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月がきれいですね。

Carpe Diemを日本語で読んでいてあれ?と違和感を感じた。

Most of the time..,  Some things.., Other things..

Meistens.., Manches.., Anderes..

文頭に来て呼応する副詞が、日本語では、省略され、軽やかな文体になっていたから。

それで、思い出したのが、これ。丁度、今、一人称単数を読んでいる。

村上春樹の翻訳観とその実践
― 「文学四重奏団」から「レーダーホーゼン」へ― 

[ドイツのテレビ番組「文学四重奏団」(Das Literarische Quartett) で問題になった村上春樹論争。検証の結果あきらかになった二つの事実は、ドイツ人読者を驚かせることになっ た。]

『国境の南、太陽の西』も『ねじまき鳥クロニクル』も、
ドイツのデュモン社から刊行されているのだが、
どちらも日本語のオリジナル・テキストから
直接ドイツ語に翻訳されてはおらず、
英語の翻訳からドイツ語に重訳されたものであることがひとつ。
さらにドイツ語の翻訳が依拠した英語訳は、 
オリジナルの日本語テキストをかなり編集したものであったというのが
もうひとつの事実である。


村上春樹の新書、一人称単数。..

日本語の一人称は、僕、私、当方、小職、拙者、朕。。。バラエティ豊富だ。だから、僕だったり、俺だったり、、、違うタイプの「I」、違う気分の「自分」を表現できる。一人称単数なのに、複数のキャラクターを表現する。なのに、村上春樹は着ている服や聞く音楽などで、キャラクター説明をする。「l」から始まった英文Storyのように。

日本語を翻訳Appにかける時は、書かれていないSubjectとObjectをしっかり付け足す。そうしないと、とんでもない翻訳になるから。逆にいうと、主語や与格(Dative)を省略しても、何故か意味が通じるのが、日本語。なのに、村上春樹はSubjectをキチンと書いてる。翻訳機にかける前の日本語みたい。

Murakami haruki は、英文の枠で書かれた日本語の物語ではないか? 英文法を取り入れた日本語。英文に訳されるための日本語。しかし、必ずしもそうではないらしい。

村上春樹の 「非翻訳文体」

村上春樹の作品には米文学の影響が大きい、 
という考えが広く流布している。 
台詞や比喩表現等に 
米文学からの影響が見られることは明らかであるが、 
本稿はその文体自体は必ずしも英語的ではない、 
ということを論証するものである。

私は、他言語での読み比べってしない。時間がないから。長編も、日本語でサッと目を通して、時間ができたらじっくり読もうと思っている。でも、英文だとMurakami Harukiは、割と読みやすいのかも。

今、読んでるルシアベルリンは、“心理描写はない、事実描写である”。という本のあとがきを読むまで、気づかなかった。戦後の、アメリカ周辺、政党のこと、階級が上層部でも、ヒルビリー的な、「なにか」を感じたから。 今、サッと読み返して、ビッっくりした。本当に事実描写だけ 。集中して思い描ける事実描写。なのに、心にズシン!とくる。

ドイツ語のAudiobookを探しているときに、彼女が大学で講義していたときの生声を聞いた。

「1人の女の子が図書館で、ふと手にしたのが私の本だったらいいな。」

何を期待して文章を書いていますか?という質問にそう答えていた。


夏目漱石が「愛してる」と訳さなかった、という都市伝説は、文化の翻訳を象徴する。でも、多分、究極は、こんなことじゃないかな。simple に。みんながわかる文を書く。みんなが楽しめる本に翻訳する。




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