「カープ紳士」阿南準郎さんを悼む

三原野球との出会いから指導者へ

元広島東洋カープ監督の阿南準郎さんが、7月30日に86歳で逝去した。
現役時代の阿南さんはカープの内野手として活躍、後にカープの黄金時代を築く古葉竹識(1936~2021)さんと二遊間、三遊間を組んだ。
阿南さんの転機は1968年、近鉄バファローズへのトレード移籍だった。
浜田昭八の名著『監督たちの戦い』(日経ビジネス人文庫)には、阿南さんがトレードをどう受け止め、近鉄での日々から得たものが記されている。

67年秋、近鉄へのトレードを通告された広島の阿南準郎は、引退を決意した。30歳になり、そろそろ将来の生活設計を考えねばならなかった。《パのお荷物》と軽べつされているボロ球団へ移籍しても、明るい未来が開けるとは思えなかった。
だが、監督が三原になると聞かされて、引退を思いとどまった。広島の一内野手の目から見ても、敵将三原は魅力的な野球をする人物だった。
阿南が引退を考えるのも当然と思えるほど、当時の近鉄はひどかった。
50年の2リーグ分立時に誕生し、67年までの18シーズン中、13シーズンが最下位。Aクラスになったのは、《春の珍事》と騒がれた54年の8球団中4位が1度あるだけだった。
三原が監督に就任、阿南が移籍入団する直前も、4年連続で最下位だった。
近鉄での三原は、別人のように選手にやさしかった。
阿南は三原から《先輩》と呼ばれた。代打や守備固めで出るときは《先輩、行ってくれや》と声をかけられた。選手を扱う姿勢はクールだという印象を受けていたが、情に厚いのが意外だった。
万年最下位チームの意識革命などと肩ひじ張らず、ナインの顔ぶれと性格を見て、それに応じた手を打つのに、阿南は強い感銘を受けた。
《先輩》は信頼のあかし。任せるから若手を引っ張れということだと解釈した。
阿南はのちに広島監督に就任するが、山本浩二や衣笠祥雄との接し方で《先輩》方式を参考にした。

浜田昭八『監督たちの戦い[決定版]・上』(日経ビジネス人文庫;2001年)pp.357-pp.358

当時のカープの首脳陣は、阿南さんを幹部候補生と考えて三原監督のもとで違った野球を勉強させたかったのだと推測する。
先述の古葉さんも野村・ブレイザーの体制の南海ホークスに移籍し、選手・コーチの立場で多くを学んだ後、カープの指導者となった。

1970年に引退した後、3年間バファローズのコーチを務めた阿南さんは、1974年にコーチでカープ復帰。1975年途中から古葉さんが監督就任すると右腕として支えた。

モチベーター型指揮官の先駆け

1986年、古葉さんの退任と山本浩二氏のプレイングマネージャー固辞を受けて阿南さんはカープ監督に就任。
1年生監督ながら強力投手陣を擁して優勝争いに加わり、意外なヒット人事と評価される一方、2割ラインをうろつく打撃不振の衣笠祥雄さんを起用し続けたので「連続試合出場記録におもねっている」と批判を浴びる。
しかし、阿南監督は「アベレージは問題じゃない。後ろ姿で選手を引っ張ってくれるから。見えない貢献がある」と意に介さなかった。
同年のセントラルリーグは混戦模様となり、8月からカープとジャイアンツのデッドヒートに突入。一時はジャイアンツが5ゲーム以上リードしたが、カープは投手中心の守り勝つ野球で追いつき、9月23日にマジック14が点灯。その後も接戦を拾い10月12日に1984年以来のリーグ優勝を果たした。
逆にひっくり返されたジャイアンツの王貞治監督は3年連続のV逸となり、投手陣とコーチの関係など管理能力に疑問が呈され始める。翌87年にようやくリーグ優勝したものの、結局88年に再び優勝を逃して更迭された。

1986年の日本シリーズはカープと森祗晶監督が率いるライオンズ、1年生監督同士の対決だった。カープは3勝1分けと先行するも、第8戦までもつれる激戦の末敗退。山本浩二氏はこのシリーズを最後に現役引退した。
個人的な話だが、1986年は私が初めてリアルタイムでテレビ観戦して「日本シリーズ」を知った機会で、40年近くを経たいまなお様々なシーンが子供心の記憶に残っている。また阿南さんの背中の「ANAN」を最初「アンアン」と読み、カープファンの亡き父に笑われたのもいい思い出。

阿南さんは黄金時代が一段落しつつあった過渡期のチームを率い、要所で世代交代を進めつつ、冒頭で記した三原さんの「先輩」を参考にベテランの顔も立て、厳しい勝負師タイプの古葉さんとは対照的に穏やかにチームをまとめた。
上記の日本シリーズの山場で山本浩二氏への代走をためらって勝機を逸するなど監督として多少の弱点はあった。しかし、前任者の古葉さんが阿南さんの監督2年目の1987年からホエールズ監督に就き、コーチやスカウトをカープから引き抜いた状況で優勝後の2シーズンもしっかり3位を確保して「本命」山本浩二氏に禅譲、球団フロント入りした。
衣笠祥雄さんの死後、追悼のラジオ番組に出演した阿南さんは「衣笠、山本浩二がチームを引っ張ったおかげ」「2人が《任せて下さい》と背中を押してくれたから監督ができた」と述べた。

近年、選手気質の変化とデータの充実を背景に、統率型や智謀型とはひと味違う、選手に気持ちよくやらせながら方向付けするいわゆるモチベータータイプの監督が注目されている。
尖った顔ぶれの揃ったチームを名将から引き継ぎ、一定の成績を残しながら次代の監督に軟着陸させた阿南さんはこのタイプの先駆けだった。

〔参考文献〕

浜田昭八『監督たちの戦い 決定版・上』(日経ビジネス人文庫;2001年)

山本浩二『野球と広島』(角川新書)


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