【公演レビュー】2022年12月3日/オーケストラ・トリプティーク第10回演奏会

好企画を生かすには気配りも必要

~曲目~
黛敏郎:パッサカリア(1997)
国歌「君が代」(黛敏郎編曲)
芥川也寸志:GX CONCERTO(1974)
-休憩-
三木稔:交響曲「除夜」(1960)初演
-休憩-
水野修孝:交響曲第5番(2022)委嘱作品・初演
鹿野草平:よみがえる大地への前奏曲(2011)
※当方の都合で水野 鹿野作品は未聴※

プログラム・演奏内容は称賛に値するが、主催者の聴衆への配慮が足りない部分が散見された。

まずプログラム冊子を配るなら、どこで何分の休憩が入るか記して欲しい。この日は別のアーティストのチェキ会に参加するために早退したが、さほど遠くない場所で行われたから、休憩の位置や時間が予め分かっていれば、最初の休憩で中座してラストの2曲に間に合うように戻ってこられた。
例えば今年の春に都内で開催されたジャパン・アーツ主催のブラームスの室内楽連続演奏会の場合、タイムスケジュールが事前に分かったので、必要な曲目のみ聴き、空いた時間にチェキ会へ行けた。
当方の都合はともかく、小腹が空いたらどうしよう、化粧室を使うタイミングなど思案している聴衆はいるはずでタイムスケジュールは明確にするのが社会通念だろう。

また聴衆を出迎えるスタッフの態度も首を傾げた。当方の前で妙齢の夫人が機械に手をかざして体温計測と消毒をしていたが、センサーの反応が良くなかった。普通、2回もやってダメなら「もういいですよ」で通すものだが、入口のスタッフはちゃんと反応するまでやらせるので女性の手はアルコールだらけになり、不愉快そうな顔をしていた。もし客が村田兆治ならスタッフは確実に殴られただろう。
空港のセキュリティチェックなら社会秩序維持のため「合格」までやるのは当然だが、申し訳ないが満席とは程遠いコンサートの入口で行う消毒である。協力的な客なら頃合いで済ますのが常識。
この件に限らず、接客スキルの欠落したコンサートスタッフは意外にいる。サービス業の認識がないようだ。

付け加えれば、コンサートのMCが挨拶せずにいきなり話始めたのも引っ掛かった。「こんばんは」「ようこそお越しくださいました」「よろしくお願い申し上げます」くらいあっても罰は当たるまい。
亡き黛敏郎は毎回必ず「お待たせ致しました。《題名のない音楽会》です」とスマートに挨拶していた。

黛敏郎の創意から音楽の過去と現在を想えた

音楽の話を最後にちょっと。
黛敏郎の未完の絶筆「パッサカリア」は初演時にカットされた部分も含めて取り上げた。緩やかに進む楽想の隙間からバッハのブランデンブルク協奏曲第5番、スッペの「軽騎兵」序曲、ベートーヴェンの交響曲第7番の第1楽章が明滅し、さて次の展開へ加速というところで絶える。
かつての山本直純による高級パロディをシリアスミュージックでやろうとしたのか、はてはショスタコーヴィチが交響曲第15番で創り上げた緻密なコラージュを短い時間軸で試みようと目論んだのか、「パッサカリア」と題したのはブラームスの交響曲第4番の終楽章と繋がる(冒頭のタッチは同楽章と近似性がある)のか…想像が膨らむ。
「君が代」は黛敏郎らしい雅楽の質感を西洋の楽器で具象化した編曲。元々雅楽畑の人間が旋律を紡ぎ、「お雇い外国人」エッケルトが西洋式の和声を付した曲だから、黛敏郎の編曲スタンスは原点を見据えたトランスクリプションといえる。

芥川也寸志のエレクトーンの性能PR用協奏曲は、前半の雰囲気が菅野光亮による映画「砂の器」(野村芳太郎監督・橋本忍脚本)の有名な劇中曲「宿命」にそっくり。この協奏曲と映画「砂の器」は同時期の作品で芥川也寸志は映画の音楽監督をしていたから不自然な話ではない。なお、原作では犯人の作曲家は特殊な電子楽器を操る設定だった。作品後半は芥川調の疑似カバレフスキーのハキハキ系音楽。

「コンクールに出したが、規定にとらわれず書きたい編成で作ったら審査もされずに送り返された」らしい三木稔のやはり特殊な電子楽器の使用を想定した(本演奏会は作曲者の生前の諒解に基づきエレクトーンで代用)交響曲「除夜」は、黛敏郎の涅槃交響曲をさらに肥大化した感じ。はっきり言って展開力のない曲で退屈だった。
ただ、後年三木稔が創る邦楽アンサンブルとオーケストラの巨大編成の「急の曲 Symphony for Two Worlds」(1981)の起源を微かに感じた。もっとも「急の曲」は「除夜」より遥かに練られた音楽で国際的評価も得ている。

※文中敬称略


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