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固定概念って苦しいね。人も自分も苦しくなるから、もうやめようと思う。

今日は固定概念をみつけたお話。

固定概念はストレスを生む。固定概念を作った側にも、そして、それを植え付けられた側にも。

苦しいから、もうやめようと思う。




決めつけや概念で物事をみると、互いに苦しくなっていく。

だけど、本当に注意していないと、24時間ずっと100%の固定概念で物事を見ている自分がいる。

うちの子どもたちは、夜遅くまで起きているのが割と平気な人たちだ。しかも、私以外、前もって準備するということをしない人たちだったりなんかする。自分を律するということを後回しにして、だらだらと快楽にふける・・・ように私には見える。

なんだか楽しそうでいいねと思うのだけど、宿題を寝る間際にやるものだから、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃで、イライラしててすごくうるさい。

そんなとき、私はすっごく腹が立つ。

YouTubeを見ようが、友達とLINEをやろうが、一向に構わない。だけど、やることをやってから見やがれ!と思うのだ。

しかも調子がいいので、自分はこんなに宿題があるんだから、今日の家の仕事はママに頼みたい、とおねだりしてくる。(我が家では、ひとりひとつお役目がある。犬にも。)で、私が代わりにやったとしても、その間、宿題をするわけでもなく、だらだらしているだけ。

これで腹の立たない人は、この世の中いないのではないだろうか。

昨日は、むかむかしたままお風呂に入った。

いかん! ストレス!

で、心の中を覗く。

私のむかむかをただただ感じる。

人間、集中して同じことをするって難しいので、同じ感情を維持するのにも、相当な体力と忍耐力を使う。で、私は忍耐力なんてとんとないので、すぐ、「こんなことで怒ってるんだぁ。笑う〜。」って思ってしまい、そこで終了。

リラックスすると面白いもので、その後手にした本に、

「木は、本当は木じゃない。命だ。これは木だ、という固定概念で見ないほうがいい。」

というフレーズが目に入った。

そうかも。

私は固定概念を通して、家族を見ていた。というか、たった今も、そう見てしまう。

「この人はこういう人。」という形で。

これじゃあいかんね。

人って、潜在的にいろいろな人たちと繋がっていて、人からどう見られているか感知している。

だから「君はこういう人だね」と言われなくても、ここではこう振る舞わないといけない、と思ってしまう傾向がある。特に子どもは。

やんちゃな子はよりやんちゃに。落ち着きのない子はより落ち着きなく。そして、おとなしい子はよりおとなしく。頭のいい子はより頭よく。といった具合に。

本人がそんなの嫌! 自分はもっとこうしたいんだ!と思っていたとしても、なぜかそんな流れになってしまい、自分を変化させたいという挑戦ができなくなってしまう。

そんなことを知らない周りの人たちは、やんちゃだから運動をやらせよう、おとなしいから読書とか家の中でやることが好きなんだろう、と勝手に判断して、それらを与える。

私も固定概念の元、こいつらはギリギリにならないと動かない!(怒)と決めつけ、勝手にイライラしていたのかもしれない。本当は、本人も、今回は早めにやろうと決めていたのかもしれないのに、私の中には、どうせギリギリにならないとやらないんでしょ、と凝り固まった見方しかできていないのだ。

ということで、物質的で物理的なものとしてみるのではなく、ひとりの人間の外的要素=その人そのもの、という固定概念で見るのでもなく、内的な・・・エネルギー的なものを見てみようかなって思った。

自分の子どもにこういう客観性を持ってみるって、結構至難の業だと思うけど、でも、完璧にできなくてもいいから、ちょっとだけ心がけてみようと思う。


これが私の目標。



そして、自分もきっと固定概念で見られてる。でもそれは私じゃない。私を含め、全ての人が変われるという大きな可能性を秘めている。だから、気にしない。変化を怖がらず、なってみたい自分になってみようと思う。

そうだよ。

ちょこっとの勇気を出してみようと思う。

よし! 明日から。

いや、今からだっ!


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