プロ野球賢者の書(特別編)【村田兆治と稲尾和久、王貞治の縁】

本稿の趣旨はこちら。

「人生先発完投」

2022年11月11日に逝去した村田兆治は100勝、150勝、200勝を全て完投もしくは完封で飾っている。
加えて1990年の通算600試合登板と現役最終登板(604試合目)はいずれも当時最強軍団の西武ライオンズ戦。前者は1-0の完封勝利、後者は5回コールドながら無失点で通算215勝目をあげた。
サインに記す言葉は「人生先発完投」。
プロ入り当初はリリーフ起用も結構あったが、いつしかきれいなマウンドから「マサカリ投法」で剛速球とフォークを大胆に投げ分ける姿が川崎時代のロッテの中で数少ない客を呼べ、引き付けられる存在として際立った。

村田兆治と繋がりの濃かった球界の先達といえば400勝投手の金田正一。2度の監督時代のいずれも村田は主力投手だった。1974年日本シリーズでは計4試合登板して胴上げ投手となり、カネやんロッテの最初で最後の日本一に貢献。金田が監督復帰した1990年に上記の通り村田は二桁勝利をあげながら、惜しまれつつ引退している。
2人の関係は村田自身があちこちで語ったからここまでにして、本稿では稲尾和久、王貞治と村田兆治の繋がりをひもとく。

「神様、仏様、稲尾様」と「マサカリ」

稲尾和久と村田兆治は1984年~1986年の3シーズン、監督と選手の間柄だった。1983年にトミー・ジョン手術を受けた村田が約2年の苦しいリハビリを経て復帰した時期にあたる。

稲尾が村田をどう見たかは自伝『神様、仏様、稲尾様』(日経ビジネス人文庫)に詳述されている。

(1985年)シーズン開幕を前に私は村田に言った。
「おまえの腕で、故障しても再生できるんだということを証明してくれないか。お前だけの問題じゃない。プロ野球のすべてのピッチャーに、こうやればできるんだと見せてやってくれ」
まだなまなましいヒジの手術あと。そこだけが陥没してへこんでいるように見えたのは、周囲の筋肉が恐るべき執念で鍛え上げられ、隆起したからだった。復活の準備は整っていた。
登板は中六日の週一度とした。「サンデー兆治」の誕生である。開幕からの11連勝を含む17勝(5敗)で、彼は見事に蘇った。

稲尾和久『神様、仏様、稲尾様』pp.249

続きは以前の「プロ野球賢者の書」でこの本を掘り下げた下記リンク記事を御覧いただきたい。自身現役時代の後半に肩の故障を克服した稲尾の村田に対する熱い思いが覗える。

付言すると稲尾はこんな挿話を記した。

村田がピンチになったある時、マウンド上で「ここを抑えたら、こんなステーキおごるぞ」と激励したことがある。自分自身がかつて川崎徳次さんにそう励まされて好投したことがあったからだ。腹をすかせていた昔の選手は単純にそれで燃えたが、今の選手は違う。村田は「その肉の量じゃ、野菜もバケツ一杯食わなきゃ」。そんな今風の栄養理論は身につけていたが、彼はまぎれもなく”野武士”だった。

前掲書pp.250

「世界の王」と「マサカリ」がベンチに並んだ時

村田兆治が引退後プロ野球で常勤コーチをしたのは、福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)における1995年~1997年の3シーズンのみ。
この仕事は1994年秋、翌年からの監督就任内定の段階で王貞治が直々に要請したもの。村田はよほど嬉しかったのか、正式発表前に評論家を務めていた日刊スポーツの記者に「スクープ」を提供している。

実は当時ホークスのフロントを仕切る根本陸夫の「個人的本命」は元広島カープ監督の古葉竹識だった。九州(熊本)出身であり、生え抜き選手を育てて勝つ野球ができ、根本がカープ監督時代の正二塁手で人間性も熟知していたからだ。
しかし、新球場福岡ドーム(現PayPayドーム)を埋められる人材が必要な事情から、ダイエーグループとして王招聘でまとまった。最終的には根本の王への「三顧の礼」になったが、内部で微妙な温度差が存在した。
それがコーチ人事に表れる。達川光男、高橋慶彦、寺岡孝となぜかメインポストはカープ系の人材ばかり。おそらく「仲人口」を塞がれた根本のささやかな抵抗で「古葉構想」をそのまま持ち込んだと推測する。
唯一、王が自らの意向で選んだのが一軍投手コーチの村田兆治だった。起用の理由は恐らく、王にとって未知のパシフィックで勝負するにあたり、数年前まで現役でしかもパシフィック一筋の村田は側に置くのに好適だからに加え、上位浮上に必要な投手力の向上のため、厳しく鍛えられるコーチを求めたからだろう。

だが、シーズンが始まると接ぎ木コーチ陣がチームと王を苦しめる事態になる。
殆ど王と村田が相談しながら練習や試合を進める一方、他のコーチの意見はあまり汲まれず、この状況がメディアに漏れた。さらにコーチ間の意見の相違から達川が体調を崩し、1年で退団。「不協和音」を見過ごした王の管理能力が疑問視された。

村田は王の期待を受けて精力的に動き、野手にも声をかけ、キャンプのブルペンや打撃練習で自ら投球の手本を見せた。ところが、村田コーチのあまりの迫力にか弱いホークスの若手選手たちはかえって自信を無くす始末。
懸念の通り投手陣の低迷からチームは下降線をたどり、「村田!お前が投げろ」というヤジが飛んだ。
コーチ3年目の1997年に村田はストレスから心臓発作に見舞われ、この年限りで高橋慶彦、寺岡とともにホークスを去った。

代わって同年加入の若菜嘉晴がバッテリーの再構築のために城島健司を鍛え始め、翌98年にV9のショート黒江透修が助監督として王の相談相手となる。ここからホークスのベンチは少しずつ安定し、強いチームに変わっていく。

村田の訃報に接した王は球団を通じたコメントで「ずいぶんと苦労をかけてしまった」と労りの気持ちを表した。

※文中敬称略

【参考文献】
浜田昭八『監督たちの戦い[決定版]・上』(日経ビジネス人文庫)

村田兆治さんの御冥福をお祈りします。

この記事が参加している募集

野球が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?