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#ちょろけんの映画 魔王の頭痛―『イル・ディーヴォ 魔王と呼ばれた男』

(ヘッダー画像出典=https://www.npcmagazine.it/il-divo-sorrentino/

 先日『イル・ディーヴォ 魔王と呼ばれた男』という映画を観た。イタリア政界の実力者であった、ジュリオ・アンドレオッティを主人公とした映画である。この映画を観るのは二度目となるが、新しい発見があったので感想文を書いてみることにする。

 イタリアの1970年代は、「鉛の時代」と呼ばれる。この時代にはイタリア全土で「大規模爆発事件、虐殺、暗殺、誘拐、終わりなき政治的武装衝突が繰り返され」た。普通の学生も銃を手にし、警官と撃ち合う。一般市民までもがテロの犠牲となる。そんな暴力と狂気に満ちた時代であった。「鉛の時代」という言葉には、鉛でできた銃弾が飛び交う時代という意味と、鉛色のような時代という意味が込められている。

 なかでも1978年には元首相のアルド・モーロの誘拐事件が起きている。共産党との対話の旗振り役であったモーロは、極左テロリスト「赤い旅団」に誘拐され、55日にわたり監禁された末に遺体で発見された。この事件を題材とした映画に、『夜よ、こんにちは』や『夜のロケーション』がある。

 このような暴力の嵐は過激派が引き起こしたものではなく、情報機関やマフィアが糸を引いていたのではないかと疑う声が根強い。真実は闇の中であるが、イタリア人は何十年が経った今でも「鉛の時代」を問い直している。本作にも問題提起の意味があると考えてよいだろう。

 本作の主人公は、ジュリオ・アンドレオッティという政治家である。彼は政界の実力者で首相や大臣を歴任した。しかし、90年代に入ると「鉛の時代」に起こった事件との関与が疑われ、起訴されたものの裁判では無罪となっている。その後も終身上院議員として活動を続け、2013年に死去している。

 本作では、アンドレオッティの栄光と、検察の捜査により次第に明らかになる彼の本性とを描く。映像はまるで絵画のようで、音楽はスタイリッシュである。彼の伝記というよりも、事実を基に再構築したものと見るべきかもしれない。作中におけるアンドレオッティはまるで戯曲の主人公のようだ。

https://m.youtube.com/watch?v=cw-qm-liCPA&pp=ygUVaWwgZGl2byBtb3ZpZSB0cmFpbGVy

 映画が始まるのは1991年のローマである。アンドレオッティは第七期内閣の組閣が噂されており、栄光の絶頂にあった。彼の周りでは重要人物が次々と消えていく。裏金の管理役を務めた銀行家、マフィアの犯罪を捜査していた警察官、疑惑を追っていたジャーナリスト……そして、アルド・モーロも。そして彼だけが生き残った。

 そんな彼にも一つだけ悩みがあった。片頭痛だ。いろいろな治療法を試したが、どれもうまくいかない。今試しているのは鍼治療だという。
 片頭痛の原因とは何なのか。司祭への告解のなかで、モーロについて「いつもは忘れていても、思い出すたびに片頭痛がする」と彼は独白する。モーロ誘拐事件の際に、彼はモーロを見捨てる側に加わった。モーロは監禁中に何度も手紙を送り、そのなかでアンドレオッティを激しく非難している。

 後半からは検察の捜査により、アンドレオッティとマフィアや極右勢力との結びつきが次第に明らかになっていく。証言や証拠の数々が積み上げられる。彼の栄光が掘り崩されようとするなかで、―「君は跡形もなく消される」「果たして君はどんな人間として記憶されるかな」と、モーロの言葉が何度か響き渡る。モーロはアンドレオッティらによって生贄とされた。そのモーロの声を聴くたびに、アンドレオッティは「罪」を思い出さずにはいられない。モーロの声は殉教者の言葉だ。

 物語はアンドレオッティの裁判の場面で終わる。法廷に座るアンドレオッティの前に、「果たして君はどんな人間として記憶されるかな」というモーロの言葉が響く。上述のように、アンドレオッティは結局、裁判では無罪とされた。しかし、「鉛の時代」をめぐる彼の疑惑は晴れたわけではない。モーロの言葉は、イタリア人にも向けられたものなのかもしれない。

 「魔王」の失墜を描く本作は、イタリアの歴史を知るうえでおすすめの一本である。『夜よ、こんにちは』と共に、機会があれば観てほしい。

 


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