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77年 クリスチャン新聞編集部・毎週大型紙面の格闘

1967年創刊され、一般紙と同じ大きさ・ブランケット版15段組で毎週、発行されていたクリスチャン新聞(いのちのことば社の一部門でもある)。

わたくし、クリ時旅人が勤めていた時代(1985~2000年)も、ブランケット版15段組であった(現在は半分のタブロイド判)。

私が勤めていた85年当時はすでに、鉛の活字は廃され、写植(写真植字)での製作になっていた。
金曜は、編集部は廣済堂新聞印刷社に出向いて作業に当たる(この辺の曜日ごとの動きは、創業以来変わらないものだった)。印画紙に、記事が一段ごと(だから横に細長い)や、写真が印字されたものを廣済堂が出してくる。
その印画紙を、廣済堂の職人が大きな台の上で、あらかじめこちらが提出した大きな「割り付け用紙」のレイアウトに合うようにカッターナイフで切り、それを、専用の機器(小さなローラーの間を通すと印画紙の裏に糊=のり=が塗られる)に通してから、実物大の厚紙の台紙に貼り並べていく。

クリスチャン新聞の紙面担当者(私を含め)は、その「大組」担当の職人の横に立って、指示を出したり質問(「これじゃ、(行数が)収まらねえぞ」とか「レイアウトが(ルール違反で)おかしいんじゃねえか」とか)に答えたりして、思い通りに紙面レイアウトに仕上げる。
変更を加えるのも必ず職人さんにやってもらわねばならず、年季の入った職人さん相手に若造の私にはなかなか厳しい修行の場であった。

廣済堂は、100紙にわたるさまざまな機関紙の印刷を引き受けており、広いフロアーを衝い立てで区切って、各社のスペースとし、そこで校正などの作業に当たる。
隣の機関紙さんのスペースからはもうもうと煙草の煙が立ちこめ、クリスチャン新聞の我々も、紙面の内容を巡って激しい議論が勃発するなどなかなか「男の世界」という風情だった。

現在は、各記者、編集者のパソコンの中で、DTPで紙面が作れてしまう(その「データ」を廣済堂新聞印刷に渡す)のだから隔世の感だ。

さて1977年5月1日号は、「クリスチャン新聞10周年」記念号として構成されているが、その中に、「クリスチャン新聞ができるまで」という、のどかなイラスト入りのコーナーがあった。(このNOTE記事の一番下に、クリスチャン新聞該当記事のスクラップが貼ってある)

編集部イラスト

その記事はまず、「もし、あなたがクリスチャン新聞は一般紙に比べれば仕事が楽なはず、だなんて思っていらっしゃるんなら、これは大問題!」とユーモアを込めながらも鋭い「大変な仕事なんだぜ」宣言を放っている。のどかなイラストは「いかにも大変」と読者に感じさせない、あるいは読者との「距離の近さ」を感じてもらう工夫なのだろうか?

「私たちが記事を書いて構成していく紙面そのものの大きさは一般紙のものと同じもの。ということは印刷工程の手間そのものは全く同じ条件」と指摘。
「その上、限られたスタッフ、限られた予算。大新聞の記者のように社旗を立てた黒塗りのハイヤーに専属カメラマンを引き連れて取材をするわけにはいきません」と、ある意味、一般紙より大変なんですよと読者の理解を柔らかく求めている(何より続けて購読して読んでくださいってことですね)。

4人の編集スタッフで、月から木曜は出向いたり電話でも取材。当然カメラマンも兼ねる。編集室では、記事を書き(当時は原稿用紙のマス目を埋めていたんだ! 私も入職して最初のころはそうだった! 最後の頃は、「ワープロ」という機械を買って、それで原稿を書くようになったが)、レイアウト、見出し付け、イラスト、校正など何でもこなし、担当の面を仕上げるところまでこなすことを記している。私が勤めていた頃と同じ状況だ。

「これをだいたい木曜から金曜日にかけて仕上げます。締め切りがまず金曜の午後10時に第1回。午後4時には最終」(そうだったそうだった、時間は忘れたが私の勤めていた時代も、誰かが廣済堂にまとめて持って行ったり、先方の担当者が取りに来たりしていたものだ)

続けて、その「最終」を「越えた」状況を記す。「多くの場合、翌日の新聞印刷日でである土曜日の朝にすれすれで数百行の残り原稿が出て完了(これは、我々の頃はなかった。金曜のうちにかたをつけていた)。
「これは『朝出し』と呼ばれ、印刷所の方から『ダメだよ!クリスチャン(新聞)さん!』と大変怒られます(大の大人が怒られるんだw!)。だが、強靱なスタッフの神経は、これに震え上がることを知らないのです」。

なにげなく、「強靱なスタッフの神経」という言葉を読んでいて、それは印刷所対応のみならず、あらゆる点で言えることなんだよ、と言外に言っているように感じた。それは我々の頃もそうだったから。

しかし、そういう脆弱な週刊新聞作成体制ではあるが、全国・週刊紙として、また直接の取材を通し、大事な問題について伝え、論説を表明し、そのことによって日本社会において現実に実現して、今日に至っているものごとも多くなることを指摘しておきたい。
クリスチャン新聞は、日本社会において、キリスト教界において無くてはならない役割を果たしたメディアだったのである。
そのことの証明として、下記の記事を例として挙げておきます。クリックしてお読み下さい。

「1977年にキングス・ガーデンの夢 初めて語られる」(その運営は災害対策、行政の前例をくつがえす利用者本意の、安全な場所に移転再建するといった実績を生み出すものになったというような内容を記している)

https://note.com/chr_tokitabibito/n/nd350eecc3ffe

さて、我々の時代と、この77年時点の決定的な違いが記されている。土曜日に、鉛の活字で紙面を作って行くくだりだ。

クリスチャン新聞記事でははしょっているが、廣済堂の方でまず「文選(ぶんせん)」という作業をやっている(「植字」すなわち、ブランケットサイズにレイアウトする作業は、その文選されてあるのを使って後ほど行う)。
それは、縦に4畳ほどのスペースに活字がぎっしりと並んだ活字棚から、文選職人が、記者の書いた手書きの原稿用紙に従って、1本、1本活字を拾うのである。その段階で記事ごとに刷られたものが、各紙への受け渡し用の棚に出てくるので、それをクリスチャン新聞ならクリスチャン新聞の者が、一緒に戻って来た原稿と照らし合わせつつ校正するというプロセスが入る。

(新聞ではなく単行本だが、文選のプロセスを解説するYoutubeがあった)▼

我々の時代には、文選というプロセスが「なくなって」いたわけで、しかし、そのなごりが残っていて、大組する前の、記事ごとの刷ったものや、見出しだけ刷ったもの(と言っても、当時は写植で出てきたのをコピーしているわけだ)を校正するプロセスがあったような気がする。

そして、鉛の活字の時代には、植字(すなわち、新聞の場合「大組」)の段階で記者(イコール編集者)が、植字職人の横に立ち会って、あらかじめ自分が作っておいた「割り付け用紙」に従って、あの大きな紙面を作り上げていったわけだ。
それは私自身は経験したことのない世界で、どんな風であったのか想像もつかない。だって文選してある活字を1本1本(とはいえおそらく何行かまとめて移すのだろうが)、新聞大のスペースに「植」字していくんですよ! もちろん15段組みになるように、段と段の間にスペースを空けながらだ。縦に罫線も入ってくる。段間や周囲の「空白」の部分にも「インテル」とか「クワタ」と呼ばれる鉛製の「詰め物」をぎっしり詰め込むわけだ。

77年、クリスチャン新聞編集者立ち会いの下、廣済堂新聞印刷の植字職人が大組を行うさま

同じく「植字」についてのYoutube▼

このように、記者・編集スタッフの、印刷にまつわる作業だけでもなかなか大変なことであった。
1990年代、写植の時代でも大変だったわけだが、鉛の活字で新聞紙面を作っていた時代があるなんて信じがたい思いがするほどである。


クリスチャン新聞1977年5月1日号


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