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神産巣日神(カミムスヒの神)が『古事記』3番めの神であることについて(『古事記』通読⑧ver.2.3)

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。連載初回はこちら
※ムスヒの神としては、高御産巣日神の話の続きです。

神産巣日神(カミムスヒの神)はなぜ誕生したのか

神産巣日神(カミムスヒの神)が、どのような神であるか、『古事記』の記述のみを手がかりにするとしたら、何が言えるでしょうか。

神産巣日神(カミムスヒの神)について、『古事記』の記述から直接わかることは次のA〜Cの3点です。


A:高御産巣日神(タカミムスヒの神)の次に誕生した産巣日神(ムスヒの神)であること。

B:高御産巣日神(タカミムスヒの神)同様、独神ひとりがみであること

C:神産巣日神(カミムスヒの神)は、『古事記』3番目の神であることです。


なぜ、高御産巣日神(タカミムスヒの神)の次に神産巣日神(カミムスヒの神)が誕生した(A)のでしょうか。Aの必然性について、B、Cを含めて総合的に解釈してみます。

まず、Bを手がかりにします。二柱の産巣日神(ムスヒの神)が独神ひとりがみであることは、これら二神はセットではないということです。

『古事記』では、最初の神である天之御中主神(アメノミナカヌシの神)から神世七代の二代目の豊雲野神(トヨクモノの神)までの七柱の神々が独神ひとりがみで、それに続く神世七代の後五代の神々がセット組みとなるの神々です。

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神世七代の最後、七代目はイザナキとイザナミです。

高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)、イザナキ、イザナミの誕生は、その原文だけを見ると、同じように書かれています。

『古事記』原文(マル囲み数字は文章番号)
①天地(あめつち)初めてあらはしし時、高天原(たかあまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。
②次に、高御産巣日神(タカミムスヒの神)。
③次に、神産巣日神(カミムスヒの神)。
④この三柱みはしらの神は、独神ひとりがみと成り、まして、身を隠したまひき。
<中略>
⑯次に、伊耶那岐神(イザナキの神)。次に、妹伊耶那美神(イザナミの神)。 

ところが、B(原文④)があることによって、同じ「次」でも内容が異なることがわかります。つまり、順番に意味があるのです。その意味は何でしょうか。

もしAではなかったとしたら、神産巣日神(カミムスヒの神)の次には、高御産巣日神(タカミムスヒの神)が誕生していたはずです。そうではなかったことの意味、すなわち誕生の順番の意味を考えて見たいと思います。


『古事記』最初の三神は、造化の三神と呼ばれる創造の神々です。CはAと同じようなことを言っているように思えますが、三神のどれが欠けても三神にならないことを考えれば、Cは神産巣日神(カミムスヒの神)の必要性についての指摘であることがわかります。

高御産巣日神(タカミムスヒの神)で十分なら、神産巣日神(カミムスヒの神)の出る幕はなくなってしまうからです。


造化の三神のラストが、神産巣日神(カミムスヒの神)であるということは、高御産巣日神(タカミムスヒの神)では、創造の営みを終えることができない、と『古事記』は伝えていることになります。これがAの必然性です。



それでは、いつものとおり、その解説を稗田阿礼と一番の読み手であったであろう当時の皇子との対話ダイアローグで行ってみます。


■産巣日神(ムスヒの神)が連続したわけ

阿礼 最初に誕生された産巣日神(ムスヒの神)は、高御たかみというお名前をお持ちでした。高御たかみは、最高のとか至高のという意味ですから、最初に最高の産巣日神(ムスヒの神)様が誕生なされたのです。最高の創造の神さまですから、きっと様々なものを創造されたのだと思います。

皇子 最高の創造の神さまだから、今の世界を全部作っちゃったんだよね。あれ?そうなると、神産巣日神(カミムスヒの神)様は、何も創るものがなくなっちゃうよね。

阿礼 そうですね。でも、高御産巣日神(タカミムスヒの神)が誕生された後から神産巣日神(カミムスヒの神)様が誕生されているということは、高御産巣日神(タカミムスヒの神)では創造しきれなかったものがあったのでしょうね。

皇子 最高の産巣日神(ムスヒの神)様でも創れないものがあるって、おかしくない?最高というのは名前だけで、本当の最高は、神産巣日神(カミムスヒの神)様なのかな?

阿礼 高御産巣日神(タカミムスヒの神)様で創ることのできなかったものを、神産巣日神(カミムスヒの神)様が創造されたということは、神産巣日神(カミムスヒの神)様も、最高の産巣日神(ムスヒの神)様ということになりますね。

皇子 最高がひとつじゃなくてはいけないってことはないものね。

阿礼 そのとおりです。

皇子 でもさ、かみには、最高のという意味は無いでしょう?少なくとも最高と関係の無い神様もたくさんいるよね。
 なのに、神産巣日神(カミムスヒの神)様は、最高の産巣日神(ムスヒの神)様ってことは、どういうことなんだろう。


■最高は一つ?

皇子 神産巣日神(カミムスヒの神)の最初の「神」は、「神としての」「神に関わる」「神ならではの奇跡的な」という意味だよね。
 「神としての」「神に関わる」「神ならではの奇跡的な」ことは「最高だ」ってことなのかな。

阿礼 惜しいですね。八百万の神様は、どの神様もそれぞれ、「神としての」「神に関わる」「神ならではの奇跡的な」お力を発揮されています。
それは全部最高のお力だと言えなくはないですが、その場合の「最高」は、高御産巣日神(タカミムスヒの神)様の「最高」の意味とは、ちょっと違いますよね。
 高御産巣日神(タカミムスヒの神)様の「最高」の意味は「最上級の」とか「最大の」などの比較優位ですから。

皇子 だよね。でも、それだと最高は一つになってしまうよね。 最初は、高御産巣日神(タカミムスヒの神)様が最高だったのに、後からもっと最高の神産巣日神(カミムスヒの神)様が誕生されて、最高の座が入れ替わったってこと?

阿礼 昼間の太陽が最高の位置にあるからと言って、作ることのできる影の長さは朝や夕方の太陽より短いでしょう? 最高の位置にある太陽と、最高に長い影を作る太陽と、どちらが最高の太陽でしょうか?

皇子 そんな比較は意味がないよ。

阿礼 おっしゃるとおりです。高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)と、どちらが唯一の最高の産巣日神(ムスヒの神)であるかを問うことは、意味のないことなのですよ。

皇子 でも、どうして最高の産巣日神(ムスヒの神)様なのに、高御産巣日神(タカミムスヒの神)では創ることができないものがあったんだろう? それって「最高」の名前と矛盾しないのかな? 

阿礼 高御産巣日神(タカミムスヒの神)が創ることのできなかったものを神産巣日神(カミムスヒの神)が創ることができたのは、ただ最高なだけでは、創造するのに不十分なものがあったということなのでしょう。

皇子 最高は何でも可能だから最高って言うんじゃないの? 何でも可能なのではなかったら、最高の意味がないよ。両方が最高なら、同じものを創ることができたはずでしょう?

阿礼 おなじものを創ることができることと、おなじものを創られることとは違います。可能性と、行為の結果は、異なっていたからといってふしぎではありません。行為の差は、必ずしも能力の差を意味するわけではありません。二神は等しく、最高の産巣日神(ムスヒの神)様でいらっしゃいます。

皇子 では、なんで創ることのできたものに差があるの? 

阿礼 それは、二神の違いが、創られたものの違いになったと考えられます。
高御産巣日神(タカミムスヒの神)は、高御たかみつまり最高のという名前のついた産巣日神(ムスヒの神)です。その存在が、最高だというわけです。 
神産巣日神(カミムスヒの神)は、「神としての」「神に関わる」「神ならではの奇跡的な」という名を持った産巣日神(ムスヒの神)です。つまり、神であることを自覚して、その力を創造力として発揮されたのが、神産巣日神(カミムスヒの神)様です。違いは、自覚です。
ただ最高の創造力があるだけでは創れないものがあった。だから、その次に、神産巣日神(カミムスヒの神)が誕生された。神様が神様であることを自覚していらっしゃるような神さまでなければ創れなかったものがあったのです。

 存在と自覚は、『古事記』に繰り返し出てくるモチーフです。「天地初発」のエピソードは、世界の始原に、天地は物理的な(?)存在としては存在していましたが、自覚によって天地ははじめて天地としての存在になったことを示していると考えられます(『古事記』に書かれている世界のはじまりについて)。自覚がなければ物事は始まらないのです。

 また、二柱の産巣日神(ムスヒの神)のエピソードは、自覚がなければ成されないものごとがあることを示しています。ただし、自覚さえあればいいわけではありません。それならば、神産巣日神(カミムスヒの神)だけ、一神の登場で事足りるはずです。でも『古事記』はそうはなっていません。

 意識が過剰になってしまうと他者の視野視座視点を見失い、世界が見えなくなってしまいますだからといって、意識をまったく手放してしまうと、魂もどこかに行ってしまいます(だから玉積(たまづめ=魂詰め)が必要なのです)。人はこの微妙なバランスの上に生きているというのが、『古事記』の教えるところなのだと思います。


■神産巣日神(カミムスヒの神)の創りしもの

皇子 神様であることを自覚していなければ創れなかったものって何なの?

阿礼 神産巣日神(カミムスヒの神)の次に誕生した神さまが、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジの神)という生命力に溢れた神さまですから、きっと生命なのではないでしょうか。
 高御産巣日神(タカミムスヒの神)様が、ありとあらゆるものを創り、神産巣日神(カミムスヒの神)様が生きものをお創りになられたのでしょう。皇子は、どう考えますか?

皇子 うーん…、そうだね。すべてを高御産巣日神(タカミムスヒの神)様が創られて、そのあとで神産巣日神(カミムスヒの神)様が魂を創ったのかもしれないよ。
 天地が、意識を持ってすべてが動き出したように、高御産巣日神(タカミムスヒの神)様がすべてをお創りになった世界があって、神産巣日神(カミムスヒの神)様がそのすべてに意識を芽生えさせたんじゃないかな。
 高御産巣日神(タカミムスヒの神)様が創った世界は止まっていて、それを神産巣日神(カミムスヒの神)様が動く世界に変えたんじゃないかな。

阿礼 そうなのかもしれません。どちらにせよ、この生命あふれる世界の創造には、高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)の二神の産巣日神(ムスヒの神)の力が必要だったということですね。

 『古事記』では、「高御」に続いて「神」が誕生していることで、神の自覚について意識が行くように書かれているように思われます。というのも、産巣日神(ムスヒの神)は、この二神だけではないからです。

 もっと後段には、イザナミの排泄物から生まれた和久産巣日神(ワクムスヒの神)という別の産巣日神(ムスヒの神)が登場します。
 また、『延喜式』(『古事記』完成の45年後にあたる757年に施行された「養老律令」の細則集で927年に完成)には、天皇守護の八神を祀る八神殿の神々のうちの五神が産日神(ムスヒの神)であるとの記載があります(八神殿のムスヒの神は、産巣日ムスヒ神ではなく産日ムスヒ神と記されています)。「高御タカミ産日神」「神産日神」の他、「玉積タマヅメ産日神」「イク産日神」「タル産日神」の五神です。『古事記』は、多くの「ムスヒの神」のうち、「高御」と「神」の二神のみを取り上げることによって、神の自覚の物語を伝えようとしたのではないでしょうか。

 そして、『古事記』における和久産巣日神(ワクムスヒの神)の存在は、和久産巣日神(ワクムスヒの神)が造化の三神から外れていることによって、高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)のうち、「高御」と「神」の部分に特別な意味があることを示しているように思います。


■「天地創造」との共通点

 最高の創造の力を持った神であっても、世界の創造には不十分だという『古事記』「天地初発」の世界観は、万能の神が世界を創造したとする『聖書』「天地創造」の世界観とは、正反対のように見えます。

 ですが、実は「天地創造」にも同様の発想を見て取ることができます。『旧約聖書』の冒頭部は次のとおりです。

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけた。夕となり、また朝となった。第一日である。[日本聖書協会 口語訳]

 この記述には、よく考えると、おかしなところがあります。

 神は「光あれ」と言ったのですが、いったい誰に言ったのでしょうか。

 神の発した「光あれ」という言葉は命令文です。本来、その命令は、神の命を受けて光を創造するものに向けられなければならないはずです。ところが、そのときの世界には、神の他には、闇である天と、水に覆われた地しか存在しません。
 つまり、神の命を受けて光を創造するものは神自身しかありえません。存在しない光の創造者に対して「あれ」とは命令できないからです。

 また、この命令は、光そのものに対してなされたのでもありません。ちょっと古い例えですが、かつて大晦日に放映されて人気を博していた総合格闘技イベントPRIDEでの高田延彦統括本部長の決めぜりふは、「男の中の男たちよ、出てこいや!」でした。
 幕が上がる前の舞台で、前口上をする人物が、「男の中の男、出て来いや!」ということばで、舞台に立つ男を呼び込む場面を想像してみましょう。
 この呼び込みの命令が成立するのは、「男の中の男」が既にどこかに存在してはいるが隠れており、かつその命令を聞ける状態になっている場合のみです。もし舞台袖や会場のどこにも誰もいなければ、幕が上がっても「男の中の男」があらわれるはずはありません。

  同様に、いまだ創造されていない、まだ存在していない光に対して、「あれ」と言っても光があらわれるはずは無いのです。
 つまり、このとき神は独り言を言ったことになります。『聖書』の神は、黙して世界を創造したのではなかったのです。

 『聖書』の神は万能ですから、黙っていても何でもできるはずです。黙っていてもできることについて、わざわざ自分に対して自分が命令しながら行うということは、自らの行いに主体的な意志を伴わせたということです。神の独り言とは、神が主体として創造力を発揮した描写であると解釈できます。

 『旧約聖書』の神は、「神として」「神ならではの奇跡的な」創造力を発揮して世界を創造したのです。


■神の自覚と生命

 神の自覚という点で、聖書の神と産巣日神(ムスヒの神)の働きとの間に類似点を見ましたが、神が自覚して創造されたものにも類似点を見ることができます。
 『旧約聖書』から、「光あれ」の後に続く神の独り言の部分だけを抜き出してみます。

「光あれ」
「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」
「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」
「地には青草と。種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」
「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」
「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」
「生めよ、ふえよ、生みの水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」
「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ。」
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」

[すべて日本聖書協会 口語訳]

 このように列挙してみると、神の独り言の内容は、生命あふれる世界の創造のプロセスであることがわかります。

 『古事記』も『旧約聖書』もともに語るところは、万能の創造力を持つ神がただただあるだけでは生命はうまれず、「神として」の自覚のうちに神がはたらくことではじめて、世界は生命に満ちた存在になったのだということです。

 『古事記』と『聖書』には、真逆の発想と類似の発想が共にあるところが、たいへん興味深く思います。

つづく

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ver.2.11 minor updated at 2020/11/1(「日本の「神」の混乱を解く」を通読⑤に編入したことに伴い、タカミムスヒの話が項番⑥となり、あわせて本稿の項番を⑦に変更しました)
ver.2.2 minor updated at 2021/4/1(目次を追加)
ver.2.21 minor updated at 2021/7/31(項番を⑦→⑧に採番し直し)
ver.2.3 minor updated at 2021/12/25(ルビ機能を適用し、一部の説明不足を加筆しました)

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