことを示します。これを完成された世界の破調と捉えれば、於母陀流神(オモダルの神)の役割は宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)と同じです。

完成された世界に破調をもたらす存在は、記号的な必然性から男性神となります。このことは上記に再掲した『通読⑬』の記述のとおりです。これを受ける阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)が女性神となるのも記号的な必然です。

言わば、二神の記号的な配置の結果、夫唱婦随的な役割分担となったのですが、これを倫理的に解釈して男尊女卑的に読み取ってしまうことは原因と結果の混同です。
また、夫唱婦随の配置となった記号的な必然を、男尊女卑を肯定する理屈と読んでしまうことは、電源プラグ(コンセント)のオスメスに性的な意味を読んでしまうのと同様の倒錯と言わざるを得ません。
なぜなら、この二神の記号的な配置も電源プラグのオスメスもプロトコルであり、プロトコルであることが本質であり、プロトコルである以上の意味を必要としないからです。

プロトコルとは、外交儀礼、議定書、通信規約、生化学実験で操作や目的などを記した書類などのような、やり取りのための規約や手順を示します。
Protocol is a system of rules about the correct way to act in formal situations. (コリンズ・コウビルド英英辞典より)

日本における男性優位思想の端緒は律令制に求めることができます。『古事記』は、律令制とは相容れない思想を持っていますので、国生みのシーンに男性優位の思想を読んでしまうのは筋の良い読解とは言えません。

プラグ式の全ての家電品にオスの電源ケーブルが付いているからといって、家電は男性優位思想に満ちていると思う人が誰もいないように、イザナキとイザナミの国生みのエピソードにもジェンダーが意識されなくなるとよいなと思っています。


■神世七代の七代目としてのイザナミ

イザナキ・イザナミの国生み神話は、イザナミが先に声をかけたらヒルコ(不具の子とされる)が生まれたというエピソードから、男尊女卑的な夫唱婦随の代表例とされることがありますが、『古事記』の記述にはなかった(そして『古事記』全体を通しても見当たらない)男性優位思想がここに唐突に表れるのは不自然です。

このエピソードもまた、プロトコルになっています。『古事記』は、稗田阿礼の暗誦を太安万侶が筆記したという体を取っており、それはとりもなおさず、先に読まれた内容が後に読まれる内容の前提になっていることを表します。

神世七代の第七代のイザナキとイザナミの関係は、第六代のプロトコルとしての男女の役割分担を踏襲しているはずなのです。


結論を言ってしまえば、第七代のミッションは、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の役割を再現することであり、その再現儀礼の中心がプロトコルであることを、失敗のエピソードから表したのがヒルコの物語なのです


別天つ神の造化の三神により創造された世界を、次の世界に展開する役割を担ったのが宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)でした。

神世七代の神々によって創造された理想の国像を、地の世界に展開する役割を担うのがイザナキ・イザナミです。天の沼矛あめのぬほこを突き刺すイメージも、勢いよく伸びる葦が突き立つ姿に重なります。

イザナキ・イザナミは、神世七代の世界を地に国生みするために、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の再来として振る舞わなければならないのです。

記号的には「女性神は、自らに生命を産ませしめる他の存在を受け入れる存在です。(前掲『通読⑬』)」ここに、イザナミが先に声をかけてはいけなかった理由があります。

国生みにおいて、イザナミではなく、イザナキが先に声をかけなくてはならなかったのは、イザナキにイザナミが応じることが、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)を再現するプロトコルになっていたからと思われます。

「女性神は、自らに生命を産ませしめる他の存在を受け入れる存在」であり、先に声をかけたのでは「受け入れる」ことになりません。
イザナキが先に声をかけることは、「女性神は、自らに生命を産ませしめる他の存在を受け入れる存在」であり、男性神は女性神に生命を生ませしめる存在であるというプロトコルの宣言であり、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の再現の手順プロトコルなのです。

失敗のエピソードは、正しい手順プロトコルを強調する機能を持ちます。イザナミが先に声をかけ、間違えた手順プロトコルを踏んでしまったときに生まれたのは、水蛭子ひること淡嶋(泡のように間もなく消えてしまった島)です。これらは、正しい手順プロトコルを守らなかったときのサンクションです。

正しい手順プロトコルを守らなかったために水蛭子ひるこが生まれてきたというエピソードの役割は、正しい手順プロトコルがあることを強調するためのものだと思われます。しかし、それだけでは終わらないのが、ヒルコ神話の面白いところです。


■ヒルコ神話は嬰児遺棄のエピソードなのか?

水蛭子ひるこは、生まれてすぐに葦船に入れて流されます。

これに現代の我々の常識をあてはめて単なる嬰児えいじ遺棄としてしまうと神話的な意味を取り損ねてしまいます。

まず、葦船は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の神威をまとった船です。
水蛭子ひるこが生まれたことで、次こそはしっかりとした国を生まなければいけないと願ったイザナキとイザナミは、水蛭子ひるこを葦船に乗せることで、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の神威にあやかろうとしたことがわかります。
イザナキ・イザナミは、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)が別天つ神ことあまつかみの世界を新たに生まれてくる神世七代の世界につなげたように、神世七代の世界を国生みとしてつなげなければならないからです。

しっかりと宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の神威がまとうようにとの願いが、「葦船に乗せて」ではなく「葦船に入れて」という原文に表れているように思います。

そして、イザナキとイザナミは、葦船に入れた水蛭子ひるこを海に流すのですが、国生み前の海は、常立神(トコタチの神)の神威に満ちています。
「国わかく浮けるあぶらのごとくしてクラゲなすただよへる時」に、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の次に誕生したのは、天之常立神(アメノトコタチの神)だからです。

また、国生み前の海は、国生み後には、神世七代第六代の語られぬおもの海になります。そこは聖なる時の海です。永遠であり、始まりと終わりが意味を成さないのが聖なる時です。

儀礼が病を治すのは(そう信じられる根拠は)、儀礼は神話の時間へのアクセスであるために、病が起こった始まりと経過という時間が無効化されるため、病の進行(=時間秩序)が無効化されるためです(『通読⑮』)。

イザナキ・イザナミが、生まれたばかりの水蛭子ひるこを葦船に入れて海に流したのは、嬰児えいじ遺棄なのではなく、水蛭子ひることなってしまったことの無効化への願いの行為だったはずなのです。

ここにこそ、後に、ヒルコがエビスとなって帰ってくるという伝承が生まれた必然性があると私は思います。誰もこの説を唱えていませんが、論理的整合性から、私は自信を持っています。


さて、水蛭子ひるこのエピソードが、プロトコルを示すものであることの根拠をもう少し補足しておきたいと思います。

イザナキ・イザナミは、水蛭子ひるこを葦船で流したあと、淡嶋を生みます。このことから、イザナキ・イザナミは水蛭子ひるこの誕生は、国生みの正しい手順プロトコルを守らなかったことのサンクションであるとは気づいていないことがわかります。

実際、イザナキとイザナミは、淡嶋を生んだ後、天上に戻り、天つ神の命を受けた太占ふとまにによる占法で、声かけの役割が男女逆だったことを知ります。

そうして知った正しい手順プロトコルで、国生みを行うのですが、国を生みおえたあと、神を生むのです。この、国→神の順番は、ちょうど水蛭子ひるこ→淡嶋と逆の関係になっています。このことからも、水蛭子ひるこのエピソードが、プロトコルの重要性を示すものであることがわかります。

なぜ、イザナキ・イザナミは正しいプロトコルを知らなかったのか、また、天つ神の命を直接聞くのでは無く、太占ふとまにによる占法を行ったのか、国を生んでから神を生んだことの意味は何かについては次回書こうと思っています。


この水蛭子ひるこのエピソードは、『古事記』が理想とする国が、未遂に終わることを暗示していたようにも思えます。歴史では、今日の国民国家につながるのは、『日本書紀』が進める律令国家です。
『古事記』が理想とする国家像は、実現すること無く神話の時間に還されます。しかし、『日本書紀』が理想とする国家も、淡嶋のように永続しないと『古事記』は考えていたのではないでしょうか。

水蛭子ひるこのエピソードは、古事記の理想が成されなかったときへの祈りであり、国民国家の限界が様々に露呈し始めた今の世は、『古事記』の理想の国がようやく実現する時なのではないでしょうか、ついそんなふうに思ってしまうのは、私が『古事記』を好きすぎるからでしょうか。

(つづく。国の話しが続いたので、次回は人や精神と神世七代の関係について書こうと思っています。応援よろしくお願いします。←選手か!)

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※タイトル写真はUnsplashより(Photo by Gabriel Dizzi)
イザナキ・イザナミの「イザナ」はいざなという意味で、いざなうと掛詞かけことばになっているという説があります。学会では定説にはなっていませんが、クジラは哺乳動物ですからヒトとそっくりな、かつ巨大な男性器と女性器を持ちます。私も幼少期に蒲郡の水族館でそれを見て仰天した記憶があります。この説、私はありだと思っています。
ver.1.1 minor updated at 1/28/2022(全般に説明不足を加筆)
ver.1.11 minor updated at 1/29/2022(最初の見出しを変更)
ver.1.2 minor updated at 2/3/2022(日本語のおかしなところを修正)

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