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独神と神々のジェンダー(『古事記』通読⑬)ver.1.4

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。連載初回はこちら
※宇摩志阿斯訶備比古遅神についての4回目です。前回に引き続いてジェンダーについて扱っています。前回はこちらです。1回目はこちら

■宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)に関する最後の疑問

宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)に関する5つの疑問のうち、ようやく最後の疑問まで来ました。

これまでの疑問に対して、簡単に振り返ってみます。

1.「国わかく~」の解釈が、いまだに『日本書紀』とに混同(国土がまだ固まっていなくてプカプカ浮いてクラゲのようにふらふら漂っていたと思われていること)が根強いのはなぜなのか?
⇒ 「葦の芽」という比喩が『日本書紀』の冒頭部分にもあるために、同じことを言っているのだという混同が生じたから。(その3で解説
2.国がまだ若い段階とはどういうことか?
⇒将来神々が住むべき、まだ固有の土地となっていない未実現の場所のこと。国生み前の国だから、国土としての実態はない。(その2で解説
3.国土でないはずの国が、水に浮くあぶらのようであって、クラゲのように漂うとはどういう状態なのか?
⇒将来神々が暮らす国をどこにしようか、まだ土地の存在しない地を、まるで浮いたあぶらのように海面上に想定しながらも、海月くらげのようにその場所が定まらず決めかねていたことを言う。(その2で解説
4.宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)とはどのような意味を持った神名なのか?
⇒素晴らしい葦の新芽のようなヒコヂの神という、いわばザ・オトコの神という意味の神名である。(その3で解説

以上を踏まえれば、5番目の質問

5.宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、ヒコという男性を思わせる名前だが、性別が無いはずの独神ひとりがみであることと矛盾しないのか?

の趣旨は、

将来神々が暮らす国をどこにしようか、まだ土地の存在しない地を、まるで浮いたあぶらのように海面上に想定しながらも、海月くらげのようにその場所が定まらず決めかねていた時に、独神ひとりがみとしてザ・オトコの神ともいうべき、素晴らしい葦の新芽のようなヒコヂの神が誕生されたのはなぜか?

と言い換えることができるかと思います。


■独神とジェンダー

独神ひとりがみとは、女神であり、男神でもあり、そのどちらでもあり、恐らくそのどちらでもない場合もある、他の神を組みとして見てはいけない神のことでした(通読⑦↓)。

なのに、ザ・オトコの神である宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)が独神ひとりがみとされることの謎を解くには、『古事記』の思想的立ち位置を理解する必要があります。

通読⑦(↑)で、『古事記』には、レヴィ=ストロースの言う「野性の思考」が色濃いと書きました。
しかも、『古事記』に色濃いのは、近代の思考(=栽培の思考)と触れ合うと消えてしまうような「野生の思考」です。「性」もそのひとつです。

私たちは、当たり前のように、「性」をセックス(生物学的な性)とジェンダー(社会的な性)とに分けて考えていますが、「野生の思考」では、「性」はこの限りではありません。

そして、厄介なことに、『古事記』が書かれたのは、日本列島が、栽培の思考を積極的に取り入れた時代にあたります。栽培の思考に貫かれた『日本書紀』以降、見えなくなってしまった「野生の思考」を、もう一度見る作業が必要なのです。

★『古事記』マニアック注釈(読み飛ばし可能です♪)★
凄くややこしいんですが、もの凄くざっくりと言うと、レヴィ=ストロースは、「野生の思考」を2つのケースで使っています。

この2つを便宜的にAとBとしますと、「野生の思考A」は、「栽培の思考(文明の思考のことであり、近代の思考を含みます)」と対立するものです。例えば、歴史観を例に取りますと、歴史が過去から現在、そして未来へと進むと考える直線的歴史観は、終末を想定するキリスト教が影響力を広めた発想であり、栽培の思考に特有の歴史観です。また、時間が閉じた円環構造だと考えるのも輪廻転生などの思考に基づく歴史観であり、栽培の思考です。
 野生の思考では、未来は、まだ存在していないのだから歴史に含まれないと考えます。このような発想(思考)に立つと、大規模な開発や長期的な計画といったことが不可能となるので、資本主義や共産主義は成立しません。つまり、近代社会が成り立ちません。このような、近代(栽培)の思考と対立するのが「野生の思考A」です。

しかしながら、思考自体は、社会制度とは関係ないアタマの働かせ方ですから、近代社会においても「野生の思考」は存在します。例えば料理の場合、レシピに従って材料を買い出しに行って手順通りに作るのが栽培思考で、冷蔵庫の中を見て適当に美味しいものを作るのが(ブリコラージュと呼ばれる)野生の思考です。このように、近代社会の中で働く野生の思考が「野生の思考B」です。
 レヴィ=ストロースは、栽培の思考は、人類史において比較的最近出てきた思考であり、全人類の思考の基盤は、野生の思考なんだといいます。だから、社会がどうであろうと、野生の思考自体は消えることがないと言います。この、消えない野生の思考が「野生の思考B」です。

AもBも思考自体は変わらないので、レヴィ=ストロースは区別すること無く「野生の思考」という言葉を用いています。

AとBは、近代(栽培)の思考との対比によって浮かび上がるものですが、野生の思考は、常にBのように近代と共存可能なものばかりではありません。一度近代の思考に触れると、それに染まって戻らない、つまり死に絶えてしまう「野生の思考」も存在します。その典型が、前述の歴史観(時間観)です。

ブリコラージュ以外の「野生の思考」は、ほとんどすべてが、近代社会では生息できない「野生の思考」だと思われます。このような一度近代の思考に触れると死んでしまう野生の思考を便宜的に「野生の思考C」とします。逆に「野生の思考B」のように死なないものを「野生の思考D」とします。

A⊃C&D D⊃B の関係が成り立っています。

『古事記』は、日本が栽培の思考に触れ合ったときに生成された書物ですから、「野生の思考」を近代と対比してAかBかで考えるのではなく、近代と触れ合った時に死ぬか否かのCとDで考えるのが便利です。

『古事記』は、「野生の思考C」で考えないと読めないところがたくさんあるからです。それが、ギュッと詰まっているのが、別天神ことあまつかみの記述(=『古事記』冒頭の最初の大きな物語)です。

例えば、ムスヒの神は、複数の具体で考える思考を教えてくれます。独神(ひとりがみ)は、「性」についての「野生の思考」を教えてくれます。
そして、別天神ことあまつかみ全体が、「時間」についての「野生の思考」を教えてくれます(トコタチの神で、解説の予定です)。

本稿では、以降「野生の思考」という言葉を「野生の思考C」の意味に限定して用いていくことにします(野生の思考Bは、ブリコラージュと表記することにします)。


■女が男になる社会

『古事記』の「性」を理解するのに、「急がば回れ」式に、我々の社会以外の性について見てみます。

『古事記』好きの方の中には、別の国の民族の話を持ち出すと気分を害される方がたまにいらっしゃいますが、『古事記』の時代の日本人に、別の民族の文化のものさしを当てはめて考えようというのではありませんので安心下さい。あくまで、我々のアタマの中の固定概念を取り去って近代人を相対化するために、別の民族の思考にお手伝い頂くのが目的です。

辛いものを食べたあとにお茶を飲んでも、そのお茶で舌がヒリヒリしてしまうように、近代の感覚というのはなかなか抜けてくれません。辛いものの後には、それと正反対の甘いものを食べることによって、味覚は正常に戻るのです。

登場いただくのは、ヌアー人です。ヌアー人は、一番最近の独立国であるアフリカの南スーダンなどに住んでいる部族です。最近では、ヌエル族と表記する方が一般的ですが、ここではプリチャードという有名なイギリスの人類学者のレポートをもとにしたことを書きますので、人類学の慣例に従ってヌアー族(人)とします。

ヌアー人の男女の区分は、セックス(生物学的な性)とあまり関係がありません。ヌアー族の社会は牛が中心で、仕事は男女別にはっきり分かれています。牛を追ったり、頭数を増やしたりといった牧畜が男の仕事であり、乳搾りや絞った乳の加工が女の仕事です。

そして、仕事において男と同等の能力がある女性や、不妊の女性は、男になることが可能です。
ヌアー人には、生物学上で区分される男性/女性というカテゴリーは存在しないので、外見で男性や女性に区分されることはありません。

男女は牛との関係のみで区別されます。牛を飼っていれば生物学的機能がどうであろうと男と見なされます。女性が男になることは、比喩的な意味ではなく、男と同等の権利を獲得したということでもなくて、正真正銘の男になったということを意味します。男女の定義が違うのです。当然、男になった女性は、男になったとたん、自分の意識もすっかり男ですし、周囲からも完全な男として扱われます。

性別は男女しかなく、その中間はありません。そしてそれは牛の仕事にもとづく区分であり、男女の区分は厳格です。男が女の仕事を手伝ったり、その領域に入ることはタブーであり、女が男の仕事を手伝ったり、その領域に入ることもタブーです。これは、男となった女性も同様です。


■ヌアー人の結婚

男となった瞬間に、女の仕事である乳搾りや乳の加工は、一切できなくなりますから、それらを行う妻をめとる必要が生じます。人類学者は近代人の職業なので生物学的身体性をもとに男女の区別を行う近代人の基準から、これを女性婚と言いますが、ヌアー人にとっては、女性婚でもなんでもなくて、結婚は男女の結婚の一形態しかありません。

そして、子どもを産むのは妻の役割です。男になった女性は、生殖機能がどうあろうと、もはや妻にはなれませんので、自分の男性の親族や、男性の友人や隣人などに頼んで、自分の妻に自分の子どもを産んでもらいます。

ヌアー人にとって生物学的な男はなく、したがって生物学的な父親もありえません。妻と他の男性との間に生まれた子どもは、女性だった父のみを自分の父とし、父への敬意は、父が男性であるか女性であるかで差が生じることはありません。


■名誉が作った社会は、人の生死にも境界がない

なぜ、このような社会になったかの人類学的説明は、ヌアー人が戦士であり、戦士は名誉を何よりも重んじるというものです。

ヌアー人にとって、最も名誉なことは、系譜(リネージ)に名を残すことだと言います。リネージとは、子供たちに記憶され、実際にたどることの可能な系譜のことです。忘れられてしまう系譜は、系譜(リネージ)にならないのです。

ヌアー人は、長らく無文字社会であり(この点は古事記以前の日本人と同様です)、系譜に名を残すには、正式の結婚をして、そこで生まれた子どもたちに、親としての自分の名前を系譜上に記憶してもらうしかありません。正式な結婚以外の子どもは、系譜と関係ありませんから、生物学的な親子関係に関心が持たれることはありません。加えて、正式の結婚には、花嫁の親族に贈るたくさんの牛が必要なので、牛を増やす能力が問われます。牛を増やす能力を重視すれば、生物学的な男女の別にこだわるのはナンセンスです。

さて、戦士であれば、未婚だったり子どもが授かる前に死んでしまう男も少なくありません。そのため、その男の親戚は、死んだ男を結婚させます。死者である男と、生者である女との間での正式の結婚が執り行われるのです。このような婚姻を人類学用語で「死霊婚」や「冥婚」と言いますが、これも人類学者が近代人であるからそう呼ぶのであって、ヌアー人には「自然な」結婚であって、他の正式の結婚と区別されることはありません。

死者である夫と結婚した妻は、実生活では代理の夫と結婚します。代理の夫との間にできた子どもの父は、系譜上、死者である夫との子どもとなります。その子の結婚の結婚式も花嫁親族への贈答も死者の名前で行われます。系譜(リネージ)だけが、「自然」だからです。結果、代理の夫は自分の子どもを持たずに死ぬことになるので、その恨みが亡霊となって生者に災いを為すのを避けるため、その男のための死霊婚が行われることになります。


■イザナキ・イザナミと性の役割り

ヌアー人の例は、セックスとジェンダーで考える我々の性別観が、我々の文化に固有の、太古からの人類にとっては多様な性別観の、たった一つに過ぎないことを教えてくれます。性器の違いも性別とは関係なく、生死も婚姻の条件とは関係ない社会が実際に存在することは、神々の性を考える上で、近代社会の常識という偏見から目を覚まさせてくれたはずです。

これで、ウォーミングアップは終わりです。

それでは、現代の我々の性別観からいったん離れて、『古事記』に書かれていることだけを手がかりに『古事記』の性別観を探ってみましょう。

『古事記』で、男女がはっきりとエピソードをもって語られるのは、イザナキ・イザナミの二神からです。この二柱は、神世七代の七代目の神々であり、独神ひとりがみではありません。

そして、イザナキ・イザナミの国生みの時に交わされることばが、

イザナミ「吾が身は、成り成りて成り合はざる処一処在り」(私の身体は、しっかり身体として成っていて、それでいてまだ成り足りないところが一箇所あります。

イザナキ「我が身は、成り成りて成り余れる処一処在り。かれ、此の吾が身の成り余れる処を以ちて、汝が身の成り合はざる処に刺し塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。」(私の身体は、しっかり身体として成っていて、それでいて成りすぎているところが一箇所あります。だから、私の身体の成りすぎているところを、あなたの身体の成り足りないところに刺し入れてふさいで、国を生み作ろうと思うがどうだろうか。

イザナミ「しか善けむ。」(それが良いでしょう。

であるように、ここでは、男女の差が、男性器/女性器の違いという形態の違いとして語られています。そして、男性器は生殖に関する男性機能と、女性器は生殖に関する女性機能と、それぞれ直結しています。

イザナキ・イザナミの国生みのエピソードにおいては、男女の違いは、生殖器の違い=生殖機能の違いとして語られることになります。

何を当たり前のことを、難しく書いているんだ、と思われるかもしれませんが、二神が「成り成りて成り~」と身体性を強調している点に注目です。

二神がことさら身体性を強調することにより、思い出されるのは、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の非身体性(非物質性)です(通読⑫↓)。

強調というのは、着目を促すために行われます。そして、着目を求めるのは、それが注目に値するそれまで注目されていなかった価値だからです。

何が言いたいかというと、イザナキ・イザナミなど以前の独神(ひとりがみ)の男と女は、身体的な男女の区分ではなく、生殖に関する男性の機能と女性の機能を表象しているのではないかということです。

生殖に関する男性の機能とは、相手が子どもを産むための必須のトリガーであり、生殖に関する女性の機能とは、男性の機能により自らが子どもを産むことです。

ザ・オトコの神である宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、相手が子どもを産むための必須のトリガーであることを表象した神ということになります。

それが、「将来神々が暮らす国をどこにしようか、まだ土地の存在しない地を、まるで浮いたあぶらのように海面上に想定しながらも、海月くらげのようにその場所が定まらず決めかねていた時」に誕生したと記されていることは、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)によって生まれるのは「国」に他ありません。

もちろん、地上における物質としての国生みは、イザナキ・イザナミによって行われますから、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)が生むのは、それに先立つ非物質的な国なるものなはずです。それが何なのかは、『古事記』における二番目の「国」への言及になる国之常立神(クニのトコタチの神)との理解によって明らかになると考えます。これについては、神世七代の解説と合わせて、稿をあらためて解説します。

ポイントは、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の次が国之常立神(クニのトコタチの神)なのではなく、その間に天之常立神(アメのトコタチの神)の誕生を挟んでいることです。それがなぜポイントになるのかについても、常立神(トコタチの神)の稿で、あらためて解説します。


■独神としての宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)

さて、これでようやく、5番目の質問に答える準備がすべて整いました。

独神ひとりがみとは、女神であり、男神でもあり、そのどちらでもあり、恐らくそのどちらでもない場合もある、他の神を組みとして見てはいけない神のことでした(通読⑦)。

例えば、独神ひとりがみの神々とはされないイザナキ・イザナミが身体的な男女の区分を問われるのに対し、独神ひとりがみの神々は男女の区分を問われない神々だということを意味します。

男女の機能、自分が子どもを産むのか、他が子どもを産むトリガーとしてあるのかは、身体的な男女の区分とは別の話しです。


また、組みとして見てはいけないとは、独神ひとりがみの神々は基本は系譜上に連続する神々ではなく、仮に自らの系譜上に連続する子があってもその子の親となる配偶神の存在を問わない(相手なしに子どもを誕生させることができる)存在であることの説明になります。
具体的には、思金神(オモヒカネの神)と万幡豊秋津師比売ヨロズバタトヨアキツシヒメ独神ひとりがみである高御産巣日神(タカミムスヒの神)の子どもですが、高御産巣日神(タカミムスヒの神)の配偶神は想定されていません。
神産巣日神(カミムスヒの神)の子である少名毘古那神(スクナビコナの神)についても同様です。

高御産巣日神(タカミムスヒの神)は、それが身体的には、女性神であろうと、男性神であろうと、相手を必要とせず、系譜につながっています。
相手を必要としないというところだけが、重要なのです。
なぜなら、最高の高御産巣日神(タカミムスヒの神)であっても創造できなかったものがあり、神が神として創造しなければ生命が誕生しなかったその象徴としての神産巣日神(カミムスヒの神)は、それゆえに高御産巣日神(タカミムスヒの神)に依存せずに存在しなければならないからです。
そのため、神産巣日神(カミムスヒの神)も、それが身体的には女性神であろうと、男性神であろうと、相手を必要とせず、系譜につながっているのです。

反対に、独神ひとりがみとはされない『古事記』一般の系譜に連なる神々は、親神のペアの協力での誕生が想定されています(アマテラスとスサノオとのうけひも、二神の協力という意味で、ペアと見なすことができます)。


ここで重要なのは、高御産巣日神(タカミムスヒの神)の系譜と、神産巣日神(カミムスヒの神)の系譜は、それぞれ別の系譜だということです。

天之御中主神(アメノミナカヌシの神)から高御産巣日神(タカミムスヒの神)、神産巣日神(カミムスヒの神)、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)と神々は「次に、次に」と連続して誕生しますが、それらは系譜上の連続ではありません。


以上から、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)には、独神ひとりがみでありながら、男性神でなければならない必然性を考えて見ると、その男性性は身体性ではなく機能としての男性性であることが見えてきます。

女性神は、自らに生命を産ませしめる他の存在を受け入れる存在です。造化の三神の働きにより、すべてがそろった天に、女性神が誕生すれば、それは天以外から何ものかを受け入れることを天に運命づけることになります。天が、天以外を必要とする存在であれば、天の完全性と矛盾します。また、女性神が誕生すれば、天は天以外から何ものかを受け入れて、天に生命があふれていくことになります。それでは地の必要性がなくなります。

『古事記』が紡いだ物語はそうではありません。『古事記』の語る天は生命の誕生を待たなくても満ち足りており、天は天以外を必要としない存在です。やがて展開する豊饒なる大地の物語のためにも、造化の三神を受けて天に成った神は、独神ひとりがみであり、かつ、ヒコヂの神である必然性があったのです。

これでようやく、最後の問題が解けました。

■宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)に関する5番目の問いとその答え

5.宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、ヒコという男性を思わせる名前だが、性別がどちらでもかまわないはずの独神(ひとりがみ)であることと矛盾しないのか?

⇒宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)には、イザナキ・イザナミのように身体的特徴による性別はないが、自己以外が子どもを産むトリガーという「機能としての男性」を象徴している神なので矛盾しない。
つまり、独神ひとりがみがどちらでもかまわないとする「性別」とは、神がmale=男性神(maleである神)かfemale=女性神(femaleである神)かという区分である。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、maleかfemaleかに関わらずthe man を象徴するという神名を持つ神であるため、独神ひとりがみであることと矛盾しない。

少し理屈っぽいと感じられたでしょうか。でも、それは現代の我々の常識から理解(説明)をしようとしているからで、実は縄文土器にも見られる思考なのです。これについてはまた回をあらためて説明します。


高御産巣日神(タカミムスヒの神)は男性神であり、神産巣日神(カミムスヒの神)は女性神であるという説をどう考えるか

さて、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)のジェンダーについて分かったところで、同様に独神(ひとりがみ)である高御産巣日神(タカミムスヒの神)は男性神で、神産巣日神(カミムスヒの神)は女性神であると言われること(以下、「ムスヒ性別説」とします)についてはどう考えたらよいのでしょうか。

「ムスヒ性別説」が根拠にしているものは、主に2つあります。

1つは、『古事記』に「神産巣日かみむすひ御祖命みおやのみこと」と記した箇所があるからで、「御祖みおや」とは、母を意味するので、カミムスヒは母神であるというものです。江戸時代の国学者の平田篤胤の主張がその始まりです。母神なので、神産巣日神(カミムスヒの神)は女性神だと主張します。

 確かに、大御祖神おおみおやのかみとも呼ばれる天照大御神(アマテラス)は女性神です。

 しかし、伊勢神宮(内宮)には大土御祖おおつちみおや神社という摂社があり、そのご祭神は、大国玉命(おおくにたまのみこと)・水佐々良比古命(みずささらひこのみこと)・水佐々良比賣命(みずささらひめのみこと)の三柱です。
 ヒコ(男性神)とヒメ(女性神)が共に御祖みおやとして神社に祀られていることから、「神産巣日御祖命」との表記をもって神産巣日神(カミムスヒの神)を女性神とする平田篤胤説には無理があります。

そもそも「ムスヒ性別説」は、独神ひとりがみとは、女神であり、男神でもあり、そのどちらでもあり、恐らくそのどちらでもない場合もある、他の神を組みとして見てはいけない神であるという定義に反します。

平田篤胤説は、世間に常識的な男女観に即していますから、日本古来の野生の思考を失ってしまった日本人には、分かりやすい説だと言えます。
『古事記』は書名と八岐大蛇退治や因幡の白ウサギなどの個々のエピソードは有名ですが、原文はあまり読まれません。『古事記』原文を読まなければムスヒの神が独神ひとりがみだということはわかりませんから、平田説が根強いのも仕方ないことなのかもしれません。


『古語拾遺』の記述

「ムスヒ性別説」のもう1つの根拠は、『|古語拾遺《こごしゅうい》』(807年)です。これには、ダイレクトに、高御産巣日神(タカミムスヒの神)はカムロギ(男性神)であり、神産巣日神(カミムスヒの神)はカムロミ(女性神)であるという記述があります(岩波文庫版だとp.15)。

しかしながら、古語拾遺こごしゅうい』の内容は、『古事記』の神話とかなりの部分で相違があるのです。『古語拾遺こごしゅうい』が正しいとすると、『古事記』の内容は間違いであることになります。

古語拾遺こごしゅうい』は、平安朝初期に桓武天皇から代替わりした平城天皇が朝儀についての召問をした際に、神職の斎部広成(いむべのひろなり)が撰上したものです。天武天皇は第40代、桓武天皇は第50代でちょうど10代後の天皇になります。また、在位の時期もちょうど100年後ですから、『古事記』と古語拾遺こごしゅういの時代は、大正と令和くらい離れていることになります。

その『古語拾遺こごしゅうい』を撰上した斎部広成いむべのひろなりを出した斎部いむべ氏は、古来、中臣なかとみ氏と共に祭祀や祝詞を司ってきた一族です。それが、段々に中臣なかとみ氏が祭祀の中心となり、没落の過程にあります。それに対する私憤が、斎部広成いむべのひろなりにはあったのですね。

古語拾遺こごしゅうい』とは、「古語ふることりたるを拾ふ」(「る」は残るの意)という意味で、古来の朝儀や言い伝えが損なわれてしまっているために正しく伝承したいという斎部広成いむべのひろなりの強い思いが込められています。


■ひとつにならなかった天皇の神道

間違いが多いので正しい伝承を残すために書物に編み天皇に上梓された点で、編纂の動機は『古事記』にそっくりです。ちなみに、古事記はふることぶみとも読みます。

編纂の動機がそっくりなのに、記述の内容が異なるということは、あえて『古事記』を相対化すれば、『古事記』は当時の天皇家の神道の書であり、『古語拾遺こごしゅうい』は、斎部いむべ家の神道の書であるということです。

斎部広成いむべのひろなりは、段々と中臣なかとみ氏が、斎部いむべ氏を追いやり、祭祀や祝詞を独占しつつあることに大変な憤りを感じていました。この中臣なかとみ氏による祭祀の独占の弊害は、古来の朝儀や言い伝えが損なわれたことにあらわれているというのが、斎部広成いむべのひろなりの主張です。

つまり、中臣なかとみ氏の神道もあったということです。

このことは、『古事記』の序の天武天皇の言葉、「朕聞く、諸家のもてる帝紀及び本辞、既に正実に違い、多く虚偽を加うと。」(私の聞くところ、諸家に伝わっている帝紀と本辞には、真実と違い、虚偽を加えたものがはなはだしい。)を思い起こさせます。

『古事記』によって712年に天皇家が一本化したはずの祭祀伝承は、再び乱立の状態を経て、『古語拾遺こごしゅうい』が記された807年には、中臣氏による祭祀伝承に一本化されようとしていたことが分かります。

これが、キリスト教(カソリック)であれば、幾度の公会議を経て異端を排除した最新の教義が唯一の正しい教義であると言えるのですが、『古事記』が『古語拾遺こごしゅうい』にバージョンアップされたという事実はありません。
古語拾遺こごしゅうい』の記述で『古事記』を理解することはできない
のです。


■『日本書紀』が意図したもの

『古事記』が神道の一本化に失敗した理由の背景には、『日本書紀』の存在があったと思います。『日本書紀』は、『古事記』と同じく天武天皇の命によって編纂された日本最古の公的歴史書ですが、『日本書紀』の神代の記述は『古事記』と異なるものであり、また、諸家に伝わる異伝も「一書に曰く」として多数記載されています。

そして、『日本書紀』は、720年に完成しています。『古事記』の神道は、成立からたったの8年で、「それはそれ、これはこれ」的に相対化されてしまっているのです。恐らく、『日本書紀』は、その編纂段階から、『古事記』の記述を上書きすることを狙っていたのではないでしょうか。

ある大学に勤める恐ろしく頭の切れる新進気鋭の上代文学者が、宴席で私に『日本書紀』研究の魅力を語ってくれたことがあります。それは、
「『日本書紀』は官僚の作文である。今の官僚が、政治家に仕えているように見えて、裏では馬鹿にしコントロールしようとしているケースがたまにあるように、当時の官僚も、天皇を持ち上げているようでいて裏で馬鹿にしているような痕跡が『日本書紀』の記述には、いくつかある。巧妙に隠された官僚の意図を、『日本書紀』の文中に見つけ出すことが、スリリングで面白い。」というものでした。なるほど『日本書紀』にそのような見方があるのかと驚いた記憶があります。

『古事記』は『日本書紀』が進めようとしている律令国家の徹底によって失われてしまうことがらへの警鐘の書でもありますから(これについては回をあらためて解説します。追記:「通読⑰」の注釈で触れます)、『古事記』と『日本書紀』の双方に潰し合いの意図を感じます。結果的に、『古事記』の意図は『日本書紀』によって上書きされてしまったために、多数の異説が「一書に曰く」として公認され、天武天皇の意図を知らない後世の時代に『古語拾遺こごしゅうい』が撰上される余地が生まれたのだと思います。


■固定化された独神の男女

栽培の思考と出会ってしまったら消滅してしまう野生の思考のひとつが「性」です。前述のヌアー族の場合、無文字文化であったことが、生物学的な差に拠らない男女区分を可能にしてきました(記憶される正式の結婚がには性器の差へのこだわりは無用)。

神道における栽培の思考は、『日本書紀』に始まります。律令国家の制度のもとで官僚化をはじめた神道の歴史の中に『古語拾遺こごしゅうい』はあり、それが、たとえ天皇家の神道思想に反したものだとしても、ムスヒ性別説を取っているのは不思議ではありません。

我々日本人は、文字を手に入れたとほぼ同時に、栽培の思考の結晶である律令制の導入を進めることになりました。律令制では、徴税のための戸籍が重要であり、また門閥政治のためには文字化された家系図が重要な意味を持ちます。戸籍や家系図が重要となる社会にとって、性別は必須です。男性神であり女性神であるというような信仰は、官僚主導の神道において居場所をなくし、神々の性別が固定化されていったのだと思います。

失われつつある野生の思考に文字で永遠の命を与えようとした『古事記』と精神を同じくする官製の文書は、日本史上に二度と現れませんでした。なぜなら、日本国家そのものが、栽培の思考の産物であり結晶であるからです。

『古事記』が書かれたときには、独神(ひとりがみ)として信仰されてきた高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)は、後世になって、「近代的な意味での男女」に振り分けられてしまったのではないでしょうか。

(ウマシアシカビヒコヂの神の稿は終わりです。トコタチの神につづく

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ver.1.1 minor updated at 9/22/2020 (■独神(ひとりがみ)としての宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)の末尾に疑問5の回答を掲載)
ver.1.11 minor updated at 9/22/2020 (一部のテニオハを修正)
ver.1.2 minor updated at 9/22/2020(「■独神(ひとりがみ)としての宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)」の節の末尾の、5番目の疑問への回答に、よりわかりやすくパラフレーズした文章を追加)
ver.1.21 minor updated at 9/22/2020(疑問点の項番を修正)
ver.1.22 minor updated at 9/25/2020(日本語としておかしいところを修正)
ver.1.23 minor updated at 2020/11/1(通読⑤と⑧を編入したことによる項番変更)
ver.1.24minor updated at 2021/1/16(誤植を修正。可→訶)
ver.1.3minor updated at 2021/3/3(目次を追加。あわせて「■高御産巣日神(タカミムスヒの神)は男性神であり、神産巣日神(カミムスヒの神)は女性神であるという説をどう考えるか」に一部加筆した。)
ver.1.31 minor updated at 2021/7/31(通読0⃣を通読①に採番し直したことにより項番を⑫→⑬に採番し直し)
ver.1.32 minor updated at 2021/9/29(マニアック注釈を一部読みやすく修正)
ver.1.33 minor updated at 2021/11/11(5番目の問いへの回答を若干加筆)
ver.1.34 minor updated at 2021/12/26(ルビ機能を適用しました)
ver.1.4 minor updated at 2022/1/9(系譜の説明で、タカミムスヒとカミムスヒの系譜の説明を加えないと、意図と逆の意味に伝わってしまうことに気づき、加筆しました)

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