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『崖の上のポニョ』(2008年)のソースケはどんな大人になったろう【ネタバレほぼ無し】

■Web3とポニョ

先日(ロシアのウクライナ侵攻直前の話しです)、仕事後の雑談でWeb3の話題が出て、その流れで『崖の上のポニョ』の話しになりました。

Web3というのは、ブロックチェーン技術をベースにした非中央集権型のWebシステムだと解説されることもありますが、今のところ実体はイーサリウムのエコシステムです。

イーサリウムというのは、乱暴に言えばビットコインのような仮想通貨イーサと契約履行スキームなどが組み合わさったものです。
エコシステムというのは、あるシステムや商品に依存するように創られている複数の企業による商品やサービスの体系(生態系)という意味です。

ゆえに、真面目に取り組んでいる人よりイーサリウムバブルで一儲けしたい人の盛り上がりばかりが目立っていて、インターネット創生期からのWeb周りの技術屋サイドはいたって冷ややかな人が多い。だから、いまWeb3を知らない人は、そういう環境の人(知らなくても日常が送れている人)なわけだから、今のところ知らないままでも支障ないよね、みたいな雑談でした。


この雑談がウクライナ侵攻後だったら、SWIFTから閉め出されたロシアが云々みたいな生々しい話の展開になってたと思うので、タイミングって重要ですね。

ただこの雑談で、Web3.0じゃなくてWeb3という呼び方が一般的になったのは、Web2.0のバージョンアップじゃないぞという集団無意識が働いてるんじゃないのかという与太話がわりと盛り上がって、その流れで『崖の上のポニョ』の話しになりました。

★マニアック注釈(読み飛ばし可能です♪)★
 今のWeb3は、イーサリアムの開発者の一人であるギャビン・ウッド氏のBlog記事「ĐApps: What Web 3.0 Looks Like」(2014年)がもともとなのでWeb3.0表記がオリジナルです。
 それに先立つ2006〜2008年ごろに、WWWを開発したティム・バーナーズ=リー氏が提唱したセマンティックWeb(メタデータによってコンピュータが意味を解釈して実行するようになっているWebのこと)が、Web3.0の中心技術だとして、いっとき盛り上がっていた記憶がありましたので、私はそれと区別するためにWeb3に呼び方を変えたのかと思ってました。
 実際は、イーサリアムのデータを扱うためのライブラリの名前が web3.js なので、Web3と呼ばれるようになったという説が有力なようです。

実際、ティム・バーナーズ=リー氏のWeb3.0と違って、Web3はWeb2.0を置き換えていくものではありません。

魚類をセキツイ動物1.0とすると、哺乳類はセキツイ動物4.0ではなくセキツイ動物4になるのと同様の意味では、Web3はWeb3.0ではないのです(私はこれをバージョンアップ型進化モデルとエコロジー型進化モデルと呼んでいます)。

ただ、置き換え型のバージョンアップってワクワクしますよね。自動車やiPhoneの新型は、そのワクワクで商売していると言っても過言ではないかと思います。

こうしたモノの世代交代と違って、揉め事のタネになりがちなのがヒトの世代交代です。ヒトの世代交代がバージョンアップ型置き換えモデルで考えられているために、旧世代は新世代を脅威に思うわけです。

親子の対立も、たいていの場合、親が自分の代替物として子どもを考えてしまうために生じてしまうわけで、自分が叶えられなかった夢を子どもに託してしまったがために、夢が呪いになってしまう子育ては典型かと思います。

でも子どもは親2.0ではないわけで、親2な存在として考えることができれば、子どもは解放されるよなあ。あれっ?ポニョってそういうことかも!
という連想がおきたのでした。そして、それは社会が急変動している今の時代に必要なことかもしれないと思いました。

考えて見れば『崖の上のポニョ』は、2008年の公開作品なので、主要登場人物のソースケ5歳は、去年18歳でもう成人しています。ソースケの成人を記念して、振り返るのにはいいタイミングです。


■ソースケはなぜ親を呼び捨てにするのか

『崖の上のポニョ』には、私の記憶に刺さるフックがあり、その一つは、よわい5歳のソースケが、母ちゃんをリサと呼び、父ちゃんをコーイチとファーストネームで呼ぶという設定でした。

この設定には、意外と重要な狙いがあるのではないでしょうか。

説明します。

ポニョの両親が人間圏を守るためにソースケに求めたことは、ポニョを愛することでした。
そして、その課した愛の深さは、5歳の子供が「ポニョ好き」「ソースケくん好き」と保育園で戯れるレベルでは決してありません(そうでなければ人間圏を守るというミッションとつりあいがとれない)。

でも、5歳の子供が、大人の愛の意味を知っているでしょうか? 

直接的にはもちろん否ですが、間接的には可能性があります。それは、愛し合う二人が身近にいる環境にある場合です。

通常、父と母は愛し合っています(だから子供がいる)。しかし、オールドスタイルの日本の家庭においては、父と母の恋愛関係は、まさに「父」と「母」という一つの役しか許容しないことによって隠蔽されています。

父と母は主体的に父と母のみを演じることによって、子供に子供以外の役柄を許しません。それは、エディプスコンプレックスや父殺し(比喩的な意味での)や母殺し(比喩的な意味での)を誘発します。

崖の上にあるソースケの家は、それとは真逆の構造にあります。
リサとコーイチは、子供の前でも恋人のように名前ファーストネームで呼び合い、どころか、子供に父や母と呼ばせることを許容していません。
子供の役柄に逃げ込むことを許されていない子供、それがソースケなのです。

結果、ソースケは5歳という生物学的な年齢において可能な限り自立した個人として振る舞うことを運命づけられます。そんなソースケが「ポニョが好き」というとき、精神的には親の互いに愛する姿が投影されているはずなのです。

つまり、設定的に(愛を引き受ける存在として)、ソースケは両親をファーストネームで呼ぶような環境に育った男の子である必然性があったのです。

子供は、子供として扱われることによって、庇護されることの代償に主体としての可能性の解放を延期されます。恐らく、宮崎駿監督は、その時間を惜しいと思ったのではないでしょうか。

社会なり地球なりの規模の危機が荒波のように破壊的に繰り返し起こる現代において、これを打開するには、一人一人が知恵を絞って生きていくことが求められます。

モラトリアムとしての子供などという悠長な文化装置は、今の時代には捨てなければならない。宮崎監督は、恐らくそう判断したのだと思います。もっと言えば、儒教社会的なる日本そのものを彼は、全速力で壊したかったのではないでしょうか。

儒教的社会の日本では、集団は疑似家族となります。幼稚園の年長組は小学校一年生になると再び末弟として幼く振る舞うことを求められ、それは中学、高校、大学のクラブ、さらには多くの日本企業の新入社員まで繰り返されます…。

当時、この映画を劇場で見た帰り、ソースケのように親を呼び捨てにしようと試みた子どもたちがいたかと思います。

そして多くの場合、子どもたちは、親を呼び捨てにするやいなや、映画館を出た直後に見た親の笑顔とは打って変わった怒りの形相に触れたことでしょう。幾人かの子供たちは、それを疑問に思い、家族の虚構に気づいたはずです。そのときは言葉でうまく言い表せなくても、心は確実にその裂け目を感知したはずだからです。子供はそうして親に気づかずにソースケとなっていったはずでしょう。令和4年、大人になったソースケは、もうポニョに出会っているかもしれません(新型コロナ禍で出会いの機会が少ないことをどうか乗り越えて欲しい)。そんなソースケは、もう、儒教的な家庭を作ることはないでしょう。

なんてね。

ポニョの劇場公開から15年近くが経ち、儒教的という言葉も死語になりつつあるように思います。
一方で、今にして思えば、儒教的という言葉が表していた、個人より家や組織、年長者は上、上意下達といった価値観は、ヒトをバージョンアップ型置き換えモデルとして見る見方のアジア版バリエーションに過ぎなかったのかなという思いがあります。
古今東西の権力者は、権力であり続けようとし、結果、腐敗するわけですが、権力にしがみつく動機は、自らが中心として在る世界が置き換えられてしまうことへの恐怖なわけですから。
諸悪の根元は、自らが中心として在る世界への囚われ(ユニバースへの囚われ)なのだと思います。

当時の幼稚園生で映画館で一緒に本作を観た我が息子は、親をお父さんお母さんと呼ぶようには育ちませんでした。ファーストネームでも呼びません。彼が勝手に作ったあだ名でのみ呼びます。それは、まだまだ儒教的な日本の社会とポニョのメッセージとの彼なりの折り合いだったのかもしれないと、親バカの私は、1%ほど思っています。

さて、話しはこれで終わりません。

宮崎監督の仕掛けた未来への贈り物は、もう一つあったように思います。


■マルチバースな親は子に夢の呪いをかけない

『崖の上のポニョ』には、私の記憶に刺さるフックがもう1つありました。それは、ポニョの両親の絵柄です。

ジブリ作品は、どれも誰が見てもジブリっぽい絵で描かれていて、映画を観る者に「ああ、ジブリの映画を観ているんだな」という安心感を抱かせます。ところが、『崖の上のポニョ』には2つだけ例外があります。ポニョのお父さんとお母さんの絵柄がジブリっぽくないのです。

ポニョのお父さんのキャラクターデザインは、手塚アニメっぽい。劇場公開される子ども映画は、必然的に付き添いの親も観ることになります。幼稚園児の親だった当時の私は、往年の「24時間テレビ 愛は地球を救う」の手塚アニメキャラになんか似ているなーと思ってスクリーンを観ていました。

ほどなくして、ポニョのお母さんが現れます。今度はなんとディズニータッチです。

なんじゃこれ?と思って見ていると、しばらくして、ポニョがトトロみたいな表情をするシーンにでくわしました。ということは、ポニョは全ジブリを(絵柄で)代表させていて、つまり、宮崎駿は、俺は手塚とディズニーの後継者だと敢えて大画面で言いたいわけ?と思ってドン引きしてしまった記憶があります。

でも、今は別の解釈です。

ポニョは親子関係の物語でもあります。そして、作品を観るのも親子です。

そこで、父と母と子の絵柄が違うのは、父と母と子は、それぞれ違う世界を生きていることを表象しているのではないかと思い至りました。

一つの世界に多様な価値観があるというのが、ユニバーサルな世界観です(ユニは一つを意味し、一つの宇宙だからユニバース)。

それに対して、世界は人の数だけあり、それどころかポニョとか動物とか虫とか妖怪とか人でないものの世界もあり、それら複数の世界が多重化されているというのがマルチバースな世界観です。

別世界はパラレルワールドとして平行世界として存在するのではなく、そもそも多様な環世界がクロスして相互作用的に世界ができているというわけです。これは、人類学で言うところの存在論的転回オントロジカル・ターン以降の世界観です。

スパイダーマンが、そしてマーベルユニバースが、作品を通して表現した世界観を、15年ほど前にキャラクターデザインによってパッと表現してしまったのが、『崖の上のポニョ』なんじゃないかと思っています。

何のために?

宮台真司教授の言葉を借りると、加速主義のために。

加速主義というのは、世界を加速させて、行くところまで行かないと、次の段階に進めない、だから世界を加速させるという主義です。

しかも、加速は速度が変わっていくことですから、定常ではありません。加速する社会は、不確実に決まっています。それを主義として志向するのですから、加速主義者は不確実な社会で生きる処方箋を持っていなければなりません。

ここからは私の類推ですが、加速された世界では、大人と子どもにこだわるのは得策ではありません。世界の再建を次世代に任せるという世代交代的な発想は先送りの発想であり、子どもの負担が大きすぎます。つまり失敗可能性が高い。それに、加速された世界は、加速された先にのみ意義があるのではなく、加速されている社会の状態を経由することにも意義があるはずです。

多世界的な世界観なら、世界の一つ一つは等価なので、世代交代を待たずに時間を超えて人は助け合うことができます。大人の知識の経験と子どもの無知(テネット的無知は力)と生命力とが、オーバーレイで力を発揮できるのです。

子(次世代)は親(当代)に代わって支配的になる必要はありません。そもそも親の世界と子の世界は環世界的に別な世界なんだから、一つの同じ世界に生きていることを前提とした世代交代はヒトの浅知恵であり、マルチバース的に生きるのが自然界の姿なのです。

ソースケと、人間圏を守るためにポニョを愛することをソースケに求めたポニョの両親との三者三様の絵柄は、儒教的世界像の代わりにマルチバースな世界を観ている宮崎監督の視座の現れなのではないでしょうか。

Web3.0よりWeb3と呼ばれることが多いのは、世の中がバージョンアップ型置き換えモデルからエコロジー型進化モデルに変わってきたからなんじゃないのかなという雑談からの脱線で『崖の上のポニョ』が飛び出てきたのですが、Web3がメタバースでNFTで一儲け的なムーブメントからもしもマルチバース的な生き方の入り口になるようなテクノロジーに脱皮できたとき、見たいものしか見ないというSNS的な、ユニバーサルへの囚われから人々は解放され、Web3は再びWeb3.0と呼ばれるようになるのかもしれません。

cinemascape に劇場公開時に別ペンネームで投稿した記事をベースにしています。

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