高天原の均衡を破る宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)(『古事記』通読⑩)ver1.24
※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。初回はこちら。
■別天神の物語構造
『古事記』4番目の神は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)です。
この神のところで、『古事記』は、最初の場面転換をむかえます。
原文をみてみましょう。
原文では、文章番号①~④に書かれている造化の三神の物語と、文章番号⑤~⑦に書かれている物語の二つが、もう一段大きな物語(文章番号①~⑧)の構成要素になっています。
それは、文章番号⑧にあるように、別天神の物語です。
別天神とは、特別な天つ神という意味です。
何が特別なのかはこの連載であきらかにしていきますが、文章番号⑨以降に書かれる国之常立神(クニノトコタチの神)からイザナキ・イザナミまでの神々は、別天神ではなく神世七代とされます(イザナキ・イザナミが特別な天つ神=別天神とはされていないことの意味は、神世七代の解説の時に明らかにします)。
文章番号⑨以降は、二番目の大きな物語である神世七代の物語です。
ここまで書いてきました「『古事記』通読」①~⑨は、最初の大きな物語の前半部分を一文ずつ読み進めてきたというわけです。今回から、後半部分に入ります。
■視野・視座・視点と『古事記』の世界
世界認識には、視野(何を見ているかの範囲)・視座(どこから見ているかの立ち位置)・視点(どこを見ているかの視線の先)を意識することが重要です。
仮想時空間の定義を神話にも拡大して、この見方を『古事記』読解にあてはめてみたところ、絡まった糸がほどけるように『古事記』が見えて来ました(例としてスサノオ神話についての文章を以前に書いています)。
これから、第一の物語(=別天神の物語)の後半部分に入っていくわけですが、視野・視座・視点を意識すると、別天神の世界が大変つかみやすくなります。
後半部分の最初の文である⑤は、①と対になっています。
①と⑤は、どちらも神の誕生譚であり、
「Aの時、Bのシチュエーション(場所/状況)で誕生した神の名はC」
という同一の構文になっていますが、①と⑤とでは、視野・視座・視点が変化しています。
①の視野に入っているのは、天と地です。天は、より具体的な「高天原」まで意識されています。視座も視点も天にあります。
次に、⑤を見てみましょう。
ここでは、視野に入っている「具体」が、天から地に移っています。
浮いたあぶらのようでクラゲのように漂っているという稚い国という描写は、非常に具体的なイメージになっていますし、神の誕生の様子の描写も、葦牙(あしかび=葦の若芽)という具体的な地上の水辺の植物が比喩に用いられています。
高天原の神の誕生譚でありながら、念頭にある光景が地上なのです。これは、視座が天で視点が地であることを示します。
舞台を高天原に置いたまま、いよいよ地を意識した物語が宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)から始まるのです。
■調和を破る神
それでは、いつものように、稗田阿礼と一番の読み手であったであろう当時の皇子との対話調で解説を進めて行きます。
皇子 天に中心ができて、全てを生み出す源の神様が誕生して、そして神様の自覚のもとに生けるものを創造される神様が誕生したんだよね。
阿礼 はい。
皇子 そしたらさ、もうそれで十分じゃない?どうして、さらに神様が誕生してきたの?
阿礼 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)も、高御産巣日神(タカミムスヒの神)も、神産巣日神(カミムスヒの神)も皆、高天原にお生まれになったでしょう。そこで、満ち足りてしまったら、我々はどうなります?
皇子 神様にとって我々は必要無いことになるね。でもさ、高天原は満ち足りてはいるでしょう。満ち足りているのに、それで十分じゃないってどういうこと?
阿礼 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)は、高天原以外の存在をも予祝されたでしょう。高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)とで十分に思えるってことは、逆に、高天原以外の存在を実現するためには、高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)ではない、その外の神の働きが必要ということなのですよ。
皇子 どういうこと?
阿礼 高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)とで十分に思えるということは、高天原は完結しているということです。完結してしまっては、高天原以外の存在を実現できません。
他の世界を作るためには、一種の破綻が必要です。それは、十分とか満ち足りただけの世界からは生まれません。ある世界が十分であるということは、別の世界を作るには足りないということです。
皇子 それが、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)なんだね。
阿礼 おっしゃるとおりです。高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)とで高天原は満たされていて、だからこそ、その十分さを逸脱する神が誕生する必然性があったのです。
皇子 宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、国土がまだ固まっていなくてプカプカ浮いてクラゲのようにふらふら漂っていたときに誕生したんでしょう?
阿礼 違います。
皇子 えっ?『日本書紀』の編纂にとりかかっている役人に聞いたから間違いないはずなんだけど。
阿礼 『日本書紀』は対外向けの文書ですから、神々の話のところは、外国人が読んでも分かるように漢籍を組み合わせているのです。国土は、イザナキ・イザナミが生むわけですから、国土がまだ固まっていなくてプカプカふらふら漂っていたなんてことはありません。
皇子 イザナキ・イザナミが国生みをする前に、国になりきれない稚い国があって、プカプカふらふら漂っていたんだけど、それは国になることができなかったので、イザナキ・イザナミがしっかりした国を国生みしたんじゃないの?
阿礼 違います。国になることができなかったのは、ヒルコや淡嶋といって、それらもイザナギ・イザナミがお生みになったのです。
イザナキ・イザナミは、神世七代の最後七代目の神々で、その誕生前には六代の神々があって、その更に二代前の神が、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)なのです。
イザナキ・イザナミが誕生される前は、地には国にもなれないような陸地すらなく、水に覆われていました。プカプカ浮いてクラゲのようにふらふら漂っているような稚い国なんて、地にあるはずがないのですよ。
皇子 じゃあ、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)が誕生された、「国稚く浮ける脂の如くしてクラゲなすただよへる時」って何を言っているの?
■五つの疑問
それまで「天地」、「時」、「高天原」、「神」の四つの要素のみで構成されていた『古事記』神話に、新たな要素として「国」が加わりました。
そして、それが「天地初発の時」に次ぐ時の描写となっており、その「時」に誕生した神の名が、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)であるというのが⑤の文章です。⑤の文章はすごく視覚的で、情景が目に浮かぶようです。
でも、少し考えてみると、疑問に思う点がいくつか出てきます。例えば、
1.「国稚く~」の解釈が、いまだに『日本書紀』とに混同(国土がまだ固まっていなくてプカプカ浮いてクラゲのようにふらふら漂っていたと思われていること)が根強いのはなぜなのか?
2.国がまだ若い段階とはどういうことか?
3.国土でないはずの国が、水に浮くあぶらのようであって、クラゲのように漂うとはどういう状態なのか?
4.宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)とはどのような意味を持った神名なのか?
5.宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)は、ヒコという男性を思わせる名前だが、性別が無いはずの独神であることと矛盾しないのか?
といった疑問です。これらについて、次稿以降、明らかにして行きます。
■おまけ(私家版現代語訳「造化の三神」)
別天つ神の物語の前半について、これまでまとまった現代語訳(拙訳)を書いていませんでしたので、ここにおさらいを兼ねてを載せておきます。
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