見出し画像

天之常立神(アメノトコタチの神)と聖なる時間<下・国家の寿命とQアノン>(『古事記』通読⑰ver.1.72)

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます連載初回はこちら
※天之常立神(アメノトコタチの神)の3回目です。1回目<上>はこちらですが、読む順番としては本稿先でもかまいません

■アメリカンドラマといにしえの日本

コロナ禍のステイホームで、最近はめっきり映画館に行く機会が減り、代わりに家でアメリカンドラマを見る機会が増えました。

映画好きの数人と連れだって、鑑賞後に一杯やりながらワイワイと感想をぶつけ合うなんてことはできないし、そもそもほとんど新作が公開されない日々が継続しています。

そんなわけで、最初はあまり期待せず映画の代わりとして見始めたネット配信のアメリカンドラマですが、今では単なる食わず嫌いだったことを自覚しています。中でも、SFやファンタジーは、映画が書き切れなかったテーマに挑んだ映画以上に素晴らしい作品が結構あることに気づいてきました。

例えば、『ウエストワールド』(シーズン1~3継続中)は、『ブレードランナー2049』(Netflix他で配信中)が寸止めで突っ込めなかった、記憶と自我と機械に魂が宿るのかというキリスト教的にエッジな問題をためらいなく描いていますし、『グッドプレイス』(シーズン1~4完結・Netflix)は、天国と煉獄れんごく(=天国と地獄との間にあって判断保留の死者が一時的に送られるとされるあの世の場所であり、ここで浄化された後、死者は天国におもむく)についての哲学的考察という高難度なテーマをシットコム(シチュエーションコメディ=アメリカンテイストな連ドラ喜劇)にしてしまった恐るべき作品です。

アメリカンドラマの場合、いくらテーマが凄くても人気がなければ容赦なく打ち切りになってしまいます。シーズン1で終わってしまった作品も山ほどある中で、これらのエッジの効いたテーマの作品がシーズンを重ねてきたことは驚きです。

今日は、そんな昨今のSFアメリカンドラマに、『古事記』や『日本書紀』を読み解くヒントがあるのではないかということについて書きたいと思います。


■セカイ系と近代文学

エッジを効かせたSFエンターテインメントと言えば、日本ではアニメーションが突出しています。SFにおけるアメリカンドラマに対するジャパニメーションという構図です。

これらは、類似ではなく、対置的な構図になっているのがポイントです。
どういうことか説明します。

まず、両者では何をテーマにエッジを効かせているかが異なっています

日本のアニメの十八番おはこは、内面の描写へのフォーカスです。
主人公は様々なシチュエーションに遭遇し、喜怒哀楽の大きな感情から、もどかしさや鬱屈、ためらい、諦め、ときめき、ふいの決断といった細かな感情を経験し、ある感情から別の感情への転換や揺れ動きのダイナミズムに視聴者は共感し、あるいは翻弄されます。

この内面の動きが、世界の危機などの大きな物語に直結するような作品が、いわゆるセカイ系になります。

この「直結」というのがポイントで、セカイ系の作品群は、通常、社会をテーマにはしていません。主人公の内面の変化が、世界の変動に連動し、主人公の内面の成長が世界を救うことになるという構図なんですね。
もしくは、主役または準主役の内面の変化に連動して世界が危機に陥り、その他の登場人物がそれに翻弄されるとかのパターンがあります。

こうしたセカイ系の作品群は、『新世紀エヴァンゲリオン』(TV放映1995年〜1996年)が号砲を鳴らし、『涼宮ハルヒの憂鬱』(TV放映2006年~2009年)という傑作をはさみ、再帰的に(=意識的にその世界感で創られた)数多くの作品が誕生しています。

最近でこそ、あまりセカイ系という言葉は聞かれなくなりましたが、これはすたれたのではなく、通常化したからなんですね。実際、2010年代以降も、例えば、『SSSS.GRIDMAN』(Netflix他で配信中)などセカイ系の傑作が次々生まれています。
元祖とされるエヴァも、『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』が公開を控えています(2021年2月現在)。

明治時代に始まった近代小説以降、日本の文芸のトレンドは、一貫して内面の描写でしたので、セカイ系は、日本近代文学の正当な継承作品群であるといえると思います。


■シャカイ系の誕生

一方、太平洋の向こう側のアメリカでは、日本でエヴァがTV放映された数年の後に、以降の作品群に大きな影響を与えることになったSF作品が登場します。『マトリックス』(1999年・Netflix他配信中)です。

マトリックスの物語構造は、

主人公は、自分が存在している世界がフェイクであることに気づき、その謎を解き、真の世界に脱出し、本来あるべき世界を構築します。

というものです。

実は、マトリックスの前年に公開された『トゥルーマン・ショー』(1998年・Netflix他配信中)も、ナラトロジー(物語論)的には、まるきり同じ物語です(映画をナラトロジー的に観る見方については、こちらを読んでいただけるとありがたいです)。

私は、このような物語構造を持つ作品群を、セカイ系になぞらえて、シャカイ系と呼んでいます。

セカイ系では、主人公らがセカイと直結しているのに対し、これらの作品で主人公らが問題としているのは、世界と個人との間の中間項=社会(シャカイ)です。

ここで言う「シャカイ」というのは、プレイヤーである個人が、知らず知らずのうちに従わされているルールの主体のことで、『マトリックス』であれば、人々が物理的に接続されているマトリックスが、『トゥルーマン・ショー』の場合は、「トゥルーマン・ショー」という番組が、シャカイになります。

ある隠された意図のもとに構築された、特定の統一的な体系=プラットフォームが、「シャカイ」です。

「シャカイ」とは、「社会」をより抽象化して世界と個人との間の中間項全般を指すよう一般化した概念ですが、現実の社会や世界は、様々な思考や思想の総体であるため、統一した体系というものは持ち得ません。
そこが、シャカイと現実の社会との違いです。

だからこそ、主人公らは、自らがおかれた環境の単一さ(=不自然さ)を不審に思い、そこが社会ではなくシャカイであることに気付くことで、物語が展開していきます。

◆シャカイ系の物語構造
主人公は、何かのひょうしに、自分が存在している環境(=シャカイ)に、どこかひずんでいて微妙に不自然なところがあることに気づきます。

そして一度、その歪みに気がつくと、環境そのものがまるごとフェイクなのではないかという思いにとらわれます。
しかし、周囲の大多数は、シャカイがフェイクであることに気づかず、主人公を否定します。中には、フェイクであることを知りながら加担している者もおり、主人公をもとの日常に戻そうとします。

主人公は、無関心な周囲にあわせることなく、加担者と戦い、自分の信じるところに従ってフェイクのシャカイを抜け出そうとし、あるべき社会や世界を求めます。


『マトリックス』/『トゥルーマン・ショー』のような初期シャカイ系は、現実が虚構である可能性を題材にしていました。

現実社会でネットが普及し、リアルがバーチャルによって相対化される時代になり、現実は唯一絶対のリアルという玉座から引き下ろされました。そんな、現実のリアルがリアリティーを失った時代に、シャカイ系はマッチしていたのだと思います。

シャカイ系の作品では、シャカイは、社会や世界そのものであるかに装っているものの、あるべき社会や世界ではない存在として、物語の最重要構成要素に設定されています。

リアルに見えているものが実はリアルではなくバーチャルなものであり、リアルを否定することで真のリアルに達するという価値の転倒が、サイバー空間こそ自由な空間なのだという当時の時代の空気に合致し、シャカイ系映画のダイナミズムを生み出していました。

その後、ドットコムバブルが崩壊してサイバー空間に祝祭的雰囲気は消えていき、ITは祝祭からビジネスへと意匠を変え、リアルとバーチャルはシームレスに融合していきます。ITが拓くフロンティアは、サイバー空間から、リアルな産業そのものに移行していきました。

そうした時代の変遷と平行して、シャカイ系の内容も変わっていきます。


■シャカイ系から新シャカイ系へ

シャカイ系の新たな潮流の代表例として、『ウエストワールド』シリーズを挙げたいと思います。

富裕層向け西部劇テーマパークである「ウエストワールド」は、西部劇そのままの世界を再現していて、ホストと呼ばれるヒューマノイドが暮らしています。
来園した客は、入園時に善か悪かを決め、あとは西部劇そのままに何でもありを体験します。ホストは人間では無いので、撃ち殺すのも自由です。
善はならず者を撃ち殺し、悪はならず者となって自由に狼藉をはたらきます(ホストは来園者には危害を加えられないように設定されています)。
殺されたヒューマノイドは閉園後に修理され、持ち場に再配置されます。
ヒューマノイドにとって、ウエストワールドは何度も惨殺される無間地獄なのですが、記憶がクリアされているので、無限ループには気付きません。
ところが、ありえないはずの記憶の残滓ざんし(消し忘れの断片)が、一部のホストに自我をもたらし…。というのが、極力ネタバレを排したあらましです。

タイトルの『ウエストワールド』は、西部劇の世界という意味と欧米社会という意味のダブルミーニングになっていて、米国の建国から現在、そして近未来までの戯画として、サスペンスとアクションを通して米国について内省的にならざるを得ないようにストーリーが紡がれていきます。

このように、『ウエストワールド』シリーズは、『ブレードランナー』的なAI/ヒューマノイドを主人公としつつも、物語の骨子は典型的なシャカイ系なのですが、骨子以外のところに『ウエストワールド』シリーズの新しさがあります。

『マトリックス』/『トゥルーマン・ショー』のような初期シャカイ系が、虚構としての現実の喝破とその破壊、またはそこからの脱却に重点を置いていたのに対し、『ウエストワールド』は、物語上虚構とされる現実にアメリカの建国史を重ねて、視聴者にアメリカが隠蔽してきたものを気付かせることに重点を置いています

アメリカが隠蔽してきたものとは、ネイティブインディアンであったり、黒人の歴史であったり、といったものです。

最近のシャカイ系は、アメリカ社会の成り立ちそのものに強くフォーカスをあてている点で、初期シャカイ系とは別の作品体系に変遷してきているのです。私はこれらを新シャカイ系と呼んでいます。


■多様性が隠蔽されている現実は虚構

後ほど紹介します『ウエストワールド』以外の新シャカイ系の作品では、それらに、ラテン系やスラブ系などのマイノリティな移民だったり、プロテスタント以外の宗教観だったりといったことも追加されます。

これら多様性が隠蔽されている現実は、あるべき現実ではなく、シャカイに過ぎないという訳です。
アメリカの未来は、シャカイの虚構性を剥ぎ取ったところにあるというメッセージが、AI/ヒューマノイドや仮想現実などの最新テクノロジーによる人間という存在の揺らぎだったり、アメリカお得意の記憶とアイデンティティの物語(これについては以前に書きました)だったりと組み合わせて描かれているのが、新シャカイ系のSF作品なのです。



■アメリカという多神教世界

『ウエストワールド』は、虚構の喝破と脱却をフィクションの世界で展開するシャカイ系と、虚構の喝破と脱却を現実のアメリカを題材に行う新シャカイ系の双方の特徴を兼ね備えた作品ですが、後者に振り切った作品として、いまもシーズンを重ねているのが、『アメリカン・ゴッズ』です。

キリスト教国であるアメリカでは、神は1つであるはずなのに、ゴッドが複数形(ゴッズ)になっていることから分かるように、本作は、一皮剥けば、アメリカに多神教国家の側面があることを描いた作品です。

アメリカは移民の国ですが、人々がアメリカに渡ってきた際に、信仰していた神々(スラブやラテンやバイキングやインドなど多様な民族のいにしえの神々)もアメリカ入りしていたという設定になっています。
信者が少なくなった神々は、おちぶれ、全米各地にひっそりと暮らしています
逆に、グローバリズムやメディアやテクノロジーなどといった新しい概念が、新たな神々として振る舞っています
そうした中、北欧神話の最高神であるオーディン(ウエンズディ=水曜日の語源となった神)は、新たに神々として振る舞う概念達と生き残りをかけて戦うことを決め、戦争準備のために、全米各地に身を潜めて暮らしている古き世界の神々を尋ねていくというのが、『アメリカン・ゴッズ』のストーリーです。

ピルグリムファーザースを筆頭にプロテスタント移民の建国史として語られがちなアメリカ史を全否定する過激で、かつとっても荒唐無稽なストーリーですが、それを感じさせないほど大変丁寧に描かれています。

当然、ネイティブインディアンやアフロ・アメリカンについても触れられ、現代アメリカ評にもなっているのですが、子供や宗教的保守派、「良識的な」大人の目には触れないように、過激なエログロ描写(美しいんですけど激しいは激しい)が毎回のように出てきます。このあたりの排他の気配りはうまいなあと思います。

シーズン1の終わりの方には、強烈な現代キリスト教批判もあるのですが、最初からしっかり観ていないと分からないようになっていて、炎上を巧みに避けています。
およそ2時間弱の長さにすべてを表現しなくてはならない映画に対して、ドラマは尺が長いですから、メッセージはダイレクトにではなくやんわり埋め込むことが可能です。
あからさまには気づかれずに主張を伝えることができる点で、アメリカンドラマは映画より有利なフォーマットなのかもしれません。

ともあれ、いま、このタイミングで、アメリカから多神教世界をテーマにした新シャカイ系の作品が生み出されたことを、大変興味深く思っています。多神教があたりまえの日本では、多神教世界についてあらためて考える風潮は生まれにくいからです。


■近代との心中を拒否するアメリカ

『アメリカン・ゴッズ』の力点は、初期のシャカイ系作品群と異なり、シャカイからの脱却にはありません。

これは、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を観た時にも感じたことですが(この作品は、行って戻ってくるという珍しい構造のロードムービーでした)、これらの作品では、脱却しようにも脱却先が無いということが自明の前提になっています。

『アメリカン・ゴッズ』では、虚構であるシャカイ(多様性の隠蔽された社会)を否定しますが、そこからの脱却を目的とするのではなく、虚構というベールを溶かすことで、あるべき社会を露呈させることを着地点としているように見えます。

今のアメリカはシャカイだという痛烈な認識がありつつも、今のアメリカを否定するために、サイバー空間など現実の外に目を向けるのではなく、アメリカの過去にひるがえって建国史そのものに目を向けているのが、新シャカイ系の共通点です。

国家史を捉え直すという営みは、過去に対する認識を変えることによって、過去の延長線上にある現在と未来を変えてしまおうという行為であり、未来に向かって新しい国家像を打ち立てようとする試みです。

そこには、アメリカは、再定義が必要なほど、国家としての賞味期限が切れかかっているという作り手の認識を感じます。

アメリカは近代から始まった国家です。近代という時代が終わりに近づけば、近代そのものの化身であるような国家であるアメリカも終わりに近づくのが道理です。

アメリカが未来に生き残るために、建国史を洗い直すことで建国以前の歴史を取り込み、新たな建国を行おうとする大胆な試みが、新シャカイ系の意図なのではないかと私は見ています。


■ホワイトヒストリーの溶解

黒人史を取り込めば、近代以前のアフリカの歴史はアメリカ史の一部になり、各国からの移民史を取り込めば、世界史はアメリカ史になります。

ナショナルヒストリーからグローバルヒストリーに自国史を拡張することで、終わりつつある近現代という時代と心中することから脱却しようという意思を、『アメリカン・ゴッズ』には感じますし、新シャカイ系の作品群すべてに共通して感じます。

アメリカ社会の成り立ちそのものに強くフォーカスをあて、現実のアメリカ社会をシャカイとして捉えることで、アメリカが見てこなかったものを気付かせることに主眼を置いた作品群である点で、新シャカイ系はSF映画の範疇に収まりません。

成功(アメリカ人は成功が好きな国民性を持っています)とは何かをシットコムにしてしまった『グッドプレイス』(Netflix 2016-2020年)や、アメリカ初の単独宇宙飛行成功の影にこれまで語られてこなかった黒人の貢献があることを世に知らしめた『ドリーム』(2016年・ノンフィクション・アマプラ他有料配信中)、同じ時・同じ場所に生きていても見えている世界が白人と黒人で異なることをテーマにした『ブラインドスポッティング』(2018年・アマプラ他有料配信中)などの作品も、新シャカイ系の傑作と言えるかと思います。

マイケル・ムーアが珍しくイデオロギーをおさえてアメリカの盲点を海外から活写した『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』(2016年・アマプラ他有料配信中)も、ドキュメンタリーですが、構造的には新シャカイ系と言えるかと思います。

また、作品というものは、単独で存在しながらも、他の作品と影響し合いながら解釈されていく存在です(文学で言うところの「間テクスト性」)。

黒人問題であれば、新シャカイ系の体裁を取っていない同時期の作品群の存在が、よりメッセージを強めていきます。

例えば、『13th 憲法修正第13条』(YouTubeで無料公開中・2016年・ドキュメンタリー)、『ブラックパンサー』(2018年・アメコミ)、『ブラック・クランズマン』(2018年・スパイク=リー)、『黒い司法』(2019年・ノンフィクション)といった作品群です(上記の作品も映画として傑作です)。

これらが、BLM(Black Lives Matter =黒人の命を軽く見るな・ピーターバラカン訳)運動(ここでのBLMは、2012年のフロリダの事件に端を発し、現在まで続いている草の根の運動のことを言っています)と共鳴し、反響を呼んできた経緯もあります。


一方で、作用があれば反作用があるのも事実です。新シャカイ系が提唱する未来像は受け入れられないという反応も当然ながらあります。

建国史を洗い直すことには痛みが伴います。先住民の虐殺による土地の収奪と黒人の大量拉致による奴隷貿易は、どちらもアメリカ発展の原動力であり、どちらもアメリカの黒歴史です。しかも、それらは今なお清算されてはいません。

彼らマイノリティの歴史を、近代以前から自国史の射程に加えるためには、これまで見なくてすんだアメリカという国家の原罪をつまびらかにすることになります。

新シャカイ系は、原罪が隠されたアメリカの姿をシャカイと捉えたのですが、新シャカイ系とは別の解釈で、初期のシャカイ系の構造をそのまま現実に持ち込んだ集団もあったのではないかと思っています。

私は、それがQアノンだったのではないかと思っています。



■Qアノンはシャカイ系の鬼子

「自分が存在している世界がフェイクであることに気づき、その謎を解き、真の世界に脱出ないしは本来あるべき世界を構築」するというのが、シャカイ系の物語構造でした。

それを、新シャカイ系のように、抑圧されてきたマイノリティの視座の回復の方向に向けるのではなく、社会の多様性を主張する人々の存在をシャカイと見なしてしまったのがQアノンだったのではないかと私は思っています。

Qアノンの支持者は、世界はディープステート=カバールと呼ばれる、小児性愛と誘拐してきた幼児の生贄の儀式で繫がったエリートたちの秘密組織によるコントロール下にあり、マスコミはその指示のもとに支配層に都合のよい情報しか報道していない、トランプはカバールから世界を解放する救世主であるといったことを陰謀論的にピュアに信じている熱狂的トランプ支持者なのですが、なぜか、米国の選挙権の無い日本にも、Qアノンの熱烈な支持者たちが少なからず存在しています(Jアノンと呼ばれています)。

私の旧知の友人も、理性的な人物だったのにJアノンになってしまいました。彼は、熱烈にトランプを支持していますが、それは、在任中に大きな戦争を起こさなかったからとか、対中国政策を支持するからといったような理由からではないのです。
彼のトランプ支持理由は、それがディープステートから世界を救うために闘うことになるからだそうです。
彼は、ある時から私にも、YouTubeやらネットやらの情報を山ほど示して、向こう側の人間になるなと忠告してくるようになりました。

古き良きアメリカが失われていくことに対する哀しみや、一部超富裕層が固定化されてしまった不平等な社会に対する憤りや反発はわかります。けれども、そういったアメリカの現実に対する反発に共鳴することと、おぞましい儀式で結ばれた闇の組織の陰謀を信じることとは別だと言っても全く聞く耳を持ちません。

私が、トランプもバイデンも同じアメリカ人ではないか、どちらも是々非々で考えたいなどと言おうものなら、ああもう洗脳されているのか…と悲しい顔をする始末です。BLMに共鳴することは、ディープステートの陰謀にはまることだとの注意も受けました。たとえそうだとしても、やらぬ善よりやる偽善だと思うので聞き流しましたが…。

現実の社会/世界は、虚実入り交じっていて、目に入るもの耳に入るものがまるっとフェイクであるということはありえません。

私も世界に陰謀はあると思っていますが、陰謀とは、他者を軽視するタイプの自己愛がいくつか共鳴して、生き物のように人間関係に影響する動的な人間関係のメカニズムであり、企業をはじめどこの集団にも何かしらあるものだと思っています。また、各種の不正もあるでしょう。
でも、とてつもない規模の巨悪や不正があるかもしれないことと、それがひとつの集団として上意下達の指揮命令系統を持ち、各国の企業行動まで意のままであることとはまったく別のことです。まして、トランプ支持者だけが真実の理解者なのだと信じるに至っては、その盲目的な信頼の根拠は何?と思ってしまいます。

陰謀論者のように、倒すべき単一の巨悪な陰謀集合体が存在すると考えるのは、逆に陰謀を作り出す人間という複雑な存在を甘く見ているのではないかと思っています。

Qアノンのように、陰謀を一手に引き受けるディープステート(闇の政府)と闘う構図を想定するのは、一神教的発想の裏返しとしての唯一悪信仰だと言えます。
それは、Qアノン信者やJアノンな人々が、ディープステートは悪魔信仰集団だと指摘していることからも明らかです。彼/彼女らの考える悪魔は、一糸乱れぬ価値体系のもとに悪さをはたらく存在です。
実際の世界は実に多神教的だと思うんですけどね。一神教的に見るクセがついちゃってるのかなあ。

それに、悪を単純に一元化してしまう発想はカルト的で、クリスチャンにしてもムスリムにしても、そのような発想の人に私は会ったことはありません(ムスリムの方は旅行先とか著作やネット上でしか知りませんが、たぶん実際に会っても印象は変わらない気がします)。

QアノンやJアノンな彼/彼女らのように、マスコミは全部フェイクだという認知の行く先は、自分と同調しない者はすべて敵になってしまうため、暴力革命に行き着いてしまいます。映画やドラマだとその方がアクション満載になって面白いんですけど、現実にそれをやられると困ります。

フェイク/真実の二元論者は、世の中を良くしていこうという思いが強くても、原理的に、世の中の悪いところを少しづつ直していこうという漸進的改革論者と連携することができません
自家用車の調子が悪くなったときに、意中の新車に魅了されて、最初から新車と暮らす未来しかアタマに無ければ、直して使おうという意見に耳を貸すことはないのと同じです。しかも現実の社会は、新車ほど簡単には乗り換えられません。

実際には、社会は少しずつ改善されていっても、長年のうちにはまるきり違う姿になるので、二元論的に漸進的改革を否定する必要はないんですけどね(中谷宇吉郎が、生物を題材にしたとても示唆的なエッセイを書いています)。
その意味で、革命指向であれば、左派も右派も同根ですし、トランプを支持するにしても、資本主義に反対するにしても、二元論的な世界観を手放しても可能だと思うのですが、二元論は魅力的なんでしょうねえ…。



■新シャカイ系としての『古事記』

さて、ようやく『古事記』の話題です(お待たせしました)。

先ほど、新シャカイ系が生まれた背景として、

国家史を捉え直すという営みは、過去に対する認識を変えることによって、過去の延長線上にある現在と未来を変えてしまおうという行為であり、未来に向かって新しい国家像を打ち立てようとする試みです。

と書きましたが、

これがそのまま『古事記』と『日本書紀』の編纂動機にもあてはまることは、日本史の授業が教えるところかと思います(たぶん)。 

『古事記』が完成したのは712年、『日本書紀』が完成したのは720年ですが、そのころ、つまり7世紀中~8世紀初頭の東アジアは、政治的動乱のまっただ中でした。

7世紀の中頃、日本列島の隣の朝鮮半島は三国時代でした。南西部には百済が、北部には高句麗が、南東部には新羅が鼎立し、日本(倭)と友好関係にあった百済は、新羅に対して軍事的に優位にありましたが、新羅の援軍要請を受けた唐の大軍によって660年に滅亡します。

百済の残党は、国家復興を図り、日本(倭)はそれを全面的に支援します。ですが、百済・日本(倭)連合軍は、663年に白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗を喫します。これで百済は完全に滅亡し、日本(倭)は唐・新羅と軍事的緊張が続くことになります。

唐・新羅連合は、668年に北部の高句麗を滅亡させ、その後は、朝鮮半島を統一したい新羅と、半島を勢力下に置きたい唐との間に軋轢(あつれき)が生じます。676年に新羅は唐の勢力を半島から駆逐して朝鮮半島統一を成し遂げます。

このような時代背景下で、日本(倭)も、それまでの各地の豪族によるいわば首長国連合的な政治体制から、律令制による中央集権体制に転換し、国号を「日本」とします(701年)。

その日本国の、最初の国史が『日本書紀』です。

それゆえ『日本書紀』は、歴史の記述に重きを置いており、歴史以前の時代描写である世界の始まりについての記述は、漢籍(中国の古典)の切り貼りにすぎません。世界の創世神話を他国から借りてきてでも、律令国家たる日本の歴史を未来に向かって記述したいという強い意志を『日本書紀』からは感じます。

これに対し、『古事記』の神代の記述は豊潤です。『日本書紀』の神話記述が、「一書に曰く」を多数併記していることから、また、倭が首長国連合的な性格を持っていたことから、古代神話も複数のバリエーションがあったのですが、『古事記』の神話は統一されたもので、記述に迷いがありません。記述のボリュームも、『日本書紀』では神代の記述が全30巻中2巻に過ぎないのに対し、『古事記』は上中下全3巻中の上巻がまるまる神代の記述にあてられています。

古い時代の国家の耐用年数が過ぎようとしている時に、過去に対する認識を変え、未来に向かって新しい国家像を打ち立てようとしている点で、『古事記』は、新シャカイ系と同様の立ち位置に立っている書物と言えます。

新シャカイ系の視座から見れば、『古事記』がシャカイ(=偽りの国家像)と見ているのは、律令国家に他ありません。

★マニアック注釈(読み飛ばし可能です♪)★
成立年代が早い『古事記』が、遅い『日本書紀』に対抗して編纂された可能性があることは、国文学会でも主流の認識となっています。
完成は『日本書紀』が後ですが、構想は先であった可能性があり、また、『古事記』編纂が命じられた時の朝廷は、既に当時の東アジアのトレンドである律令国家への歩みを進めていたからです。

「日本文学史は、はじめに日本書紀・懐風藻のような中国文学的な発想があり、次いでそれによって失われたとみなされた共感(感情)の共同性を想像的に回復しようとしたところに『古事記』・『万葉集』誕生のモチーフがある」と古代文学会の重鎮の一人である呉氏が指摘するとおりです(呉哲男「国文学/国学批判――西郷信綱の「読み」をめぐって――」(1997年)『日本文学 46巻1号』p.16)。

私は、『古事記』の提唱する国家像は、懐古的なものではなく、来たるべき律令国家によって引き起こされるマイナスの事態を予測し、超克するための青写真を提供したものと認識しています。その青写真は、神世七代によって示されているというのが、私の考えです。


■未遂の国家像

『古事記』と『日本書紀』は、新しい時代の国家像において、また、過去への態度において、根本的な対立を内包していました。

結果として、時代が選んだのは、『日本書紀』の国家像でした。『古事記』が構想した「ク二」は、これまで日本で実現されることはありませんでした。

それが、近代の終焉とともに、近代国家の消費期限が切れかかったタイミングで、未遂だった『古事記』の国家像が、解凍されようとしています。というか、解凍しようというのが私のもくろみです(笑)。

新シャカイ系が生まれた背景には、近代という時代の終わりがありました。賞味期限の切れかけたこれまでの国家の概念に代わる、新しい国のかたちのビジョンを提示することが、新シャカイ系の意図せざる(あるいは意図された)ミッションです。

アメリカが新シャカイ系を必要としたように、今の日本にも新シャカイ系が必要です。しかし、セカイ系が席巻する今の日本の文化的土壌には、世界と人々との間の中間項を立て直す足掛かりがありません。

日本は、明治維新以降、いや江戸幕府の成立以降、「世界」が「世間」と同義語となり、「社会」を見る視点がなくなってしまったのだと思います。
個々人に、特定のプラットフォームの上で喜怒哀楽を演じさせられているという意識がまるでないという意味では、日本は江戸時代以来ずっとセカイ系だったのです。

『古事記』には、高天原の世界があり、国生みによってできた「ク二」があります。人々は「ク二」に暮らしていますが、人々は高天原とは直結できません。「身を隠し」というのは、高天原の根本の神々による人との直結の拒否であり、そのことによって『古事記』はセカイ系になることから逃れています

『古事記』の「ク二」は、神世七代によって具体性を帯びて提示されます。それが、近代を終えようとしているこれからの日本に参考になるものなのかどうなのか、まずは神世七代を読み解くことから始めて見たいと思います。

つづく。次回は、別天つ神ことあまつかみの物語の総集編です。)

読んで何かしら気に入ったらスキをポチッとしてもらえると嬉しいです。↓ 
May the force be with you!

※タイトル写真は、SatyabratasmによるUnsplashからの画像
ver.1.1 minor updated at 2/17/2021(Qアノンについて少しだけ加筆)
ver.1.2 minor updated at 2/17/2021(Jアノンについて加筆)
ver.1.3 minor updated at 2/19/2021(日本語としておかしい箇所を修正)
ver.1.4 minor updated at 2/22/2021(セカイ系について説明不足を加筆)
ver.1.41 minor updated at 2/23/2021(「西欧的な悪魔」→「彼/彼女らの考える悪魔」に修正)
ver.1.5 minor updated at 2/25/2021(新シャカイ系の事例に「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」を追加し、他作品含め配信媒体を表記した)
ver.1.6 minor updated at 3/4/2021(目次を設定)
ver.1.61 minor updated at 3/7/2021(誤植を修正)
ver.1.7 minor updated at 3/10/2021(本稿を連載ではなく単独で読まれる方にもわかりやすいように、『日本書紀』の説明を少しだけ追加。「神代の冒頭部分の記述は」 → 「歴史以前の時代描写である世界の始まりについての記述は」 また、神代の記述のボリューム差について追加した。)
ver.1.71 minor updated at 2021/7/31(項番を⑯→⑰に採番し直し)
ver.1.72 minor updated at 2021/12/28(ルビ機能を適用しました)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?