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於母陀流神と阿夜訶志古泥神の隠れた意味~神世七代の第六代<上>(『古事記』通読㉝ver.1.1)

今回は、イザナキ・イザナミが誕生する直前に誕生した神々、於母陀流神(オモダルの神)と阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)についてです。

イザナキ・イザナミからは、誰もが知っている古事記の物語が始まりますので、今回の神々が、それに至る前段のストーリーのクライマックスということになります。

   ※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。初回はこちら
   ※神世七代の一代目(国之常立神)から読まれる方は、こちら「通読⑲」からどうぞ。
   ※ひとつ前の記事、神世七代の五代目(意富斗能地神と大斗乃弁神)はこちら「通読㉜」です。


■類似性のない二神の神名

神世七代の六代目となるこのペアですが、それまでの五代とはあきらかに異なる神名上の特徴を持っています。ペアになっている二神に神名上の類似点がないのです。

これまでは、

<神世三代目>(泥土の神と砂土の神)
迩神(ウヒヂニの神)
迩神(スヒチニの神)

<神世四代目>(食糧採取空間としての神域の神と食糧採取行為の神)
杙神(ツノグヒの神)
杙神(イクグヒの神)

<神世五代目>(雌雄で表象する食糧ともなる生命の神)
意富能地(オホトノヂの神)
乃弁神(オホトノベの神)

とそれぞれ、ペアになっている二神は、同じカテゴリの神の中での対の意味を持つ神々の組合せでした。

カッコ内の神名解釈は私説です。代表的な説については「通読⑲」にまとめてあります。

それが、

<神世六代目>
於母陀流(オモダルの神)
阿夜訶志古泥(アヤカシコネの神)

では、神名の共通部分は「神」だけで、二神に類似性が見られません。あきらかに展開が異なるこの二神は、何を意味しているのか、いつものように神名理解から進めていきたいと思います。


■於母陀流神の神名理解

於母陀流神(オモダルの神)は、おもが足ることを表象した神です。

おも」とは、ひとかたまりとなる地域区分を意味します。「お国柄」の「国」の意味ですね。

『古事記』の国生みのシーンでは、四国を指して、

の島は、身一つにしておも四つあり。おもごとに名あり。かれ(=そして)、伊予国いよのくに愛比売エヒメひ、讃岐国さぬきのくに飯依比古イイヨリヒコひ、粟国あわのくに大宜都比売オオゲツヒメひ、土佐国とさのくに建依別タケヨリワケふ。」

とする記述があります。

四国という一つの島は、
伊予国いよのくに(=ほぼ現在の愛媛県)=愛比売エヒメ
讃岐国さぬきのくに(=ほぼ現在の香川県)=飯依比古イイヨリヒコ
粟国あわのくに(=ほぼ現在の徳島県)=大宜都比売オオゲツヒメ
土佐国とさのくに(=ほぼ現在の高知県)=建依別タケヨリワケ
の四地方から構成されていることを示す記述です。

物理的存在であるひとかたまりの島(四国)が身体に、文化を共にする人々が暮らすひとかたまりの地域の広がりが顔面に、それぞれ喩えられています。

国生みの描写に、人類の創生たんではなく、いきなり文化区分の記述がなされていることは、文化単位を持つ人々がやがて誕生するのだという一種の予祝として読むことができます。

また、『万葉集』にも、柿本人麻呂の歌に、讃岐の国の土地褒めがあり、

天地、日月とともに、りゆかむ、神の御面みおもと継ぎ来たる
▶天地や日月とともに満ち足りていくだろう神の御顔として言い伝えてきた(讃岐の国)
〔万葉集巻二 二二〇から一部抜粋、現代語訳は中西進『万葉集(一)』講談社文庫から〕

うたわれています。
ここでも、政治的文化的にひとかたまりとなっている人々が暮らす地理的な広がりの領域が、神のおもとして語られています。

そんなおもが、全て揃ったことを表象しているのが、於母陀流神(オモダルの神)です。

於母陀流神(オモダルの神)は、「やがて人と神が住むであろう文化ごとにまとまったひろがり(=おも)がすべてそろい完成した(=足る)こと」を表象した神なのです。


■阿夜訶志古泥神の神名理解

次に、阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)ですが、「あやにかしこし」が神名に転じたものであるというのが定説です。

神名を構造分解してみると、

阿夜訶志古あやかしこ+神 

となります。

「あやかしこ」とは、「誠におそれ多い」という意味です。

『万葉集』の、高市皇子たけちのみこ(=天武天皇の息子)が亡くなったときに柿本人麿が詠んだ挽歌の冒頭には、次のような記述があります。

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやにかしこ 明日香の 真神まがみが原に
▶声を出すのもはばかられることよ、言葉として言うのも誠におそれ多い飛鳥地方の真神まがみが原というところに
〔万葉集巻二 一九九、拙訳〕

は、力強いもの、優れた能力を持つものに関わる神格の概念で、温和で平和的な霊力を持つ神的な存在を指します(参考:土橋寛『日本語に探る古代信仰』中公新書 1990年 p.147)。
宇比地迩神(ウヒヂニの神)と須比智迩神(スヒチニの神)の「迩(二)」の転訛てんかで、神と同義語です。
神という言葉が一般化する以前に、二とかネとか呼ばれる神的存在があったということです(参考:溝口睦子「記紀神話解釈の一つのこころみ」岩波書店『文学』1973年)。


■隠されている意味

さて、このように神世七代の六代目の於母陀流神(オモダルの神)と阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)の神名理解はできたのですが、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)が、神名を理解しただけではどのような神であるかが分からなかったように、この神世六代目の神々も、神名理解だけでは、その存在の意味はわかりません。

於母陀流神(オモダルの神)が、「やがて人と神が住むであろう文化ごとにまとまったひろがりがすべてそろい完成したこと」を表象した神であるからには、何かによって完成したその何かがあるはずなのですが、神名はそれを明示していないからです。

神世七代の五代目までに完成したものを言祝いでいるのが六代目の神名の意味だとする研究や解説書もありますが、五代目で完成したものをその後の一代をかけて褒めるというは不自然ですし、言祝ぎが神名になっているのは阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)だけで、於母陀流神(オモダルの神)は完成したという事実が神名になっています。

於母陀流神(オモダルの神)の神名は、於母陀流神(オモダルの神)の誕生によっておもが完成したという明確なものです。神世七代は、『古事記』の理想とする国の雛形の形成を示す物語ですが(「通読⑳」)、雛形の完成は、五代目ではなく六代目と解釈する以外にありません。

その展開は次のとおりです。

別天神ことあまつかみ世界の写しという概念が誕生する
(神世一代目;国之常立神;「通読⑲」「通読⑳」

高天原たかあまのはらの意味空間が拡張される
(神世二代目;豊雲野神;「通読㉑」

→変化し発展していく基盤の誕生
(神世三代目;宇比地迩神・須比智迩神;「通読㉕」

→神域の誕生と食糧採取の予祝
(神世四代目;角杙神・活杙神;「通読㉛」

→食糧ともなる生命の誕生の予祝
(神世五代目;意富斗能地神・大斗乃弁神;「通読㉜」

この流れを受けての神世七代の第六代は、「やがて人と神が住むであろう文化ごとにまとまったひろがりがすべてそろい完成したこと」を表象した神と、誠におそれ多いとする神のペアになっています。


於母陀流神(オモダルの神)と阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)の特徴は、それらが何か具体的な事物や事象を表象する神々ではないことです。
阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)は、「あやかしこ」という感嘆の言葉が神格化されたものですから、何の神なのかは明確ですが、於母陀流神(オモダルの神)の神名には、何によって「おもが足りた」のかが隠されているのです。

それが何なのか、もう少し神名分析を進めていきます。


於母陀流神(オモダルの神)は、おもが「完成した」ことを表象する神ですが、於母神(オモの神)ではありません。この神の本義は、「完成した」ということそのこと自体にあります。

ヒトの表象であるイザナキ・イザナミが誕生するには、神世七代の第五代までの世界では足りない、その足りないものがそろうことになるのが於母陀流神(オモダルの神)の誕生であり、その足りなかったものが何であるのかが直接的には言及されないのが、於母陀流神(オモダルの神)の神名の特徴です。

もちろん、足りることになったのはおも=「やがて人と神が住むであろう文化ごとにまとまったひろがり」なのですが、この神の名前が「●●於母神(何とかのオモの神)」ではないことから、「言及されなかったおも」によっておもがそろったことが暗示されています。

続く神が、阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)であることからも、その印象は強まります。

先に引用した『万葉集』の一節にもあるように、「かしこき」は、「かけまくもかしこき」(声に出すのも畏れ多い)、「言わまくもかしこき」(言葉にして言うのも畏れ多い)といった、明示できないことを示す言葉とのつながりで多く用いられます。「あやに」はその強調です。

於母陀流神(オモダルの神)は、阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)とセットであることによって、その神名が指し示す対象が、口に出さないことが適切であるようなことがらである、そんな神であることが想起されます。


神世七代を振り返ってみれば、最初の二代は言わば国の雛形のうつわの整備であり、三代目からは国の雛形の内実が作られていきます。

神世七代の三代目の宇比地迩神(ウヒヂニの神)・須比智迩神(スヒチニの神)は、特別な土としての泥土と砂土の神ですが、特別な土という存在は、特別でない土の存在を前提としています

田畑の表象であれば田畑以外の土地の存在を前提とし、建築用土の表象であれば、その上に建築物を建てるのにはふさわしくない土の存在があっての表象となります。焼き物の土の表象であれば、焼き物にできない土の存在が前提となっています。

続く神世七代の四代目の角杙神(ツノグヒの神)は、耕作用地を区分する杙の表象ですが、区分とは区分外の世界があることを前提とした存在です。活杙神(イクグヒの神)は狩猟漁労用具を表象していると思われますが、特別な用具もまた、特別でない用具の存在を前提としています

その次の神世七代の五代目の意富斗能地神(オホトノヂ)と大斗乃弁神(オホトノベの神)は、特別な場所()の神であり、やはり特別ではない場所の存在を前提としています

このように、神世七代の第三代から第五代までの神々は、人が生きるための環境の整備を表象する神々ですが、いずれも特別ではない存在を前提とした特別な何かの神々であったわけです。


このように考えて見れば、第五代までの神々に足りなかったものは、特別な何かの前提となる、特別ではないもの、であったように思います。

特別ではないというと平凡な存在に思えるかもしれませんが、特別が特異点であることを考えれば、特別の前提となる存在は無限の広がりを持ちます


神世七代の六代目となる於母陀流神(オモダルの神)は、それまでの神々の誕生で整備されてきた、人や神々が生きるための環境だけでは、人や神は生きられないことを示しています。人や神々が生きるための特別な環境は、暗黙のうちに人や神々が生きるため以外の環境の存在を必要としていたのです。「完成」に足りなかった「何か」こそが、この「人が生きるため以外の環境」なのではないでしょうか。

神世七代の神々は、代々「人や神々が生きるための環境」の整備を表象する存在として誕生してきました。
それが完成したとき、あたかも映画でカメラがフォーカスを当てていた対象から一気に引いて全体を見渡したかのように、「人が生きるため以外の環境」をも視界に組み込んだ。それが、於母陀流神(オモダルの神)の誕生であるように思えます。

神世七代とは、「神々の住まう場所」としての「国」の形成の物語です。狩猟・耕作、居住の場所という人が生きるために改変されることを必然とした環境と、そうではない人の手が入らない環境と、その両方があってはじめて「神々の住まう場所」としての「国」という環境が「完成した」状態となることを、於母陀流神(オモダルの神)は、示します。

そして、そのような存在である於母陀流神(オモダルの神)は、言祝ことほぎの表象である阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)とセットで一代とされます。

生産や消費、居住のための環境と、手つかずの環境と、共にあることが完成であり、それには必ず言祝ことほぎが必要である。これが、於母陀流神(オモダルの神)と阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)から成る神世第六代目のメッセージなのだと思います。

また、「特別な存在」は、存在しているものそのものが特別であるわけではありません。「特別な存在」は、それを見る者が特別であると意識することによって「特別な存在」となります。

例えば、素晴らしい着想と弁舌で特別な存在であると目されている人物も、その人物の話す言葉を解しない人にとっては特別性は認識されませんし、例えば野生の虎や蚊や蛭などにとっては他の人間となんら変わる存在ではありません。

こうして考えて見ると、「特別な存在」とは、意識されている存在だということがわかります。

於母陀流神(オモダルの神)と阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)が教えてくれることは、世界は意識されているものだけでは不十分であり、完成されないということです。意識に入らないものこそ、神が住まう国の完成に必要な最後のピースであり、それこそが神が褒めたたえる存在であるのです。

おまけ
明治の作家、国木田独歩の作に、『牛肉と馬鈴薯じゃがいもいう有名な短編小説があります。

『牛肉と馬鈴薯じゃがいも』の主人公は、俗物紳士たちの集まりの中で、自分の願いを言わされて嬌笑されてしまうのですが、その彼の究極の願いは、「吃驚びっくりしたい」ということなんです。

「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」と主人公は言うのですが、これはまるで、神世七代の六代目を思わせます(私は思いました)。

ふだんは意識の外に隠れている対象と合わさることで初めて世界は完成するのだという於母陀流神(オモダルの神)の存在に対して、「あなかしこ」と驚嘆する、その驚嘆の叫びが神となった阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)のペアが、人型神の誕生の直前に置かれている『古事記』は、俗物化する近代人を見る国木田のまなざしと通底するように、私には思えてなりません。

(つづく・次回は神世七代の六代目が国民国家が揺らぐ現代に投げかける問いについてです)

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ver.1.01 minor updated at 2021/11/27(誤字を修正しました)
ver.1.02 minor updated at 2021/11/29(「」について参考文献を付しました)
ver.1.1 minor updated at 2022/1/29(一部説明を補足し、結論部分を加筆しました)

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