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高御産巣日神(タカミムスヒの神)が、独神(ひとりがみ)として誕生したことについて(『古事記』通読⑦ver.2.5)

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。初回はこちら

天之御中主神(アメノミナカヌシの神)から神産巣日神(カミムスヒの神)に至る『古事記』冒頭の三神は、造化ぞうかの三神と呼ばれ、『古事記』の創造神とされます。

これは、太安万侶の書いた『古事記』の序文の「参神、造化のはじめし」(この三神が創造のはじめを成した)との記述に由来します。

この三神による創造と、一神教の神による創造の違いについては、「日本の「神」の混乱を解く」として前回書きました(↓)。

今回は、『古事記』2番目の神である高御産巣日神(タカミムスヒの神)と3番目の神である神産巣日神(カミムスヒの神)についての一回目です。



■産巣日神(ムスヒの神)とは

高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)は、共に神名の後半部分が共通しています。二神とも産巣日神(ムスヒの神)のバリエーションです。

 「産巣日むすひ」の「産巣むす」は、「苔のむすまで」の「むす」で、「生成される」という意味です。「ヒ(日)」は、太陽神であることを意味します。産巣日神(ムスヒの神)とは、創造の力を持った太陽神ということになります。

以前は、産巣日神(ムスヒの神)は「ムスビ(結び)」と関係するのではないかという説もありました。
ところが、近年、『古事記』や『万葉集』が書かれた時代には、現在では失われてしまった仮名の書き分け(上代特殊仮名遣い)があったことが明らか(『古代国語の音韻に就いて』橋本進吉など)になり、当時の用字法では、産巣日の日は、「結び」の「ビ」にはなりえないことが判明したために、「産巣日神=結びの神」説は否定されてしまいました(魅力的な説だが俗説だということです)。

産巣日神(ムスヒの神)は太陽神ですが、ただの太陽神ではありません。アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る』(溝口睦子、岩波新書)によれば、それは北方ユーラシアに起源を持つ太陽神であり、「同時に天帝でもあり、またときには日月とも言い換えられる、ある意味では、観念的な性格をもった神であった」(同書p.84)のです。

この指摘により、この時代には、具体と抽象を往復するのではなく、複数の具体を同時に扱うことで、一般原理(一つに収斂しゅうれんされる抽象)を用いずに抽象概念を扱うという、現代日本では失われてしまった思考があったことがわかります。

この思考は重要です。
なぜなら、この思考によって、複数の太陽神が同時に存在できるからです。太陽が一つの神に独占されない発想がここにあります。

 天照大御神(アマテラス)と産巣日神(ムスヒの神)は、どちらも太陽神ですが、アマテラスは太陽のみの太陽神です。だから、アマテラスの兄弟(姉妹)に月の神である月読命(ツクヨミ)がいるのです。
タカミムスヒは日月の神でもありますから、月を兄弟(姉妹)に持つことはありえません。
 そして、タカミムスヒとアマテラスは共に太陽神ですが、共存できる関係です。
 例えば、白鳥の神がいるとして、白鳥の神の存在が、白鳥でもあり黒鳥でもある鳥の神の存在を否定しないように、太陽神としての天照大御神(アマテラス)の存在は、太陽神である産巣日神(ムスヒの神)の存在を損なうことはありません。

太陽神アマテラスに匹敵する他の太陽神が存在しないように、具体(ひとつの具体)の神は互いに排他的(=同じ存在を許さない)ですが、産巣日神(ムスヒの神)のような「複数の具体の神」は排他的ではありません

全てを同時に象徴する存在X(上の例だと鳥の神)が、ある存在A(白鳥)のみを象徴する存在でもあるとき、存在X(鳥の神)は、存在A(白鳥)以外の存在B〜N(黒鳥だとか孔雀だとか)を象徴する存在Y〜M(個別の具体の神や、個別の具体を同時に象徴するXと同等の神)を許容します(数理論理的な帰結です)。
神Xが白鳥であるとき、黒鳥の神が空位にはならないために、神Yの存在が導き出されます。またそのことは、神Xも神Yも共に全ての鳥を象徴できることを示します。つまり、世界はオーバーラップされる存在である。これが古事記の世界像です。

実際、産巣日神(ムスヒの神)は、複数存在します。例えば、『古事記』には、高御産巣日神(タカミムスヒの神)、神産巣日神(カミムスヒの神)に和久産巣日神(ワクムスヒの神)を加えた三柱の産巣日神(ムスヒの神)が登場します。また、宮中の八神殿の神々のうち五柱がムスヒの神(産日神)です。

抽象の神が排他的ではない(=同様の存在を許す)ことは、『古事記』の時代の思想の真骨頂と言っていいと思います。なぜなら、一般的に、抽象の神も互いに排他的だからです(私は「本物はひとつ問題」と呼んでいます)。

キリスト教やイスラームなどの唯一絶対神は、高度に抽象的な神だとも言えますが、一般的な解釈としては、互いに排他的です。

それは唯一という規定がそうさせている側面もあるでしょうが、複数の具体を同時/非同時的に象徴する産巣日神(ムスヒの神)のような抽象思考からは「唯一」という発想は出てきようがありません。

 天照大御神(アマテラス)や月読命(ツクヨミ)が、同格となる太陽神や月神の存在を許さないのは、対象と神とが1対1の対応関係にあるからです。古今東西の「具体の神」は恐らく皆そうです。
 対象と神とが1対多の関係になることが許されないからこそ、本地垂迹すいじゃく説という考え方も出てきます。

 「抽象の神」である鳥の神と「複数の具体の神」である産巣日神(ムスヒの神)との違いは、鳥の神は対象である鳥という抽象概念と神とが1対1の対応関係にあるのに対し、産巣日神(ムスヒの神)は対象と神がN対1の関係であることにあります。具体の神も抽象の神も対象と神が1対1の関係にあるからこそ、排他的な存在となるのです(「本物はひとつ問題」により、どちらが本物かが争われます)。

 古事記の抽象は、現代の抽象のように抽象がひとつに収斂しゅうれんされません。古事記の思想は、具体と抽象を往復するのではなく、複数の具体を同時に扱うことで、一般原理を用いずに抽象概念を扱う思考です。このことにより、『古事記』の抽象的な存在である神は、抽象的な存在であるがゆえに排他的にはなりえないという、一神教の神とは逆の構造が成立しています。


■対ではない神々

さて今回も、稗田阿礼と一番の読み手であったであろう当時の皇子との対話ダイアローグ調で解説を進めて行きます。

皇子 高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)は、兄弟とか姉妹とかなの?

阿礼 そうではありません。兄弟姉妹とは、親が同じということですが、高御産巣日神(タカミムスヒの神)も神産巣日神(カミムスヒの神)も、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)同様、親から生まれたのでは無く、単独で誕生された神々です。

皇子 じゃあ、なんで対になっているの?

阿礼 対にもなっていませんよ。高御産巣日神(タカミムスヒの神)も神産巣日神(カミムスヒの神)も、独神ひとりがみと言って、対として考えてはいけない神様でよね

皇子 ああ、そうだった。でもそれなら、独神ひとりがみっていうことと、産巣日神(ムスヒの神)様が、二柱誕生されたことは、どう考えればいいの?

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阿礼 二柱の産巣日神(ムスヒの神)様は、いっぺんに誕生されたわけではないでしょう。高御産巣日神(タカミムスヒの神)様は、後から神産巣日神(カミムスヒの神)様が誕生されることを知らずに誕生されたはずです。

皇子 そうか。対(セット)だと思ってしまうのは、神々を語る僕らの側がそう思ってしまいそうになるだけで、神々の立場で考えれば対にはならないんだね。

阿礼 そのとうりです。

古事記』の読解には、視野(どこまでの範囲を)・視座(どの立場から)・視点(何に対して)の意識が重要です。この意識がなければ、例えば、スサノオ神話は矛盾した神話ということになりかねません
 現代日本人の我々は、つい自分の立場や関心を当たり前のものとして物事を判断しがちですが、それでは世界は理解できないことを『古事記』は教えてくれていると言えるのではないでしょうか。


独神ひとりがみと、組なる神々

独神ひとりがみとは、一般には、組となる相手のいない一柱単独の神であり、また、性別をもたない神とされています(國學院大學古事記学研究センターの「独神」注釈による)。

ただし、この定義には問題点が2点あります。

1点目は、高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)は組みではないのか、という問題です。

問題1.高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)は、同じ産巣日神(ムスヒの神)であり、また、天之常立神(アメノトコタチの神)も対応する神である国之常立神(ク二ノトコタチの神)があり、組となる相手がいない神とは言えないのではないか。

前述の皇子と阿礼の対話では、高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)が組みに見えるのは、見ている我々がそのようにカテゴライズしているだけであって、視座を神々の側におけば、二神を組みと見なければならない必然性は消えるということを書きました。

ただし、「組みと見なければならない必然性がない」ことと「組となる相手のいない」こととは別のことです。
神々の視座に立ったとしたら、どの神と組むかは神々の自由です。まして、高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)は、宮中の八神殿に共に祀られている神々です。
組となる相手がいないどころか、八つの神々が一つの組となっているのです。「組となる相手のいない」二神を、なぜ組として祀るのでしょうか。←反語

つまり、「問題1」の指摘(組となる相手がいない神とは言えない)は正しいのです。

そして、にもかかわらず、高御産巣日神(タカミムスヒの神)も神産巣日神(カミムスヒの神)も独神ひとりがみとして、組みと見てはならない神々でもあります。

独神ひとりがみとは、「組となる相手のいない」神々ではなく、その神の存在をたとえ組みが成立しているように見えても「組と見てはいけない(=単独で見た時に組みの相手の欠落を見てはいけない)」神々なのです。

少しわかりにくいでしょうか。

例で説明しますね。ビッグダディとして有名になった林下清志氏の三女の林下詩美はやししたうたみさんは、女子プロレスラーとして大成し、スターダムという大きな団体のトップレスラーになっています。

彼女は、デビュー当初は、何かにつけて林下清志の娘という形容がついて回りました。林下詩美と林下清志は組みと見られていたのです。

それが、だんだんと力を付け、個性が知れ渡るようになると、ファンから、いつまでも林下清志の娘として見るのはやめようという声が上がり、今ではプロレスマスコミで、いちいち林下清志の娘として林下詩美の試合レポートを載せる記事はなくなりました。

組みで見ることは、個人を個人で見ないことであり、その個人に対して失礼であるという意識をプロレスファンが共有していることがわかります。

一方、アメリカ最大のプロレス団体のWWEでは、リック・フレアーの娘のシャーロット・フレアーが、団体トップの一人として活躍しています。

彼女は、団体トップとなって以降も、リック・フレアーの娘として見られているのですが、林下詩美のケースとはちょっと違います。

林下詩美を林下清志の娘として見ることは、林下詩美の個人を見ないことと直結していましたが、シャーロット・フレアーをリック・フレアーの娘として見ることは、シャーロット・フレアーの個人を見ることと矛盾していないからです。

その違いの理由が何なのかは、フェミニズム的なものではないことをプロレスファンは感覚としてわかっています。力道山の息子という存在がいますから。ドラゴンの息子も、今井議員の息子もいますしね。

アメリカは系譜が個の尊重を妨げない見方が社会の主流である一方、日本は系譜が個に優越する「家」的な見方が社会の主流であることの違いが、反映されているのです。

個を見よ、これが独神ひとりがみのメッセージです。

考えて見れば、「家」的な見方は律令制度が浸透して以降の発想ですから、『古事記』に、系譜より個を重視する見方があるのは自然なことです。『古事記』は一周回って最先端の日本の指針になりうる時期に来ているのかもしれません。

この連載では、例としてたびたびプロレスに言及しますが、ロラン・バルトを持ち出すまでもなく、プロレスが現代で最も神話劇に近い存在だと思うからです。ご容赦いただければと思います。

國學院大學古事記学研究センターの「独神」注釈に問題点があることを指摘していますが、これは、研究センターの註釈に問題があると言っているわけではありません。
研究センターの註釈は、これまでの研究を集大成したものですから、どうしても網羅的、総花的なものになってしまいます。そして、総花的なものが論理的整合性の面で不都合が出てしまうのは必然です。
だからといって、学会で結論が出ていないことに対し、ある説のみを註釈としてしまうことは、他の説の支持者の不満を呼ぶだけでなく、一般の研究者の便宜の上でもマイナスです。
学者ではない一般の人が網羅的に知りたい場合には、研究センターのサイトは好適です。
私は個人の研究者なので(生業はマーケティングコンサルタントですが)、論理性の追求に特化できているというわけです。


独神ひとりがみと性別

問題点の2点目は、独神ひとりがみの性別についてです。世の中には、高御産巣日神(タカミムスヒの神)を男性神、神産巣日神(カミムスヒの神)を女性神と思っていらっしゃる神職さんもおられます。

問題2.『古語拾遺』などでは、神産巣日神(カミムスヒの神)は女性神であるとしており、性別がない神とは言えないのではないか。また、宇摩志阿斯可備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は神名に「アシカビヒコ=葦の芽のような生命力に溢れた男性神」とあり、独神ひとりがみを性別をもたない神であるとするのは間違いなのではないか。

國學院大學古事記学研究センターの「独神」注釈にあるように、多くの研究者が(そして私も)「独神ひとりがみ」に性別がないと考えるのは、『古事記』を読むと、そうとしか解釈できないからです。

『古事記』において、男女の別がはっきり書かれるのは、神世七代の三代の宇比地邇神(ウヒヂニの神)/須比智邇神(スヒチニの神)からです。また、人間のような男神や女神が誕生するのは神世七代の七代であるイザナキ・イザナミからです。

『古事記』本文には、それ以前の天之御中主神(アメノミナカヌシの神)から豊雲野神(トヨクモノの神)までの冒頭7柱の神々の性別については、何も記されていません。

性別について記されていないかわりに、独神ひとりがみとして誕生されたこと、高天原にいて身を隠された(姿が見えないようにされた)ことが記されています(文章番号④⑦⑪)。

■『古事記』原文再掲
天地あめつち初めてあらはしし時、高天原たかあまのはらに成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。
②次に、高御産巣日神(タカミムスヒの神)。
③次に、神産巣日神(カミムスヒの神)。
この三柱みはしらの神は、独神ひとりがみと成り、まして、身を隠したまひき。

⑤次に、国稚わかく浮けるあぶらの如くしてクラゲなすただよへる時、葦牙あしかびの如く萌えあがれる物にりて成りませる神の名は、宇摩志阿斯可備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)。
⑥次に、天之常立神(アメノトコタチの神)。
この二柱ふたはしらの神も、独神ひとりがみと成り、まして、身を隠したまひき。

⑧上のくだり五柱いつはしらの神は、別天神ことあまつかみ

⑨次に成りませる神の名は、国之常立神(クニノトコタチの神)。
⑩次に、豊雲野神(トヨクモノの神)。
この二柱ふたはしらの神も、独神ひとりがみと成り、まして、身を隠したまひき。

性別の区別のかわりに、独神ひとりがみであるという記述があるのだから、独神ひとりがみとは、性別を持たない神なのだというロジックを多くの研究者は取っているのです。

ただし、このロジックを否定する論理は、可能です。

性別について書かれていないことが、すなわち性別を持たない神であるとする解釈は飛躍だという主張もありえるからです。

『古事記』の記述そのものからは、独神ひとりがみが性別を持つ可能性は排除できません。「問題2」の指摘も否定できないように思えます

しかしながら、独神ひとりがみを男性神や女性神であるとすると、宇比地邇神(ウヒヂニの神)/須比智邇神(スヒチニの神)以降、イザナキ・イザナミに至る神々が男女二神づつであると特筆されていることの意義が見えなくなり、『古事記』の文脈を台無しにしてしまうことも事実です。

さあ、困りました。

「問題2」が指摘するように、高御産巣日神(タカミムスヒの神)は男性神であり、神産巣日神(カミムスヒの神)は女性神であるという説を採用し、宇摩志阿斯可備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)を男性神であるとすれば、『古事記』の文脈を台無しにしてしまいます。やはり、『古事記』は矛盾に溢れた書物なのでしょうか?

もちろん、そんなことはありません。

結論(私の結論)から言ってしまえば、独神ひとりがみとは、性別なんてどうでもいい神々なんですね。
女神であろうと男神であろうとどっちでもいい。
女神であって男神である。そのどちらかであってどちらでもなくどちらでもある。
たいした問題ではない。なぜなら生物学的な男女の神ではないから。ましてや人間の男女が投影された神ではない。
そういう神々を独神ひとりがみと言う
のです。

神々とジェンダーについては、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジの神)のところでじっくり解説します。

例えば、産巣日神(ムスヒの神)は太陽神ですが、ただの太陽神ではなく、「同時に天帝でもあり、またときには日月とも言い換えられる、ある意味では、観念的な性格をもった神であった」と書きました。
北方ユーラシアで信仰されていた天帝は、テングリと呼ばれる男神です。神産巣日神(カミムスヒの神)を女神としてしまうと、男神であり女神であることになってしまいます。

それでもよいのです。

女神であることは、女神でないことを否定しません。

女神であり、男神でもあり、そのどちらでもあり、そのどちらでもない場合もあるのが独神ひとりがみなのです。

産巣日神(ムスヒの神)も独神ひとりがみも同じ思考(複数の具体を同時に扱うことで、一般原理(一つに収斂される抽象)を用いずに抽象概念を扱うという、現代日本では失われてしまった思考)に貫かれていると考えるのは自然なことと思います。

でも、そんなこと言われても納得できないという心境でしょうか。無理もありません。このようなジェンダーの捉え方は、近現代社会には存在しない思考様式に属するものです。これについては、次回以降、稿をあらためて少し補足する予定です。

産巣日神(ムスヒの神)が北方ユーラシア由来であることは、外来の神を信仰していたこととイコールではありません。これは、中国由来の漢字で書かれたものの内容が中国の事物ではないことと同じです。カタチとして神を入れたのです。だから、様々な伝承があり、それゆえに序文にあるとおり、「正しい」ものを残そうと『古事記』が編纂されたのです。

『古事記』にとって「正しい」ことと、『日本書紀』や『古語拾遺』などの他の書物にとって「正しい」ことが異なることがままあり、それを八方美人的にどれも正しいと解釈してしまったために、『古事記』は誤読されてきたのです。

『古事記』を読むときには『古事記』の「正しさ」に従って読むのが正しいのです。『日本書紀』や『古語拾遺』を読んでいる時には、それぞれの「正さ」を読んでいるのです。「混ぜるな危険」なのです。


■おまけ:独神ひとりがみと日本文明の独自性

女であることが男でないことを意味しないというのは、現代の常識では、奇妙に思えるかもしれませんが、広く視野を世界に広げれば、実は、それほど奇妙な話ではありません。

かつて、サミュエル・ハンチントンという米国の国際政治学者が、『文明の衝突』という本を書いて話題になったことがありました。
この本は、冷戦後の世界情勢は、自由主義vs共産主義から文明間の対立/衝突に移行すると説くもので、最初に発表されたのが『Foreign Affairs』誌であるように、理論というよりは青写真的な世界の見方の呈示であったのですが、2001年の911以来、予言の書であったかのように世間を賑わわせました。
当時、国際政治学以外の学問分野からは、理論的な裏付けが無いと批判もありましたが、今はハーバードの研究所に籍を持つ私の恩師の一人である先生が、『文明の衝突』は未来への宣言であって、それを理論と読む学者はナイーブ過ぎるとおっしゃっていて、そういうものなのかと思った記憶があります。

さて、この本で、日本は、中華文明とは別の日本文明とされています。他の文明はヒンドゥー、イスラム、西洋、ロシア正教、ラテンアメリカ、アフリカの6つなので、インドとロシア並みに1国=1文明に数えられているわけです。そして、多くの学者も同様の区分を行っていると記されています(上掲書文庫pp.65-67)。

これは、アメリカの学者が、日本をインド、ロシア並みに大国視しているからそう記述しているのではありません。日本が中華文明の辺境に位置していながらも、中華圏とはある面では隔絶した特徴をも持ち合わせていることが、広く欧米の学者間に知られているからです。


■日本は「野生」を置き換えなかった文明

文化人類学者のレヴィ=ストロースは、鋭くつぶさな文明観察の結果、世界は大きく「野生の思考」による文明圏と「栽培の思考」による文明圏とに分かれることを主張しました(「栽培の思考」による文明圏にも「野生の思考」はあるのですが、基層なので隠れています)。

中国は「栽培」を指向する文明圏の代表の一つですが、日本は『古事記』や『万葉集』の記述から「野生」にとどまろうとする指向性も持っていた、ないしは「野生」と共存する思考でできていた文明圏だったことがわかっています(書籍として読めるものに平野仁啓の著作などがあります)。
中国の影響を大きく取り入れながらも、日本が個別の文明として扱われる理由はここにあります。

最近の政治経済的事情から、中華文明は、西洋文明と対峙する構図で語られがちですが、文明のタイプ的には、中華文明と西洋文明は同じ「栽培」圏に属します。

「野生」とは、歴史を持たない社会とも言われます。人々は始原を基準に生きるため、時代を進ませるという意識がありません。一方、「栽培」は歴史を駆動力とします。過去があって今がありその向こうに未来があるのが歴史です。人間の時間が、直線もしくは円環のような幾何学構造として認識されるのが「歴史」=「栽培」の発想です。

古代文明は「栽培」の産物であり、視座を「野生」の側に置けば、ヨーロッパとアジアの大文明地域(中国大陸)は、原初からの「野生」の真空地帯です。
「ヨーロッパとアジアの大文明地域には、トーテミズムにつながるようなものは、痕跡の状態においてさえも、きれいさっぱり存在しない」(『野生の思考』p.279)のです。

中華、ヒンドゥー、イスラム、西洋、ロシア正教の各文明と異なり、日本は「野生」と共存を果たしている文明であるところにその独自性があります

逆に言えば、日本が「野生」との共存をきれいさっぱりなくしてしまえば、単なる中華文明の辺境か、西洋文明のまがい物に過ぎないことになり、文明としての価値はなくなってしまいます。スシやゲイシャ、カラオケだけでは、文明ではなく、風俗です。こうしたオリジナルの風俗も大変に素敵なものではありますが、どこの国にも素晴らしい風俗はあるものです。


■日本は「野生」を再び手にすることができるか

レヴィ=ストロースは、先住民の習俗や儀礼や神話は、極めて精緻で論理的な思考(=野生の思考)に基づいており、野蛮で未熟なものではなかったことを明らかにしました。

ヨーロッパをリードしてきたイギリスやフランスなどの国々は、アフリカや太平洋などに多数の植民地を抱えていた歴史を持っており、それらの地域と今も密接な関わりを持っていることもあってか、少なくとも知識人の間では、野生の思考は、近代文明に劣ったものではなく、異なる思考であり、両者に優劣や高低がないことを共通認識としています。

ただ、残念なことに、野生の思考の本場である日本では、先住民の文化を未開視する見方が根強いのも事実です。

つい最近、ある講演会で講師が、「ケニアやルワンダでは、スマホで決済なんて当たり前ですよ、公共料金や教育費などの支払いから、給料の受け取り、仕送りまでスマホでキャッシュレスですなんて話を聞くと、えっ槍で動物を追いかけてる国だと思ってました、ずいぶんと進歩したんですね、という感想が返ってきます。」と話していたのを聞いたことがあります。

ここには、日本が進歩した高い位置にいて、アフリカを未開として低い位置に見ているという偏見が正直に現れています。

実際には、西欧近代と野生の思考は高低の関係ではない(未開だから低く見るという見方は「野生の思考」に対する無知)ですし、多くのアフリカ諸国がICTの活用で日本より遅れていることもありません。

元々のインフラが不便だった国々では、日本のように徐々にインフラを新しくする必要がないため、整備の過程を過程をカエル跳びのように一気に飛び越えてしまうリープフロッグと呼ばれる現象がおきて、むしろ日本より進んでいるのが現実です(一方で、貧困に苦しむアフリカ諸国もまだまだ存在しますが…)。

日本がこうした偏見にとらわれている限り、日本文明はいつまでも絵に描いた餅ですし、『古事記』からメッセージを受け取ることも難しくなります。

「野生の思考」を低く見る発想は、『古事記』を『日本書紀』に隷属させて読む国家神道的な記紀神話と同じです。その帰結が敗戦だったことから学ぶべきことが、日本の完全な「栽培」化(戦勝国のアメリカへの完全同化の意志=『日本書紀』における中国創成神話の日本創成神話への上書きと同じ志向性)では、『古事記』の立つ瀬がありません。

『古事記』から現代に失われたメッセージを読み取るには、ネイティブアメリカンや太平洋、アフリカの諸部族の野生の思考に共鳴して、現代の視点で意識的に再帰的に読み込む必要があるのです。


日本文明などと他の文明から区分された日本が期待されているのは、それだけ「野生」と「栽培」は共存が難しいからです。

「野生」は「栽培」に出会うと、たいてい社会の表面からは消滅します。野生の社会は、文明に触れると「未開」に位置づけられ、開発を余儀なくされまうからです。

歴史が始まってしまうのです。

喩えて言うなら、これは、OSを載せ替えたようなものです。Windowsに移植されたMacのアプリは、もうMacでは走りません。同様に、栽培された野生はもう野生ではなくなるのです。

ややこしいのは、レヴィ=ストロースの用法では、「野生」と「栽培」は対立概念ではなく、「野生」は「栽培」の基盤だということです(レイヤが違うということ)。
だから、近現代文明にも「野生の思考」は働いているとされます。西欧文明はアプリが発達したので便利なソフトが豊富にあってみんなそれを使っているけど、日本文明はけっこうこまめにコードを書いて自分のプログラムを走らせている人が多いよね、みたいなwindows とUNIXのような違いと言いますか。

日本でも、「野生」はもはや表面上は絶滅しているのではないかと思うことがあります。正直に言って、日本に「野生」との共存があると思っているのは、欧米からの幻想に思えてならないのです。レヴィ=ストロースが来日した時から後に、日本の栽培化は加速度的に進んでしまったように思います。

ただ、『古事記』には、「野生」の痕跡が残っています。絶滅したマンモスの冷凍標本から、マンモスを蘇らせることができるように、もしかしたら『古事記』から、失われた「野生の思考」を蘇らせ、再び自分たちの知恵にすることができるかもしれません。そして、世界のかつての「野生」たちとつながっていくことができるかもしれません(その意味でBLMは対岸の火事と捉えてしまうのは悲しすぎます)。

それは、過去に戻ることではなく未来を救うことでもなく(野生の思考には過去も未来もない)、行き詰まった今を、まったく新しい今に変えてしまうヒントを手に入れることになるはずなのです。

カミムスヒの神の話につづく)

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Ver.2.1  minor updated at 9/19/2020(以前に同タイトルで公開していた内容を大幅に加筆。内容で減っているところは削除ではなく、次回以降に回しています。構成上の変更ですので、内容に以前からの削除点はありません。)
ver.2.11 minor updated at 2020/11/1(「日本の「神」の混乱を解く」を通読⑤に編入したことに伴い、項番を⑤から⑥に変更しました)
ver.2.12 minor updated at 2020/11/7(「独神(ひとりがみ)と神々のジェンダー(『古事記』通読⑫)」へのリンクを追加)
ver.2.2 minor updated at 2021/4/1(目次を追加)
ver.2.21 minor updated at 2021/7/31(項番を⑥→⑦に採番し直し)
ver.2.3 minor updated at 2021/11/13(noteの新機能のルビを使ってみました。同時に一部説明的な記述部分に加筆しました。)
ver.2.4 minor updated at 2021/11/14(説明的な記述部分にプロレスを例に加筆しました。)
ver.2.5 minor updated at 2021/11/16(もうちょっとだけ解説をわかりやすく修正しました。)

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