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角杙神と活杙神 、 神世七代の第四代の意味(『古事記』通読㉛ver.1.22)

今回は神世七代の四代目の神々、冒頭から数えて十番目の角杙神(ツノグヒの神)と十一番目の神となると活杙神(イクグヒの神)についてです。

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。初回はこちら
※神世七代の一代目(国之常立神)から読まれる方は、こちら「通読⑲」からどうぞ。
※神世七代のひとつ前、三代目(宇比地迩神と須比智迩神)はこちら「通読㉕」からどうぞ。

■食料採取空間の誕生

皇子 神世七代の第四代は、角杙神(ツノグヒの神)と活杙神(イクグヒの神)で、ともに杙神(クヒの神)なんだよね。

阿礼 はい。角杙神(ツノグヒの神)は、角(コーナー)に立てて領域を表す杙(くい=杭)の神でいらっしゃいます。活杙神(イクグヒの神)は、動きによって働く杙の神でいらっしゃいます。
 第三代で、耕作地や神殿や宮殿の建築用地や焼き物のための特別な土ができましたから、その場所を他の土地と区分する必要があります。また、耕作や建築や焼き物の制作には道具が必要になります。区分される特別な場所と、そこで働く道具の組合せが神世七代の第四代なのです。


           ※      ※      ※

現在では、縄文晩期には水田があったことが、佐賀県菜畑遺跡などの発掘からわかっています。それらの遺跡では、居住地と水田との境界に杭列が発見されています。

耕作地としての特別な土が用意され、それを受けて、その土地が特別な土地として区分されることを角杙神(つのぐひの神)が表象していると考えるのは自然であると思われます。

続く活杙神(いくぐひの神)ですが、角杙(つのぐひ)が区域の榜示機能としての杙の表象であるのに対して、杙の指標以外の機能の表象であるものと考えられます。

それは、耕作の道具としての機能であると同時に、漁/猟の道具としての機能をも表象しているのではないでしょうか。

 例えば、『万葉集』に、

もののふの八十(やそ)氏(うぢ)河(がは)の網代木(あじろぎ)に いさよふ波の行方知らずも
〔万葉集巻三 二六四〕
#[歌意]戦場で戦った多くの武士たちやその氏族は、宇治川の網代が掛けられた杭に寄せ漂う波のように行く末がわからない

と詠まれているように、上代には杙に網代をかけ、魚を捕る網代漁が盛んに行われていました。

また、杙という漢字は、形声文字(杙も弋も音読みは「ヨク」です)であるとともに会意文字(異なる意味を持つ漢字を合わせてできた別の意味を持つ漢字のこと)でもあり、木と弋から成ります。
弋には「いぐるみ」(=矢に糸や網を付けて鳥獣を射る狩猟道具で弋は弓のかたちを象形している)の意味があります。
杙というのは、木でできた弋のことです。活杙神(イクグヒの神)は漁労だけでなく狩猟の道具をも表象している可能性が高いと思います。

『新漢和大字典 普及版 (一般向辞典)』(藤堂明保)や『新訂 字訓』(白川静)等による。

製塩もしくは塩田の塩の輸送網の発達していない初期農耕社会では、農耕の発達が狩猟を促す側面があります。

考古学者の甲元真之氏は、「穀物性タンパク質はナトリウムがないと体内では分解しないために、穀物の消費が高まるにつれてどうしても塩分の摂取が必要になってくる。したがって製塩が未発達の段階では、塩にかわるものとして動物の「血」が必要となり、初期農耕民も狩猟によって動物の捕獲をしなければならないことになる」(『日本の初期農耕文化と社会』甲元 真之、2004年、同成社)と、農耕の発達は狩猟を不可欠とするために両者はセットだと指摘しています。

土を整えて区画を作り田畑としたあとに必要なのは、種を撒くことであり、種を撒けば鳥類が、実りの時期になれば鳥獣類が畑を襲います。その鳥獣を狩るには狩猟道具が必要になります。

また、ナトリウムは魚介類からも得られます。

このように、漁労/狩猟の道具は、耕作と不可分な存在です。区画された耕作地の成立を表象する角杙神(ツノグヒの神)は、食料採取空間の誕生を表象していると考えられます。

そして、食料採取空間を食料採取空間たらしめるためには、そこで食糧を獲ることを可能にする道具が必要です。活杙神(イクグヒの神)は、漁労/狩猟道具を表象するものと考えられます。

つまり、神世七代の第四代の意義は、耕作漁労狩猟という行為までをも含む食料採取空間の誕生であると考えられます。

そして、第四代の表象する意義の第n義として、神殿等の特別な建設用地の区分とその道具、焼き物のための場所の区分とそのための道具などがあったと思われます。

というのも、耕作漁労狩猟といった食糧生産も、神殿や宮殿のような特別な建築物も、焼き物もすべて聖なるものにつながっているという共通点があるからです。


■聖なる場としての食糧採取空間

『古事記』下つ巻「允恭天皇(いんぎょうてんのう)」の項に、杙について謡った歌があります。

皇子の木梨軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)が、その妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)との密通が露呈して伊予に流され、あとを追って来た軽大郎女(かるのおおいらつめ)と心中する前に詠んだ歌です(凄いシチュエーションの歌ですね)。

こもりくの 泊瀬(はつせ)の川の(山に囲まれた泊瀬の川の)
上つ瀬に 斎杙(いくひ)を打ち(川上の瀬に斎杙として祓い清めた杙を打ち、)
下つ瀬に 真杙(まくひ)を打ち(川下の瀬に真杙として祓い清めた杙を打ち、)
斎杙(いくひ)には 鏡を掛け
真杙(まくひ)には 真玉を掛け
真玉なす 我が思もふ妹(いも)(玉のように大事な妹で)
鏡なす 我が思ふ妻(鏡のように清らかで美しい妻でもある人が)
有りと 言はばこそよ(いると言うのならば)
家にも行かめ 国をも偲(しの)はめ(家にも行こう、故郷をも偲ぼう。
だが、今こうして流刑の私を追って来た妹であり妻でもある軽大郎女とともにいる。だから家に行く必要もなければ故郷を偲ぶこともない。)
〔古事記歌謡番号八十九〕(カッコ内は稿者訳)

 泊瀬川の川上と川下に杙を打ち、神事が行われていたことがこの歌からわかります。そして、この歌は、ほぼそのまま、『万葉集』に採録されてもいます。

こもりくの 泊瀬(はつせ)の川の(山に囲まれた泊瀬の川の)
上つ瀬に 斎杙(いくひ)を打ち(川上の瀬に祓い清めた斎杙を打ち)
下つ瀬に 真杙(まくひ)を打ち(川下の瀬に祓い清めた真杙を打ち)
斎杙(いくひ)には 鏡を掛け
真杙(まくひ)には 真玉を掛け
真玉なす 我が思もふ妹(いも)も(玉のように大事な妹で)
鏡なす 我が思ふ妹(いも)も(鏡のように清らかで美しい妹が)
有りと言はばこそ(いると言うのならば)
国にも家にも行かめ(故郷にも家にも行こう)
誰(た)がゆゑか行かむ(だが、今こうして流刑の私を追って来た妹であり妻でもある軽大郎女がそばにいるのだから故郷にも家にも行く必要はない。)
(カッコ内は稿者訳)

上記二首の前半部分は完全に同一で、後半部分のみ若干異なっているものの意味する内容はほとんど同じです。

そして、二首目が採録されている『万葉集』には、同じく泊瀬川を題材にした別の歌が収録されています。

こもりくの 泊瀬(はつせ)の川の
上つ瀬に 鵜を八頭潜(やつかづ)け(川上の瀬に鵜を八羽潜らせ)
下つ瀬に 鵜を八頭潜(やつかづ)け(川下の瀬に鵜を八羽潜らせ)
上つ瀬の 鮎を食はしめ(川上の瀬の鵜に鮎をくわえさせ)
下つ瀬の 鮎を食はしめ(川下の瀬の鵜に鮎をくわえさせ)
麗(くは)し妹に 鮎を惜しみ(美しい妻のために鮎を大切にする)
投(な)ぐる箭(さ、矢のこと)の 遠ざかり居て(そんな妻なのにその妻からは遠く射る矢のように遠くに離れていて)
思ふそら 安けなくに(もの思う身もやすらかでなく)
嘆くそら 安けなくに(嘆く身もやすらかでない)
衣(きぬ)こそば それ破(や)れぬれば(衣は破れてしまっても)
継ぎつつも またも合ふと言へ(継げばまた合わせることができ)
玉こそは 緒の絶えぬれば(玉は通した紐が切れてしまっても)
括りつつ またも合ふと言へ(括ればまた合わせることができる)
またも逢はぬものは 妻にしありけり(またあうことができないものは、妻なのだ)
〔万葉集巻十三「挽歌」三三三〇〕(カッコ内は稿者訳)

この歌では神事の杙は歌われず、かわりに鵜飼の描写がなされています。
つまり、神事の杙と鵜飼とが交換可能な題材になっているのです。

このことが意味することは二つです。まず、神域榜示の杙は、田畑だけでなく漁労/狩猟の場にも立てられていた場合があるということ。

もうひとつは、二首の対比から、当時は神事の場と漁労の場が区別されていなかった可能性です。漁労用の杙の一部を神事用に用いている様が読み取れるからです。つまり、農耕も漁労もその空間は神域でもあったのですね。

角杙神(つのぐひの神)と活杙神(いくぐひの神)を神域榜示杙と農耕狩猟道具とのセットとする私説は、これらのことを根拠としています。


■第三代と第四代とで異なる二神の関係

皇子 神世七代の第三代は、泥土の神と砂土の神の組みだったよね。それは、泥の土と砂の土という種類の異なる土の神ではなくて、泥土と砂土という違う神の組みだったけど、第四代は、二神ともに杙神(クヒの神)でいらっしゃるよね。それってどういう意味なんだろう?

宇比地迩神(ウヒヂニの神)と須比智迩神(スヒチニの神)は泥土の神と砂土の神ですが、小松英雄氏の研究により土の神のバリエーションではないことがわかっています。(「通読㉕」)

阿礼 泥土と砂土とは、同じ土のように見えて、それぞれ採れる場所が違うでしょう。また砂土に水を撒いても泥土になりませんし、泥土を乾かしても決して砂土にはなりません。全く異なった別の存在が混ざって特別な土となっていることが、二神がタイプの異なる土の神ではないことから分かります。
それに対し、杙は地面に立てれば域を区別する表示になり、投げて鳥を撃ち落とせば狩猟の道具となります。同じものなのに、どう使われるかで全く異なるものとなるのです。そしてものというのは、使われ方こそが、その本質となるのです。そのことを、二神がタイプの異なる杙の神であることが示しているのです。

皇子 ああ、いつぞやのキジを撃ち落としたときの石と同じだね。(「通読③」

阿礼 まったくそのとおりでございます。

神世七代の第五代につづく

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※タイトル写真は、Lars_Nissen によるPixabayからの画像
ver.1.1 minor updated at 2021/9/17(冒頭の万葉集巻三・二六四の歌に歌意を追加した)
ver.1.2 minor updated at 2021/9/26(文章を読みやすく手直ししました)
ver.1.21minor updated at 2021/10/7(「神々のくくり方」を上中下に分割したのに伴い項番を変更しました)
ver.1.22minor updated at 2021/10/7(「ダイアローグ神世七代」を上下に分割したのに伴い項番を変更しました)


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