見出し画像

私家版現代語訳「別(こと)天つ神」(『古事記』通読⑱)ver.1.3

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。連載初回はこちら

古事記をイザナキ・イザナミの国生みからだと捉えるのは、スターウォーズをエピソード4から見るのと同じで、実際スターウォーズも劇場公開はエピソード4からでしたけど、1からみると物語の深みが違います。

でも、古事記の冒頭は、神々の名前が列挙されているだけで、意味がわからんというあなたのために、今回は註釈的なことも織り込んだ現代語訳を用意しました。

なぜそう読めるのかを知りたい場合は、連載(初回はこちら)をどうぞ。

今回は、いわば『古事記』シーズン1です。シーズン2の現代語訳も先取りしたい方はこちらをお読み下さい。


■圧縮されている『古事記』の冒頭

『古事記』の冒頭がほとんど神々の列挙なのは、あえて註釈が必要なのに、註釈抜きで圧縮して書かれているのではないかというのが、私の結論です。↓

圧縮をほどくとどうなるか。それでは、『古事記』シーズン1をお楽しみください。

画像1


■『古事記』シーズン1「別天つ神の物語」

原文:①天地初発之時於高天原成神名天之御中主神。

世界の始原。天と地とがあった。
天は、天として自らを意識し、地は、地として自らを意識し、世界は世界となった。
これが始まりの時である。

そして、広大な天に、高天原(たかあまのはら)という場所があった。
そこに、最初の神が誕生した。
名を、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)と言った。

この神の誕生によって、世界に中心という概念があらわれた。
この神が生まれたところが、天の中心となった。
高天原(たかあまのはら)は天の中心の場所となった。

この最初の神は、生まれながらに天の中心の神である。
天の中心の神であるからには、続く神が誕生しなくてはならない。
中心は、単独では中心たり得ないからである。
即ち、この最初の神の名は、続く神々の誕生の予祝となった。

また、高天原が天の中心であるからには、高天原に生まれ来る神々は、みな天の中心の神々である。
天之御中主神は、一柱の神のみが天の中心となるような世界を選ばれなかった。これが、天之御中主神が高天原に誕生されたことの意味である。

最初に誕生された神の名は、天の中心の神という意味である。
天之御中主神の御名によって、やがて高天原には幾多の神々が生まれ来ることが予祝されたが、生まれ来る天の中心の神々の中にあって、なお天の中心というこの神の名が意味ある名前であり続けるためには、高天原の外から高天原の中心を見る視線が必要である。

すなわち、この最初の神の名は、天の外にあって天の中心である高天原と、生まれ来る高天原の神々の中に、天之御中主神を見る視線の誕生の予祝となった。
やがて地に生まれ来る神々とヒトの誕生の予祝である。

こうして、天之御中主神が誕生し、神々とヒトの世界が約束された。

これはまた、地に神々とヒトの世界が失われれば、天之御中主神や高天原の神々は、その意味を失ってしまうことを意味している。
高天原の神々は、地の神々とヒトと共にあるものとして、誕生したのである。

原文:②次高御産巣日神

次に、最高の創造力の日の神である高御産巣日神(タカミムスヒの神)が誕生した。

万物が、創造されゆくことになった。

原文:③次神産巣日神

次に、神ならではの創造力の日の神である神産巣日神(カミムスヒの神)が誕生した。

神産巣日神は、神としての意識のもとに、高御産巣日神(タカミムスヒの神)の最高の創造力では創造できないものを創造した。

生命が、創造されゆくことになった。

原文:④此三柱神者並独神成坐而隠身也

天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神々は、他の神々と比較することのできぬ独神(ひとりがみ)として誕生し、高天原に坐(とど)まられる意志を持たれた。

独神(ひとりがみ)とは、性別を超えた神であり、他の神々と比較することのできぬ神を言う。

つまり、これら三柱の神々には、男や女といった性別のある身体は無い。
また、それぞれに完結した力をお持ちであった。

そして、これら三柱の神々は、後に天から地に降り立つ神々や、地の神々や人々には、その姿を捉えることができない神々であった。

原文:⑤次国稚如浮脂而、久羅下那州多陀用幣流之時、 如葦牙因萌騰之物 而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遅神

次に、将来神々が暮らす国をどこにしようか、まだ土地の存在しない水に覆われた地を、まるで浮いた脂(あぶら)があるかのように、海面上に想定しながらも、その場所は海月(くらげ)のようにあちこちに彷徨(さまよ)い定まらず、決まってはいなかった時に、高天原に、葦の新芽のように勢いよく萌え騰(あ)がるものがあり、それに因(よ)って誕生した神の名を、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジの神)と言った。

その名は、素晴らしい葦の新芽のようなオトコの神という意味である。

原文:⑥次天之常立神

次に、天之常立神(アメノトコタチの神)が誕生した。

この神の誕生によって、天に常(とこ)しえの時がもたらされた。

こうして、高天原には、瞬間の時と、順番に流れつながっていく時と、不変であり、かつ、時の順序から自由な常(とこ)しえの時という3つの時が揃った。

天に、神々の時間が完成した。

原文:⑦此二柱神亦独神成坐而隱身也

宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジの神)も、天之常立神(アメノトコタチの神)もまた、天之御中主神と高御産巣日神と神産巣日神がそうであったように、独神(ひとりがみ)として誕生し、高天原に坐(とど)まられた。

独神(ひとりがみ)とは、性別を超えた神であり、他の神々と比較することのできぬ神を言う。

つまり、これら二柱の神々には、男や女といった性別のある身体は無い。
また、それぞれに完結した力をお持ちであった。

すなわち、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジの神)が、素晴らしい葦の新芽のようなオトコの神という名であるのは、なにもこの神が男の身体を持つ男性神であるからなのではなく、先の三神によって創られた生命力溢れる高天原という存在が、勢いのある男根を彷彿とさせる若い葦の芽のように、他なる存在に生命力を注ぎ伝えていく力を持っているからである。

また、天之常立神(アメノトコタチの神)が他の神々と比較することのできぬ神であることは、高天原に、他の何も参照することのない、自らのみを基準とする絶対の聖なる神々の時がもたらされたことを示している。

そして、これら二柱の神々もまた、後に天から地に降り立つ神々や、地の神々や人々には、その姿を捉えることができない神々であった。

原文⑧上件五柱神者別天神

ここまでの五柱の神々は、別天つ神(ことあまつかみ)である。

つまり、これから誕生してくることになるあまたの天つ神とは異なる存在であり、これら五柱の神々の誕生で、いったん高天原の世界は完成したのである。


シーズン3は、有名なイザナギ・イザナミの国生みで幕を開けることはわかっていますが、シーズン2はどうなるのか気になりますよね。

実は、以前に書いた次の記事が、シーズン2の予告にもなっています。

次回、国之常立神(クニノトコタチの神)、いよいよ神世七代の物語が始まります。書く方の私もワクワクしております。


おまけ

以下はおまけです★『古事記』マニアック注釈(読み飛ばし可能です♪)★


■宇宙と世界

さて、このように天之常立神(アメノトコタチの神)の誕生により完成し締めくくられた別天神の高天原ですが、その私たちにとっての意味を考えてみたいと思います。

これから、ちょっと変なことを書きます。

我々にとって高天原が重要なのは、我々にとって高天原が重要だからです。

このような文章をトートロジー(同語反復)と言います。トートロジーは、何の説明にもなりませんから、普通は使わない語法です。

そこで、上の文章を意味を同じにして、ちょっと書き換えてみます。

高天原は、我々にとって重要な存在です。それは、高天原がそのような存在としてでしか、ありえようがないからです。

これで文章構成上はトートロジーから抜け出すことができました。ですが、意味は変えていないので、論理的にはトートロジーです。

これは、宇宙物理学の「人間原理」とよく似ています。

神話の話に、物理学や宇宙論の話を持ち出すのは、もの凄くトンデモっぽくて、ソーカル事件以下の、馬鹿の所業そのものなので、凄ーく嫌なのですが、論理構成が似ているというだけなので、誤解なきようにお願いします。

白雪姫と雪の関係と、「高天原の存在意義」と「人間原理」の関係は同じだと言いたいだけなんです。はい。

で、「人間原理」というのは、「様々な物理定数が今の宇宙を成り立たせるような値なのは、宇宙を観測する存在である人間を生み出すためだ」(青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか―人間原理と宇宙論』講談社現代新書のまとめから)というものです。

すごくトンデモっぽいですが、まともな理論なので、東京大学理学部の須藤靖教授のまとめを貼っておきます。←急に権威主義的になってスミマセン。物理学はいっそう素人なので…。

最終的に私が着地したいのは、『古事記』の世界観では、「人間原理」と「存在論的転回」が両立するのではないかということなんですが、今はまだ独り言にすぎません。「存在論的転回」は文化人類学の最新理論なのですが、今はまだ触れません。
そしてもうひとつそこに、人間はこの世界に最適化されている以上の存在になることを容認された存在なのかどうかという私が作った命題を重ね合わせたい…。

今はまだ独り言です。すみません。

話をもとに戻します。以下、誤解を招く表現かもしれませんが、キリスト教神学のような古事記神学が成り立つと仮定するとしての記述です。


もし「高天原」が我々にとって意味がなければ、どんなに神々にとって重要でも、我々にとって「高天原」は存在しないのと同じです。

宇宙に「高天原」があって、そこにおわす神々が、我々に何の関係もなければ、私たちはそこを、「高天原」とであれ何であれ、呼称することはないのです。「高天原」が宇宙の中心なのは、「高天原」が、我々にとって宇宙の中心だからです。

宇宙に中心があるのは、我々がその宇宙にいるからです。我々がいない宇宙に中心があっても、それを我々が宇宙の中心と呼ぶことはありません。

仮に、宇宙が複数存在するとして、全ての宇宙を含む集合を「世界」と呼ぶなら、「世界」の中心はひとつしかありません。中心は、ひとつの集合に対してひとつしかないからです(楕円構造は除く)。

我々が、「世界」の中心を認識できるなら、宇宙はひとつしかないか、または、我々が全ての宇宙を認識できるような「世界」に生きているということになります。


■一神教と世界

実は、この、「世界」の中心を我々が認識できるんだという信仰が、一神教なのではないかと思っています。

というのも、唯一絶対神を信仰するならば、唯一絶対神として信仰している神が、唯一絶対神でなくてはならないからです。⇐トートロジー

それには、宇宙がひとつしかないか、または、我々が全ての宇宙を認識できるような「世界」に生きているという仮定が真実であることが、必須の前提条件となります。

つまり、一神教の神を信じることは、同時に、宇宙がひとつしかないか、または、我々が全ての宇宙を認識できるような世界に生きているという仮定が真実であることを信じるという、二重の信仰を生きているということになります。


■世界は存在しない

さて、『古事記』の神は、唯一絶対神であることを求めません。つまり、二重の信仰を強要しません。

我々に関与してこない世界は、我々が認知できない世界なのだから、それはあったとしても無いに等しいから放っておこうというのが『古事記』から導き出される世界観だと言えるかと思います。


我々が認知できない世界があったとして、その関与があったときに、それは我々の世界に組み込まれるのだから(=我々の世界が拡張するのだから)、その時が来れば認知できるのだし、来なければそんな世界は無いのと同じだから、いま認知できない世界の存在の有無に悩むのはやめようぜ、という感覚が『古事記』にはあるように思います。


認知していない世界を許さず、自らの世界に取り込むべく、世界の果てまで布教に行ったキリスト教的な思想と、土地の神様を通して天を感じる『古事記』的な思想との方向性の差異が、ここに感じられます。

『古事記』の「世界」は、全てを含まない(もっと正確には、認識できない/すべきでない領域があり、「全て」=「世界」とはそれらをあわせたものである)という世界観に基づいているんですね。

勘のいい方はピンと来たかと思いますが、これって2020年代になってから非常に注目を集めているマルクス・ガブリエルの思想(世界は存在しない)にちょっぴり似ています。


■別天神の世界の現代的な意義

マルクス・ガブリエルの思想は、世界は実在のすべてだが、その実在すべてを意味する世界は、世界の中に包含されないために(=全体という要素は、全体という集合の内部には置くことができないために)、そのような世界はそもそも存在しないというものなんですが、この論考は、哲学者が言葉遊びのために考えついた戯れ言ではないんですね。

1980年代以降、今日に至るまで、ポストモダンの時代と言われます。ポストモダンは日本ではよく脱近代とか言われるのですが、違います。

ゴッホやゴーギャンなどの絵は後期印象派と呼ばれますが、後期印象派は、英語ではポストインプレッションと言います。ポストモダンは、後期近代なんですね。

で、何が前期近代かというと戦前です。大量殺戮兵器が実際に利用されて、人間の存在する意味が問い直された/揺らいだのが後期近代です。
それでも戦後復興に忙しくて人間の存在する意味なんて誰もが考える話題ではありませんでした。
それが、先進国での経済発展が一段落して、生きる意味とかを多くの人が大量消費社会の中で考えるようになりました。
そこで出てきたのがポストモダンの主張です。
後期近代が消費社会にあらわになったのがポストモダンなのです。

ポストモダンは、徹底的な相対化の思想です。前期近代は、中世的な人間観=人間には本質的な意義があり存在する意味があるという宗教が保証した教えがまだ揺らいでいなかった時代です。
それが、第一に大量殺戮兵器の実行によって揺らぎ、第二に個人が消費者/労働者としての時間でしか生きられなくなってしまったことによって、さらに揺らいでしまいました。

歴史的な発展に基づく近代の理念なんて実態は何もなかったんだ幻想だったんだというのがポストモダンの主張です。
これが産業資本主義と結びついて、歴史も思想もすべて断片として商品化されて消費される時代になったんですね。
共同体は退けられ(ネオリベ)、歴史は流動化し(ベルリンの壁崩壊やソ連消滅など)当事者以外にとってはリアルタイムショーと化します(湾岸戦争や911など)。事実はフェイクニュースと等価交換されていきます。
ポストモダンが極まったのが、現在(2021年)の我々の立脚点です。

こうして我々は、何をよりどころにしてよいか分からなくなった時代を生きています。ここから脱却するための思想をキャッチーな言葉で表したのが、「世界は存在しない」なのです。

ポストモダン=相対主義は、全てを相対化する思想ですが、それ自身をも相対化しなければ完全な相対主義とは言えません。完全な相対主義が通用する世界は論理的に存在しない(世界は存在しない)のだから、ポストモダンは否定されます。

世界が存在しないという思想は、ニヒリズムに苦しむ個人がナショナリズムなどの大きな物語に吸い取られていく(はやりの『鬼滅の刃』で言えば、鬼の養分になる)回路をふさぎ、個人と、個人が集まって作り上げる価値観の両方に根拠を与えます。

そして、マルクス・ガブリエルが語る「世界は存在しない」という思想の内容は、多様な視座の重ね合わせとして世界を見る『古事記』の世界観に驚くほど似ているように思います。


例えば、彼は、「10分後には死ぬかもしれないんだから、幸せになりたかったら、今ここでなるんだよ」などとも語っています

それが、未来を拓く思想であるなら、現代の我々が『古事記』を開く理由もそこにあるのではないでしょうか。

★おまけ終わり★

国之常立神の話に続きます

読んで何かしら気に入ったらスキをポチッとしてもらえると嬉しいです。↓ 
May the force be with you!

※タイトル写真は Graham Holtshausen on Unsplash

ver.1.1 minor updated at 2021/2/25(「■圧縮されている『古事記』の冒頭」の項を追加しました。また、古事記の世界観について若干加筆しました。)
ver.1.11 minor updated at 2021/2/26(現代語訳のルビと改行の不揃いを直しました。)
ver.1.21 minor updated at 2021/7/31(項番を⑰→⑱に採番し直し)
ver.1.3 minor updated at 2022/10/7(導入部分を書き直しました)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?